第07話「嫉妬」

 大変よい気分で家族との融和が図られた翌日。俺の心を数年来感じたことのない、素晴らしく強烈な衝撃が襲うとは、神ですら知らなかったであろうと思いたい。


 きっかけは、旅商人のハリーが見せてくれた、よれよれになった新聞記事だった。


 この村では、王都の情報など、よほどのことがない限り早々入って来ないし、またほとんどの農民は興味すら示さない。


 極貧に近く、ほぼ三百年前と同じ生活様式を営み古臭くカビの生えた共同体を維持する村人にとって、伝聞や変革は重要ではなかった。


 墨の薄れた文字の読みづらい記事には、この春――といってもひと月も前のことだが――王都で再び現王であるレオムルスの懐刀で知られる宰相ブラッドリー・メラーズの邸宅に向かって公然と反旗を翻した一軍が兵馬を発したという事実だけが端的に綴られていた。


「おいっ! こりゃあ、いったいどういうことなんだっ!」

「ちょっ。隊長さん、オレもそこに書いてあること以外にゃ、たいした情報は持ち合わせていませんよっ!」


 ちょうど詰め所に物資を納入していたハリーから受け取った新聞だ。

 前後の見境がつかなくなった俺は大男である彼に食ってかかるよう飛びついてから、つばきを飛ばして野犬のように騒ぎ立て、相当な時間をおいてようやく冷静に立ち戻ることができた。


「レオムルス陛下やご一族の方々はご無事であらせられるかっ!」

「落ち着いてくださいって。だいたい、そこに書いてあることはとうに終わった話ですって。少なくともこの件で傷ついた王族や貴族はいなかったって話です。宰相さまは、ちょうど外出していて、少数の賊徒は近衛軍の手によってたちまち誅滅させられたとか……」


 この件で討たれた王族はいない。俺はホッとして息を吐くと、ギョッとした顔でこっちを見ているチャーリーたちに気づき、恥ずかしくなって怒鳴り散らした。


「そういえば隊長は、前は王都にいらしたとか聞いてますけど。その取り乱しよう。貴族やお偉いさんに知り人でもいたんですかな」

「いや、俺は……」


 ハリーに真正面から聞かれて口ごもる。


 レオムルス王は祖国統一戦争を勝ち抜き、若くして戴冠したがその政権は盤石とはいい難いが、俺はかの王をよく知っている。鼠賊や小物がどれほど暴れても、そう簡単にやられるとは思っていない。


 俺がまず、はじめに心に面影を思い浮かべたのは、王妹であるピラル姫の別れ際に見せた泣き顔だった。


 ピラル姫。

 彼女の艶やかな黒髪や小鹿のように小さく明るさに満ちた表情を思い出すたび、胸が深く疼く。


「どうしたんですか。黙りこくっちゃって」

「ああ。ただ、昔の同僚が今でも王都では近衛隊に何人もいるから。びっくりしただけだ」


「ふうん。そうですか。でも、叛徒たちはあの高名なヴァレンチン公爵が残らず平らげたって話で、王都はすでにいつも通りの安寧を取り戻しているって話ですよ」


 ヴァレンチン将軍――!


 まさか、こんな辺鄙な村でその名前を人から聞くことになろうとは。

 ハリーはそのあとも、王都の乱に絡めた四方山話をひとしきり語っていたが、どうにも俺の様子がおかしいと感じたのか、気を使って退散していった。


 どのくらい放心していたのか。俺はくしゃくしゃになった新聞を握り締めたまま、部屋の中央で阿呆みたいに突っ立っていた。


 追い散らされたチャーリーがすごすごと戻ってきたところで、俺は彼らに八つ当たりをしたことを詫び、幾らか握らせて笑顔を取り戻させると、詰め所でひとりになって思い出したくもない過去のことを、脈絡なく次々に脳裏へと浮き上がらせていた。


 窓の向こうにはサーッと細かな雨の音が間断なく鳴っている。どこか潮騒のようで、頭のうしろのほうが鉛を詰め込んだように重たく、だるくなってくる。


 ヴァレンチン将軍は俺をこの辺境の地〈ティスタリア〉に左遷した、それこそ憎んでも憎み切れないほど恨みがたっぷりと詰まった、膿の溜まり切った腫瘍のようなものだ。


 やつは、俺が王の妹君であるピラル姫といわゆる近しい関係であったことを、過剰に恐れていた。


 当時十八歳だった俺は祖国統一戦争で数々の武勲を上げ、“火神”の二つ名で呼ばれるほどイケイケだった。


 特に目立っていたのが、王太子軍の補給庫であったミヨルニルの街における防衛戦だ。


 街のすぐ前を流れるエスラーニャ河畔の戦いにおいて、俺は援軍が到着するまで、たったひとりで、二十万の敵軍を足止めし、ミヨルニルの街に一歩も近づかせなかった。


 もちろん、季節風で乾いた砂嵐が風下の敵軍の視界を完全に遮断した幸運もあったが、自分自身の力も今では考えられないが神がかっていた。


 得意の火術で屠った敵兵は四〇〇〇余名。

 といわれているが、実際のところはあらかじめ内応をしかけていた諸侯が土壇場になってこちら側に寝返ったという部分も大きかったはずだが、虚実であっても世界や民衆はありえない英雄を俺のなかに見たのは間違いなかった。


 たかだが十八のガキがロムレスの救い主と持ち上げられれば増長するのは致し方がなかったし、世間や軍がそれを望んでいたこともある。


 平時ではありえないことだが、俺の活躍を耳にしたピラル姫は積極的に会見する場を兄である現王に懇願し、そして俺自身も彼女の聡明さと美しさに溺れるようになるまで時間はかからなかった。


 上官であり、大領の領主であったヴァレンチン公爵と並ぶように若くして将軍位まで受けた小僧を快く迎え入れるほど宮廷政治はやさしくなかった。


 特に、王太子旗揚げからつき従っていた諸侯たちは、俺がピラル姫と婚姻を結び、大きな軍権を得て自分たちの既得権益を侵されることに恐怖を覚えたのだろう。


 俺は、ありもしない王に対する反乱の罪を被せられ、たちまちののち実質的な権利を剥奪され、隣国ユーロティアの国境線まで弾き飛ばされたのだ。


――ジラルド。なにもかも捨てて、わたしを連れて逃げてくださいませ。

 王都を立つ最後の晩。ピラル姫は、夜の闇を溶かしたような黒い髪と黒曜石のような同じく黒い瞳を震わせ、胸に取りすがって泣いた。


 できるわけがない。


 少なくともそんなことをすれば、俺たちは追われる身となるはずだし、なにより蝶よ花よと育てられた姫に、泥を啜るような逃亡生活や刻苦を味わわせることは考えられなかった。


 今や、すべてが過ぎ去りしこと。

 新聞の記事を見れば、宰相の館を襲った青年将校は、あきらかにヴァレンチン将軍が子飼いにしていた男の名だった。


 世間はすべてを承知していて、ヴァレンチンがトカゲのしっぽ切り。すなわち黒幕が自分であることを隠蔽するため、手ずから部下を処断したことを黙認したのだ。


 そのくらい、あの男の権力は王都において強かったのだが、記事の論調を見れば、かのヴァレンチンから求心力が薄まっていることが読み取れた。最盛期であった頃ならば、この記事を書いた新聞社は縛り首にされているだろう。


 そういった意味で、やや力を失いかけたあの男がこれからなにをするのかと思えば、遠く離れている俺ですら不安を隠しきれない。


 今の俺にはユリーシャとミーシャがいる。失いたくないものができたのだ。


 雨の音が強まった気がする。

 震えが止まらなくなってきた。


 やつらが恐ろしいのではない。目を背けていた事実と、やっと手に入れたはずの確かなものが、手のなかで音を立てて崩れていくのを見たくないだけだ。 


 もう飲まないと決めていた酒瓶に手が伸びた。

 目がチカチカする。知らず、口を切ると濃い酒精を呷って胃の腑にそそいでいた。


 強烈な火が腹のなかで踊る。これが踊ると身体がほんの少しだけあたたまり不安が遠のく。


 軍のやり口はよく知っている。


 俺が中央から追放されたのちも、西蛮であるステップエルフとの国境紛争に、わずか十六かそこらの小娘を担ぎ上げストリアの丘の戦女神なぞ噴飯ものの偶像を作り出したと聞いていた。


 俺は少なくとも、ガキの頃から従軍し、火属性魔術においてはロムレスで並ぶ者なしという経験と自負があったが、津波のように押し寄せる敵勢に、ポッと出の娘が飛び込んで敵将の首を八十七も取るというのは「虚」であるとしかいいようがない。


 いつしか西蛮攻めの戦女神の名も聞かなくなって久しい。そういえば、その女神の名はどこかで聞いたことがあるような気がして……ダメだ……また上手く思い出せない。


 気づけば俺は詰め所の床に、空になった酒瓶を抱えて倒れ込んでいた。


「帰ろ……」


 激しい寒さを感じ、よろばうようにして歩き出す。

 酒の気が身体じゅうから消え去ると、途端に心細くなった。

 俺は道に迷った子供のように、降りしきる雨のなかをぼんやりとした足取りで歩き出していた。






「ジラルド。毎晩、夜じゅう魘されているようだが……よければ、私に話してくれないか」


 朝食を用意していたユリーシャが心底心細げな目で俺の顔を覗き込んでくる。


 膝の上のミーシャもパンの切れ端をかじったまま悲しそうにくふんくふんと喉を鳴らしていた。


 やめる――でなければ減らす。そう強く心に誓ったはずなのに。あの日、新聞記事を読んでから、俺は毎晩異様な夢に魘され、再び酒に溺れる日々を送っていた。


「べ、別に心配することじゃねえ。それよりも、飯にしよう」

「なにか、私に力になれることはないのか?」


 ふわりとした甘いような匂いが漂った。

 猛烈に感情が激して、泣き出したいような喚きたいような気分になるが、ぐっとこらえた。


 大丈夫だ、大丈夫だ。悪いことは起きない。でも、悪いことって――なに?


「酒、やめられないのか……?」

 恐る恐るとユリーシャが蚊の鳴くような声で訊ねてきた。

 わかってる。


 実際、自分が酒に頼らなければ寝ることもできないこと。酒がなければ、無限に沸いて来る根拠のない悪夢に耐えられそうもないこと。


 己の恥部を鼻先に突きつけられたような気がして、手にしたカップに力が籠った。びき、と。ヒビが入って陶器が四散した。


 驚いたミーシャが膝の上から転がり出ると、ユリーシャの胸に飛び込んでわんわんと泣きはじめる。


 激しい罪悪感が襲ってくる。すっと虚脱するように座っていられなくなり、横倒しになった。


「ジラルドっ。どうしたんだっ!」

「おとーしゃっ、おとーしゃっ!」

「ちょ、あ。ごめん……平気だから」


「ぜんっぜん平気には見えないっ。待ってろ、今すぐ医者を呼んでくるからなっ」

「落ち着け、そもそもこの村に医者はいない」

「おとーしゃああんっ」


 怖がって逃げ出しはずのミーシャが俺の頭を小さな身体でひっしと抱え、なにか見えないものから守るように全身の毛を逆立てていた。


 面目ない。というか俺は完全に心の病気だろう。しばらく休んでから詰め所に向かった。


 おざなりに軍務を行う。やる気などハナから雲散霧消している。隊長がこれなら、部下たちは……と思うのだが、こいつら俺が飲んだくれるときに限って危機感に駆られ、やたらと働き蜂のように勤勉になる傾向がある。これならずっと、廃人のほうが世のため人のためってか。あはは。


 ぐだぐだしながら、生きてるか死んでいるかわからない日々が流れてゆく。


 あれから一週間。酒量は増水期の川のように増えるばかりだ。絶対身体によくない。


 詰め所ではかろうじて飲まないようにしている。ユリーシャにせめて私の目のつくところで飲んでくれと頼まれればそれくらいは守らなければと、わずかばかり人間側の境界線にギリギリ立てている。


 青い顔でガブガブと茶を飲んでいると、これまたさらに深刻そうな顔つきをしたハンナがチャーリーたちを連れ立って近づいてきた。


「少し、お話があるんすが。あの、驚かないで聞いて欲しいっす」

「な、なんだよ。みんなで怖い顔して。まさか、もう飲んだくれの顔見たくないから、全員一度にやめます、とかじゃないだろうな」


 ハンナが無知な蛮族を憐れむような目で俺を見た。なんでだ。


「奥さま。ユリーシャさんのことっすよ――」


 俺はハンナの言葉をすべて聞き終わらないうち、手にしたカップを足元に叩きつけ、その場を駆けだした。






 嘘だ中傷だやっかみだ目の錯覚だ幻だ見間違いだあり得ない――!

 まさか俺だけじゃなくて、世界中の人間が酔っぱらっているのか?


 ハンナがいった言葉を、チャーリーがスタックがトマスが補完した。

 幸か不幸か、騎士団の人間以外には知られていないらしい。


 なにしろ、それを見つけたのも、村からかなりはずれた場所で、意図的に待ち合せなければ見回りをする騎士たち以外は誰も寄りつかないような場所だからだ。


 胸の奥が燃えたぎって熱い。全身から嫌な汗がどくどくと流れている。

 額から流れ出る尋常ではない汗が、その森の奥に消えてゆく一組の男女を目にしたとき、恐ろしいほどに、ピタリと止まった。


 女性はなかなかの長身だが、男のほうはそれに輪をかけて巨躯だった。


 なるほど。確かに俺なんかよりもはるかにお似合いのカップルだ。あれなら、キスをするときもアレをするときも、互いに無理な体勢を取る必要がない。


 女は、ついぞ見たことのない自然笑顔を浮かべると、男と向かい合って仲よく談笑している。 


 夢だ。これは悪夢だ。俺はこんなこと認めない。惨めさに拍車がかかり、もう直視していられなかった。


 ギュッと目蓋を閉じた。もう一度目を開けば、少なくとも仲よく寄り添っているふたりの影が樹木かなにかの自然物の見間違いでありますように。


 若い女の声が聞こえた。


 ――目を開けるんじゃなかったと、心底後悔した。


 そこには、妻であるユリーシャが旅商人のハリーの胸元に飛び込んでいる紛れもない事実だけが、残酷なくらい明白に映し出されていた。


 俺は奥歯をそれこそ割れるんじゃないかと思う勢いでガチガチやりながら、正気を失わないよう腰のスキットボトルに残っていた最後の拠りどころである酒精さまを胃のなかにお迎えした。


 とりあえず妥当な線だ。亭主はうだつの上がらない小男で酒狂い。おまけにアッチのほうはまったく役に立たないと来たら、責めるほうが悪いというものだ。


「ジラルドさま。さすがに、今日は飲み過ぎなんじゃぁ」

「うるせえ。殺すぞ」


 たぶん、本気で思っていたのか俺の視線には尋常ならざる殺意が込められていたのだろう。


 酒場の主人はみなぎる殺意のうずをもろに受けて、カウンターのなかを後退し、背後のずらりと並べてある酒瓶の列を薙ぎ倒して、客たちの失笑を買った。


 今日くらいはさすがに飲んでいいだろう。寝取られ男の憂さ晴らしだ。

 飲んだ。久々に前後をまるで考えず飲んだ。

 考えてみれば、今まで目に見えないなにか縛られていたかのようだ。


 気持ちがいい。俺はすべてから解放されたのだ。そう思わなければやっていられなかった。


 天地が逆さまになるどころか、世界と自分との境界線があっという間に揺らいでいく。


 そこに苦しみはない。苦しみはいらない。苦しむ必要はない。

 妄想のなかで一糸纏わぬふたりが肌に玉の汗を光らせ絡み合っている。


 あらゆる一切合切が色を失っていく。強がっても仕方ない。

 俺は君を愛していたんだよユリーシャ。

 最後に残ったのはキリキリと胸を締めつける鋭い痛みだけだった。






 ぐでんぐでんに酔っぱらったが、なんとか自力で家に帰宅した次の日。果たせるかな、俺の地道な聞き込みの結果、ユリーシャはミーシャを近所の家に預け、誰にも知られないようにハリーと密会していた事実が浮き彫りになった。


 他人の口からそれを聞くまでは、森で見たことは酒が見せる幻影かなにかなのではないかと、心のどこかで願っていた部分があったが、最後のわだかまりもこれで消えた。


 目の前に突きつけられたことがすべて事実。


 思っていたほど落胆がなかったのは、どこかで覚悟を決めていたからであろうか。ともに閨をともにしていても、ミーシャを引き取って以来そういうことをしようと積極的に迫ったことはなかった。


 かつて、まだ若く少年だった頃。同輩だった女房持ちもやつらがいっている艶話の意味はまったくもって実感できなかったが、その悪夢をこうして我が身で味わうようになると、時の流れとは因果なものだと思わずにはいられなかった。


 女房は放っておけば自分の才覚で処理する、と。


「ジラルド。本当に休んでいなくていいのか?」

「あ、ああ。だからダイジョブだって。酒はもう抜けたから」


 昼に詰め所から家に戻るとユリーシャはいつもの態度で俺のことを気遣った。


 あれから、嫌な妄想がまったくもって頭の隅から離れなくなってしまった。


 予告なしに、我が家で妻と間男の逢瀬を見つけてしまったら、俺の心はどうなってしまうんだ。

 破滅願望でもあるのだろうか。いよいよ崖っぷちといったところだ。


「おとーしゃ、おとーしゃ。おとーしゃがかえってきたー」


 考えれば扉を開けた瞬間ミーシャが走り寄って来ている時点で異物がこの家に潜り込んでいるはずもない。


 俺は膝にぶつかって来て甘え声を出すミーシャを抱き上げると、ぱたたと駆けてきたユリーシャに引き渡した。


「やだー。おとーしゃ、おとーしゃっ」


 ミーシャは目に涙を浮かべて、犬耳やしっぽをやたらに動かしている。ユリーシャは、ミーシャを豊かな胸にギュッと抱き寄せると、諭すようにいった。


「だめよミーシャ。お父さまはお仕事でお疲れなのだから。ね?」

「ううっ。でもぉ」


 ユリーシャは慈母のようにワガママをいうミーシャを懇々と教え諭す。その姿にうしろ暗い陰は微塵も感じられなかった。


 俺の心が瘴気を発する沼のように汚れきっているからであろうか。ユリーシャは、顔を近づけて覗き込んでくる。目は悲しみで染まっていた。


 無理もない。今朝の俺の顔ときたら、死人が土から這い出してきたばかりといってもいい過ぎでないほど酷いものだった。


「顔が青い。ほら、そこに座って。やはり酒が悪いのだ。ジラルド。あなたは悪くない」


 ユリーシャは唇を歪めて我がことのように、俺の額に浮き出た嫌な汗を丁寧に拭っている。


 彼女は、悪いのはあくまで酒と決めつけ、もう、俺を咎めることすらなかった。


 返ってその気持ちが痛い。


 ユリーシャは元々誇り高く、自分の信念を捻じ曲げない性格であった。それが、いつしか目の前にいる屑の鼻息を窺っておもねるようにまで歪めてしまった。


 すべて俺の責任だった。献身的な彼女の態度はとても俺を裏切っているようには思えないが、事実は奈辺にあるかわからない。


「な。お弁当を持たせておいてあれだが、せっかく戻ってきたのだ。昼食を食べて行ってくれないか」


 ユリーシャは不安げな表情で袖を引き引き、ささやくように耳元で告げる。


 特に断る理由もない。本音をいえば、こうしてユリーシャと向き合っていること自体が辛いが、いっしょにいれば監視が行き届き、彼女もあのことは一時の気の迷いとして忘れ去ってくれるかもしれないという下卑た気持ちを抑えることができなかった。


 俺は弱い人間だ。こうして信頼しきった眼差しを送ってくる彼女を憎み、侮蔑し、遠ざけようと思っているくせに、堂々と三下り半を突きつける勇気もない。


 料理は心尽くしだった。熱いスープに、精のつくようにと手の込んだ肉料理も逸品のはずなのだが、今の俺には砂を噛んでいるような気がしてならなかった。


「お代わりはまだまだあるんだぞっ。遠慮なくいってくれ!」

「うん、もらうよ」


 正直胃袋は石を飲んだように重たかったのだが、無理してパクつくとユリーシャは子供のようにパッと顔を明るくさせ、空の皿を運ぶときなんかは、長くてスラリとした脚がステップを刻みそうなくらい弾んでいた。


「ふふ。無理して食べればそのうち元気になる。ジラルドはこの家の主なのだからな」


 配膳を行おうとかがんだユリーシャの、深い襟ぐりから覗いた大きな胸の谷間が視界に飛び込んできて、不意に息が詰まった。


 ハリーのやつは、もう、このはち切れんばかりの乳房を好きなように弄んだのだろうか。


「ジラルド……? だ、ダメだ」


 気づけばユリーシャの手を掴んでいた。

 俺の瞳にいつもとは違うものが灯ったのに気づいたのか、ユリーシャはポッと頬を染めると恥じらって身をよじった。


 途端にムチャクチャにしてやりたい衝動に駆られたが、長く息を吐くとこらえた。


「悪い、冗談だ」


 なにがはじまるのかキョトンと見守っていたミーシャが、手をぱんぱんテーブルに打ちつけきゃっきゃっとはしゃぎ出した。


「じょうだんーっ」

「ほ、本当に悪い冗談だ。ミーシャも見ているし、私も恥ずかしい」


 ユリーシャは視線をさまよわせると、お盆で顔を隠して隣の部屋に逃げていった。


 本当にどうかしている。脳みその中身まで、酒精に漬かっちまったじゃないだろうか。





 眠れない。眠れるわけがない。愛馬である散星号に跨って見回りを行っているうち、どうにもこうにも気分が悪くなって、崩れるように落馬し、そこいらじゅうへとげえげえ吐いた。


「なにやってんすかっ。隊長! ああ、もお、しっかたないなぁ」


 幸か不幸か口取りをしていたハンナがすぐ駆けつけて、俺を近くの木陰へと引きずってくれた。


「頼む、頼むから……誰にもいわないでくれ……げうっ」

「ああっ。こんなこと誰にもいいやしませんてっ。ホラ、横になって。吐くだけ吐いちゃえば楽になりますからってっ! あたし水もらってきますから、下手に動こうとしないでくださいねっ。世話が焼けるなあ、もおっ」


 わかってる。すべて酒のせいだ。

 自分でも思うが、そろそろ洒落にならなくなってきたな。


 最近では、少しでも酔いが覚めると強烈な不安が襲ってくるようになって、酒量は例年とは比較にならないほど上向きになっている。喜ぶのは酒屋だけだ。


 そうえいば、最近ユリーシャが煎じて飲ませてくれる茶を飲むたびに、強烈な吐き気が込み上げてきて、胃のなかのものを全部吐き出してしまっている。


 もしかしたら毒かも知れないと思うのは穿ちすぎだろうか。

 でも、それでもいいと思ってしまう冷静な自分がいる。


「いっそ、殺せ」


 苦しい。問い質せない。悲しい。決定的な破綻をさけようとしている。

 俺が意志の強い人間であるならば、ユリーシャとハリーの関係をはっきりさせて前に踏み出すべきなのだろうかと思う。


 身体は相変わらず、いいやそれ以上に悪い状態になりつつある。ユリーシャの前で、もはや一滴の酒も口にすることはなくなったが、揺り返しは恐ろしいほどだ。


 酒精に対する飢餓状態がいつも頭のなかにうず巻いている。


 木にもたれかかって、わずかだがとろとろと眠った。眠りながら、昔のことを思い出した。


 夢のなかの俺はまだ十代だった。パリッとした黒の軍装に身を包み、身体と同じくらい大きな杖を手に持ち、小さな身なりのいい娘と話をしていた。


 軍人さん、この街にも悪いやつが来るのかしら――。

 少女はそういうと、銀色の髪を震わせ抱いていた熊だか犬だかの人形に顔を埋めた。


 ああ、そうだ。あれは俺の名を世に知らしめたエスラーニャ河畔の戦いの前の日だ。


 援軍もなく、わずか数百の手勢では糧食の豊かなミヨルニルの街を守るのは難しかった。


 軍部は街を捨てろと命を下したが、一旦我が軍に協力したこの街は、我らが放棄した時点で、目を覆うばかりの略奪凌辱の憂き目に遭うことはわかりきっていた。


 私、怖い。怖いわ、どうなってしまうの――?


 そう、純真無垢な目で見つめられれば、死んでも退けないのがロムレス士官だ。


 俺は、そうだ。彼女の小さな肩をすっぽり包んでしまうと、真っ赤な髪飾りを押し上げ、額にキスをするといったのだ。


 我が女神。我はロムレスの守り手“火神”ジラルドなり。我が、杖と誇りにかけて敵兵は一兵たりとてこの地を踏ませはしない。


 本当に――?

 ああ、本当だ。


 それが本当なら、あなたが帰ってきたとき、私があなたの――。


 遠い昔。約束をした。凱旋の日、少女には出会わなかったけれど。ボロボロになって血を流し、それでも戦った意味はあった日だった。


 あの約束はなんだったのか。それに少女の名は。


 あの日から十年と経たずに、この俺は英雄とは似ても似つかぬ屑に成り下がってしまった。


 栄光に包まれたジラルドという英雄は、もうどこを探してもいないのだ。






「んなっ」


 べろりと。

 あたたかなもので頬を濡らされ目が覚めた。


 頬を袖口でゴシゴシやりながら顔を上げると、そこには鼻息をふがふが鳴らして心配そうに寄り添っている相棒散星号の姿があった。


「心配してくれたのか……あんがとな」


 散星号は「ぶひひひん」と元気よくいななくと、黒々と濡れた瞳でしきりに顔をすり寄せてくる。


 馬という動物ほど愛情が深く、主を裏切らないものはいない。俺もこいつのおかげで何度も修羅場を切り抜けた。飛び来る矢をさけ、白刃を連ねて迫り来る敵兵を蹄にかけて、薙ぎ倒し弾いて死線を幾度もくぐり抜けた。


 年を取り過ぎたのだ。まだ二十代だが心の底からそう思った。


「なーに馬さんと語っちゃってんですかねぇ。隊長ってば、本当にさびしい人なんですから」


「うるっせ……。おまえ、ほんとうるっせーよな」

「ゲロ塗れの上官を見捨てないあたしの心根に少しはデレてくださいよぉ」


 ケタケタと笑いながらハンナが調達して来た井戸水を飲むと、幾らか生き返った気がした。


 彼女は彼女なりに俺を慰めようとしているのだ。

 ああ、まったく俺って男は人を見る目がこれっぽっちも備わっていない。


「隊長。これから、どうすんですか?」 


 ハンナは俺と背中合わせに座ると、真剣な話をするにはいさささか子供っぽ過ぎる高い声を出し、問うてきた。


 無論、ユリーシャのことをいっているのはわかるが、答えを持たない俺にはひとこともないのだ。


「あたし、隊長見てるの……つらくて」

「ん。心配かけるな」

「ね、よかったらなんすけど……」

「なんだよ」

「あたしを連れて、逃げてくんないっすかねっ」


 ハンナの緊張と期待が入り混じった語尾上がりの言葉に、固まってしまう。


 逃げるか。

 逃げることも考えてもいいのだろうか。


 いつまでも返答がないのがよほどこたえたのか、ハンナは四肢を弛緩させると身体の重みをこちらに預けてきた。


「あー。なんで上手くいかないんすかねぇ。自分」


 くしゃくしゃと髪を掻きむしる音が聞こえる。

 上手くいかないだなんて、そんなことは普通のことだ。


 そもそも人生なんて、上手くいったことを数えるほうがずっと難しいし、それらの成功体験は、ほとんどが離れた場所でゆらゆら揺れている蜃気楼のようなものなのだから。

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