第06話「商人」
翌朝、俺の評価は村落で一変した。放心状態のまま朝焼けを沼地で拝み、なんとか倒した蛇の遺体を村人たちに片づけさせているうち、俺に向けられる彼らの視線は憧憬と感謝と恐れが入り混じった強烈なものに変わっていた。
たぶん、今までの功績から鑑みればジラルドという王都から来た男は日がな酒に酔いしれ、毒にも薬にもならない都落ちした廃兵同然に捉えられていたのだろう。
が、ただのひとりで蛇を残らず打ち倒した――真実は違うのだが――と知られるや、素朴な村人は俺のことを天下無敵の豪傑と見て、敬慕の眼差しをそそぐことになった。
俺は諸事に忙殺されるのをいいことに、あれきり家には帰らず詰め所で仮眠した。それから紋切り型の報告書の作成をするふりをして現実逃避をしていた。
あまり王都にいる上の連中の目を引くような言辞を用いてはならない。ありふれた辺境のとるにたらない害獣を討伐したと、そのような形で書かねばどのような災禍が降りかかってこないとも限らないのだ。
「隊長っ。お疲れっす。お茶淹れましたんでひと息つかれてはいかがっすか」
明確に対応を変えてきたのはハンナだった。
彼女はあからさまに瞳を輝かせて、今までになかった熱い目線で俺を見つめてくる。
これは、ユリーシャを娶ったと知ったときは全く違う種の、あきらかすぎる好意の視線でいかな堅物で馬鹿な俺でもわかるものだ。
「ああ、悪いな。おまえも足を怪我してるんだろ。帰って休んでてもいいぞ……」
「そんなっ! 隊長が疲れた身体に鞭打って軍務をこなしているというのに、自分だけがのんべんだらりと惰眠を貪っているわけにはいかないっすよぉ」
なんだこいつ。
なんで、そんなしなだれかかるように近寄ってくるんだ。
俺は助けを求めるように、隣に座っていたチャーリーたちに視線を送ったが、彼らは吹き出すのをこらえているような顔をして、なぜかサムズアップしてきた。この野郎。
「ねぇん。隊長ぉ。あたし、昨夜の隊長の武勇伝、もう一度聞きたいなぁって……」
ハンナの猫のような目がとろんととろけた感じで怪しく光っている。怖い。
「もうその話はなんべんもしただろうが。しつこいぞ、おまえは」といっても、ハンナはなぜかしきりに肩に手を置くと、さわさわして指を淫らな感じで動かす。ゾクッと寒気が来て、カップを持ったまま立ちあがると「ああん」とか妙に色っぽい声を出した。
たかだが蛇の一匹や二匹ぶっ殺しただけで変わる評価ってなんなんだよっ。
「触んなよっ、気色悪いなぁ!」
「そんなぁ、酷いっすよう。それにしても隊長って服の上からじゃあんまわかんないけど、結構マッチョなんですねぇ」
ハンナは半目になりながら、小指を噛みじっとりとした目線を送ってきた。こいつはなまじ顔立ちが整っているので、こうした婀娜っぽい仕草をとってもなかなか堂に入っているので妙な気分になってくるので困る。
「隊長。オラたち席をすっこしばっかはずしたほうがいいべか?」
「あら。あんたたち、気が利くっすね。いつもは野菜屑みたいに使えないってのに」
「妙な気を回すんじゃねえ。ったく」
「隊長。今のあたしの正直な気持ちを伝えていいでしょうか」
「なんだよ。心底聞きたくないんだけど、いわなくていいよ」
「そこはいってくださいと応じるのが大人の対応なのではないでしょうか」
「めんどいんだよ。たださえゴタゴタしてるってのに」
「あたしは隊長の二号さんでもいいっすよ」
いった。しかも真顔で。
なんのつもりかはわからないが、目をぎゅっとつむって唇を尖らせて顔を寄せてくる。
無言で向こうへと押しやった。
「サラッと空恐ろしい発言するなよ。トマス、酒瓶が空だ。一本持って来い」
「決意の宣言をサラッと流されたっ?」
手渡された酒瓶の口を切ると、カップの茶をがぼっとひと口で呑み込み、なかに琥珀色の酒精をどぼどぼとそそぎこむ。
もっと味わって飲んでくださいよなどという抗議は無視して馥郁たる香りを鼻孔一杯に吸い込みしばし現実を忘れていると、詰め所の入り口にどやどやと多数の足音が怒声混じりに飛び込んできた。勘弁してくれよ、もう。
「ジラルドさまっ。怪しいやつをひっとらえました」
「だからっ。オレはちっとも怪しいやつじゃないっていってんのにっ。ちょっと! 少しはこっちと会話しましょうってば!」
村の若者たちがどやどやと十人ほど殺気立って引っ張ってきたのは、この村ではまったく見たことのない若い男だった。
デカい。巨躯であるといっていい。おいおい、待てよこれ。よくこんな馬鹿でかい野郎ひっ捕まえてくる気になったよなぁ。
と、まあそのくらいの稀に見る大男だった。年は二十歳前後か。とにかく若かった。たぶん、この村でも並ぶ者がないくらい高い背をしていたが、あまり「屈強……」と感じられるような身の厚みはなかった。目つきもどこか茫洋としていて、肉食獣よりも野原で草をはむ牛馬を思わせるようなほんわかとした顔つきだ。
この村の住民は総じて小柄な者が多いが、耐久力にすぐれどちらかといえば街生まれの者たちよりも性格がキツい人間が多い。
たたださえクロボシオロチの騒動で神経過敏になっていたところで突如としての闖入者だ。
それに村の若者たちは、今朝がた蛇たちの骸を始末させ、俺の話を聞いていたこともあって神経がやたらに高ぶっているのだろう。
忠犬よろしく、見慣れぬ野郎をとっ捕まえてたぎる血の幾許かを収めようとしているのは、想像の余地がある行動だった。
「で、おまえはどこのどいつだ。どこから来てなにをするつもりだった」
「え、ええっと。あ、あんたがこの村のお偉いさん、ですか?」
男は周囲からぎゅうぎゅうに押しつけられたまま、一歩前に出た俺を見、困惑した口調で訊ねてきたが、胸元の階級章と身なりからすぐさま口調を改めた。
無理もない。俺は年よりずっと若く見られるが軍歴は十年を超えているし、たぶん目つきはそれ相応に悪い。というか荒んでいる。
男はこざっぱりした今風の旅装をまとっているので、たぶんここよりも繁華な街からやってきたとすぐに察せられたが、このなにもない村に立ち寄ること自体が怪しいのだ。
「一応は、この砦の長をやっているジラルドだ」
「ジラルドさまのお手をわずらわせんじゃねぇべ!」
若者たちがわらわらと男に巻きつくと目を怒らせている。
我慢できなくなったのか、男は巨体を揺らして若者たちを振るい落した。
「だからオレは旅商人のコックスだって! 毎年立ち寄ってるでしょうーがっ!」
コックスという名を聞いて、その場の空気がほんのりと弛緩した。コックスは、四季ごとにこの村を訪れ日常品を安価に卸してくれる村御用達の旅商人だ。
確か。俺が知る限りでは、コックスは腹が太鼓のように突き出た五十年配の脂ぎったオヤジだったが。なりがデカいという点は共通しているが……。
「コックスのことは知っているが騙りはいかん。あいつはおまえみたいに若くない。てか別人じゃないか。おまえなんか見たことないぞ」
「それはオヤジですってば! オレは息子のハリー・コックス! オヤジがぎっくり腰で村を回れんからって、今回は特別に代理で来たんですってばっ」
ハリーはパッと見は若い娘が好みそうな甘い顔立ちを泣きそうに歪めながら「勘弁してくれよ……」とばかりに喉を嗄らして吠えた。
そういわれてみると、目鼻立ちは似ているような気がする。俺としては不審者でなく村でゴタゴタを犯さなければ別にどうだっていいのだが。
田舎者ってのはとかくよそ者や見知らぬ者を嫌う傾向があるからな。共同体が異物を排除しようとするのは、少しでも危険を遠ざけようとする防衛本能なので仕方がない。
「手紙っ。手紙もちゃんと持参してますって。ほらっ、胸元にあるから。読んでくれればわかりますって」
「はぁ、どれどれ」
俺はハリーの胸ポケットにあった手紙を抜き取ると、封印を破って一読した。
うん、間違いない。ハリーの父である我らがよく知るアンディ・コックスから、体調不良による事情と息子をなにとぞ頼むという文章が連ねてあった。
「放してやれ。こいつは、アンディ親父の息子に相違ない」
手紙を仕舞って村人に告げると、彼らはよく訓練された犬のように素早くハリーから離れ、勘違いしたことを詫びるとそそくさと詰め所から去っていった。
「はあっ。まったくどえらい目に合いましたよ」
ハリーは乱れた明るい茶の髪を撫でつけながら、大きくため息を吐いた。
幾らなんでも怒るだろうと身構えていると、それどころかにこにこと笑みを浮かばせながら揉み手で近寄ってきた。
「……悪かったな。今朝からゴタゴタがあってみんな気が立っているんだ」
「それは別にいいですよ。人間誰しも間違いはありますから。ただし――」
「ただし?」
「今回に限っては、軍の納入量をすこーしばかり考慮してくださるとうれしいのですが」
案外やり手のようだった。
とりあえず、俺なんかよりもはるかに物事に精通している村長にハリーのことを確認させると、彼はすぐにコックス親父の息子だとわかったようだ。
なんでも、ハリーは幼い頃なんどかこの村に連れて来られたこともあるようだが、あまりに成長し過ぎて誰もすぐにはわからなかったらしい。
「でしょ、でしょ! 隊長さんっ。だから、最初っからそういってたってのに」
「悪かったよ。で、なんだ。詫びの代わりにこいつを運ぶ手伝いをすればいいのか」
「いやー。無理やり押しつける形になって悪いですねっ」
にかっと白い歯を見せて抱きついてきそうな雰囲気だ。体格はかなりのものだが、凶暴さは微塵もなく、都会的に洗練されていてどこか人懐っこい大型犬を連想させる。
ハリーは村の入り口に荷物を満載した荷馬車を留めてあった。俺は、チャーリーたちを動員して、荷物の大部分を村長の屋敷の蔵に運び込ませると、軍に必要なものをかなり多めに購入してハリーをホクホク顔にさせた。どうせ俺の金じゃねぇし懐も痛まん。
「お買い上げありがとうございますっ。これからもコックス商会をご贔屓にっ!」
「声、デカい。若いなぁ、おまえ」
「元気だけが取り柄っすからねー」
村の娘たちも遠巻きにハリーを見ながらきゃあきゃあと騒いでいる。面白くないのは村の若い衆だ。
彼らは、この突如として現れた好青年に危機感を抱き、どこか暗く陰湿な目で特に話しかけることもなくジッと凝視していた。
ハリーは如才なく集まってきた村人たちに日用品を売りはじめた。村では基本的に物々交換が主だが、こういった旅商人が定期的に来たときのために、ある程度の貨幣を村長に物資を納入することで受け取っている。こうやって見るところ売れ行きは上々だった。
「いやあ、村の人たちは素朴で親切な方が多いですねぇ」
「よそから人なんてめったに来ないからな。珍しいんだろ」
そうこうしているうちに日がとっぷり暮れてきた。トマスがこっそり教えてくれたが、詰め所のほうにはユリーシャがミーシャを連れて何度か様子を見に来ていたそうだ。
昨日の今日だ。どうにもこのままじゃ顔が合わせづらい。
「で、ハリー。しばらくは村に留まる予定なのか」
「ええ。村長の家に泊めてもらって、近くの村にも行ってこようと思います。ははは。オヤジから馬車を空にして帰ってこいって厳命されてますから」
「……で、おまえ。こっちのほうはどうだ?」
顔の前でくいっとカップを傾ける手真似をするとハリーは破顔した。
よかった。酒の好きなやつに悪いやつはいないだろう。
俺は直で家に帰る心の準備ができてなかったので、ハリーを酒場に誘って時間を潰すことにした。こんなことはなんの解決にもなっていないが、あまりほかの方法も思いつかない。
「にしても、隊長さん。この村にはすっげー美人さんがいますねぇ。オレ、ひと目惚れしちゃいましたよう」
「はて。こんな田舎の村に都会者の目を引くような娘がいたかな……」
ハリーはその見事な身体どおりに酒のほうも底なしのようだった。俺も、酒量においては人語に落ちないが、この若者はつぐ先から勢いよくガブガブやって周囲の酒飲みたちから感嘆の声を上げさせていた。
「やあやあ、にしても隊長さん酒、強いですねぇ。オレとサシで潰れずに飲めるなんてうれしいですよっ。で、なんでしたっけ? ああ、そうだっ美人の話だっ。くうー。ついてるなぁ。こんな田舎の村で、あ、失礼。もとい、こんな牧歌的な村であんな儚げで美しい女性に出会えるなんて……」
目をキラキラさせてほうっとため息を吐いている。ハリーは眼の縁を赤くさせながら、記憶を反芻するようにひとり、こくこくとうなずいていた。
「やけに持ち上げるな。夢でも見てたんじゃないのか」
「夢じゃないですよ。その人ですね。オレが村の入り口でウロウロしていたら、村長さんの屋敷までの道を教えてくれたんですよ。ちっちゃな子を抱いて、たぶん人妻なんでしょうけど。かあっ、いいなぁ。妖精みたいに可憐な人だった」
「おいおい。人妻に手を出すのはやめてくれよ。問題が起きると面倒だ」
「だいじょぶっすよ。だって、どう見ても預かってるって感じでしたから」
子守女かな? その時間、あたりをうろうろしてそうなのはマリアンかシンディーかポリーか……。
どっちにしろ彼女たちはどう見ても農婦といった感じで骨太かつ豪快な勢いのある娘だ。
ハリーは都会者なんで、そういった子たちが逆に気に入ったんだろうが、どう考えても儚げな雰囲気ってのは想像しにくいんだよなぁ。
ま、女の好みなんて人それぞれだし、俺には関係ないか。
「どっちにしろ、いきなりベッドインてのはやめてくれよ。もし仮にそうなりそうだったら、コックスの親父を通して村長にでも話をつけてからにしてくれ。街とは違って村娘たちは純朴なんだ。遊びはいかんぞ」
「遊びだなんてっ。オレはマジっすよ!」
「そういきりたつな。マジならマジでいいんだ。もし、そうなったら少しは村人たちには割引してやれよ。この村の人間はほとんどが親族みたいなもんだからな」
「わっかりましたっ!」
大丈夫かよ。
人の心配をしている場合じゃなかった。
やばいのは俺。圧倒的に俺自身である。
酔っている。深々と酔いに淫している。
天地が逆さまで足元がおぼつかない。
まだ春になったばかりで外の気温は相当に寒いというのだろうに、まるで、ちっとも、ぜんぜん平気なのである。
謎の万能感が俺をひっしと抱きしめている。このときばかりは、マイナスなイメージは全身から綺麗さっぱり拭い去られていて、天地は俺のなかで合一し怖いものなのどない。
ふらふらと歩いていうちに、家までたどり着いた。懐から懐中時計を取り出して時間を調べようとしたが、指先が痺れたようになっていて上手く取り出せない。
あれ、あれ、あれ? そうこうしているうちに、時計は脚が生えたように踊って地上に落下した。こやつめ。小生意気にも俺から逃げるつもりなのか。
そんなことは許されない。かがみ込んだつもりが、どこか身体の重心が崩れたのか倒れ込んでしまった。
どがばきばきっと。うるさい音がして、板が割れたような音がした。
「誰だッ! ――ジラルド?」
「ゆ、ゆりーひゃ、かぁ」
なんとか首を捻じ曲げて扉を向くと、長い天秤棒を持ったユリーシャが驚いたような顔でその場に固まっていた。
なんだよ、亭主のお帰りだぞ。彼女の足元でスカートにつかまっていたミーシャがとたとたっと駆けてきて、しがみついてきた。
「おとーしゃっ」
「わはは。な、なんだ。みーひゃか、おし、おし……」
飲み過ぎて上手く呂律が回らない。こんなことを考えられるのなら、まだ、余裕があるような気がする。
「また酒に飲まれてっ。ジラルド、こんなところで寝てしまっては身体に障る」
ふわんと甘ったるい香りがして、むらむらとアッチの気が突如として起こった。
身体を横抱きにして立ち上がらせようとしている。ついつい手が出て、無防備な彼女の尻をさわさわと撫で上げた。同時に突き飛ばされる。
「んきゃっ! な、なにをっ! ……あ、すまないっ。つい」
ユリーシャがとんでもなくかわいい声を上げた。なんだかとても楽しいぞ。
俺は尻もちを突いたままケタケタと愉快に笑った。
目の前がぐるんぐるんと回る。
ミーシャも俺が不機嫌なよりかは笑っているのがうれしいのか、仔犬のように周りをぐるぐると駆け巡って、きゃあきゃあと甲高い声を上げていた。
「なあ、ゆりーしゃぁ」
「なんだ、この酔っぱらいめ」
「ごめんなぁ……酷いことして」
触れている身体がびくっと硬直したのがわかった。酔っている。俺はとんでもなく酔っている。
そうじゃない。酔わなければ、自分の妻に本音も吐けない、心底性根の腐ったゲス野郎なのだ。俺はいつも食事を用意してくれること。体調を機にかけて身体を動かすよう勧めてくれたこと。洗濯、家の掃除、ミーシャの面倒。細々とした村の用事。思いつくありとあらゆることについて感謝の意を伝えた。
いや、舌がぐだぐだになっているので、本当に伝わったのかどうかはわからないが、なにか、心のなかの重しがスッと取れたような気がする。
なんというかこういう大事なことはシラフのときに、ちゃんと向き合って述べなければ意味がないような気がするが、そこは許して欲しい。許して欲しい。
俺はおまえに甘えているのだろうか。それは許されないことだ。ぐるぐるが強い。ぐるぐるが世界を支配する。ぐるぐるで頭のなかが全部埋まったとき、世界が砕けて消え去った。
朝起きたときは状況が好転していた。なぜだかはわからないし、そもそも昨日なにが起きたか、それとも起こしたのかまったく思い出せない。
「ジラルド、起きて。朝食だぞ」
「おっき! おとーしゃおっき!」
ユリーシャとミーシャにやさしく揺り起こされて、よくわからないうちに食卓に着く。
頭がガンガンするかと思いきやそうでもない。
自分で自分の身体がどうなっているのか本当に謎だ。
「気分は悪くないか? 軽めのほうがいいだろうか?」
「いや、普通に食えそうだ」
「そうか。よかった」
ユリーシャはほっとした表情で頬をゆるめると、スープとパンとサラダを運んできた。
彼女の機嫌は上々だが俺の罪悪感は半端ない。
沼地で八つ当たり気味に頬を打ったことが、ジワジワ俺の胸を締めつける。後悔するくらいなら最初から手なんぞあげるな馬鹿たれともうひとりの自分が居丈高に非難してくる。
まさしくそのとおりでございます。返す言葉もねえよ。
「おとーしゃ、おとーしゃ。みーとごはんっ」
「ああ、そうだな。いっぱい食って大きくなれよ」
膝の上によじ登ってちょこんと座っているミーシャを撫でると、ユリーシャはくふふと楽しそうに小さく笑い声を漏らした。
なにか、埋め合わせをしないと。
ミーシャは鼻面を俺の胸にこすりつけながら甘えてくる。
俺はいつでも与えられてばかりだ。なにか、なにかこの善良な娘たちにお返しをしてあげたい。
「ジラルド、今、なにかいいかけたか?」
「うん、あのさ――」
そういえば、女を自発的に誘うのってあまり経験がない。ユリーシャの銀色の髪が窓から差し込む朝日に照らされ、鮮やかに磨かれた宝玉のように輝いている。
「ピクニックにでも行かないか?」
ユリーシャは一瞬、驚いたように瞳を大きくし、それからこっくりと首を縦に振って快諾してくれた。よかった。
二日酔いはなかったにせよ、酒は幾らか残っていたのか、走り回るミーシャを追うのはちょっと骨が折れたが、深い緑に包まれた森を歩くうち、酒毒はいずこかへ消え去っていた。
「なあ、ジラルド。今日はとてもいい天気で気持ちがいいな」
「ああ、そうだな」
なんだよそれは! もうちょっと上手い返し方ができんのかね、俺ってやつは。
ユリーシャはふわりとした白っぽい外出着に深々とした帽子を被っている。
どう見ても、令嬢か貴婦人といったいでたちだ。
それに比べて俺は、いつもどおりの野暮ったい黒一色の軍装だ。
ほかになにか着るものがあればよかったのだが、そんな洒落っ気は残らず王都に置いてきてしまった。
「別に気にする必要はない。ジラルドは、その格好がよく似合っていて凛々しいと思う」
「お、おお。そうか。ユリーシャも、そのドレス似合っている。お姫さまみたいだ」
なんじゃそれは。ついついうれしくて彼女を褒めたつもりだが、陳腐な言葉しか吐き出せない野暮な自分がつくづく嫌になる。詩の本でも読んでおくべきだったか。
さぞかしユリーシャは呆れているだろうな思い、顔を上げると、彼女は真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいた。
――ああ、そうか。彼女ははじめて会ったときから、何度かこのような表情を見せたが、これは怒っているのではなく、恥ずかしがっているのだ。
がああっ。なんか身体じゅうがもぞもぞちくちくする。
ええいままよ、とばかりにユリーシャの手を取った。思ったほどやわこくなかったが、これは労働をしてきた手で、俺からすればむしろ好ましく思った。
「あ、歩くか」
「ええ……」
ちょこまかうれしそうに森のなかを走り回るミーシャを眺めながら、俺たちは初々しい恋人のように手を繋いで、黙ったまま歩いた。
こういうのも、案外悪くないんじゃないか。
「とったよ!」
ミーシャが森にあるなんともカラフルな木の実を摘み取って見せに来てくれる。
特に、どれがどうだと教えたわけではないが、彼女は小さな犬耳としっぽをぴんと立てて、低い位置になっている木の実を真剣な顔でふんふんと嗅ぎ当てる。
「彼女は森の妖精みたい」
「ユリーシャは詩人だな」
きざったらしい言葉が意外だったのだろうか。彼女はまた怒ったように頬を赤くした。
「ジラルドは、女を褒めるのが上手いな。慣れているような気がする」
ユリーシャはちょっとすねたような顔で、足元の小石をぽんと蹴った。
俺はなにもいわずほくそ笑むと先を行ってちらちらと振り返るミーシャに向かって片手を振った。
森を抜けると小さな小川に出た。山塊の雪解け水が溶けだして、量は多くちょっと危険なので遠巻きに眺めるだけにする。
「おとーしゃ。おしゃかなたべたい」
ミーシャは名残惜し気に川のほうを指差すと行きたいっ! と全身で表現しているがさすがに却下だ。危な過ぎる。
「ミーシャ。寒いからまだ魚はいないよ」
「ううー」
「ほら。向こうのほうで遊ぼう。ね」
ユリーシャがミーシャの手を引き草地のほうへ巧みに誘導する。彼女は自分が産んだ子のようにミーシャをかわいがるので、見ているだけでこちらもほっこりする。
草むらに腰を下ろすと、ミーシャは奇声を上げてあたりをごろごろと転がり出した。
これまた本能的なものなのだろうか、しきりに全身を草の上で回転させ、青臭い匂いをまとわりつかせることに躍起になっている。
「ミーシャ。そんなことをすると服が汚れてしまう……」
ユリーシャは俺の視線を気にするように振り返る。それから、慌てて草の上で暴れているミーシャを押さえつけようとするが、遊んでもらっていると勘違いしているのかびっくりするくらいの勢いで回転し出した。
「いいじゃねぇか。好きにさせてやれ。あんなに楽しそうなんだし」
「でも、この子は女の子なんだ。私は淑やかに育てたい」
無理やり抱きすくめられたミーシャは「うううっ」と喉を唸らせ抗議の意を表している。
俺はそっとユリーシャの腕を解いてリリースすると、放たれた矢のように草原を疾駆するミーシャの背をほんわかした気分で眺めた。
ユリーシャはしょうがないなというふうに首をすくめると、草の上に布を敷いて昼食の準備をはじめた。
ユリーシャが用意してくれたものはパンにハムやチーズを挟んだものと、はちみつとレモンを混ぜた飲み物くらいだ。
このあたりは特に耕作地もないので、たまに村人が木切れを拾いに通るくらいである。
たまに、野馬の群れが疾走していくが、離れているので特に注意する必要はない。
野生の馬はそれなりに凶暴なので下手に近づくと襲ってくる可能性があるのだ。
ミーシャは地響きを立て野馬たちが通るたび、声を上げて興奮した。
が、朝から興奮し続けてきたせいか、そのうち目をこすり出し、俺の腹の上に顔を埋めてくるとぐずり出した。
「この子。すごくうれしがっていたから」
「疲れちゃったみたいだな」
眠りこけたミーシャを抱いて、大きめな木の下に移動する。
空は雲ひとつなく珍しく目が痛いような青空が広がっていた。
木の幹にもたれて空を見上げていると、ごほんとわざとらしく咳払いをしたユリーシャがそっと地面に腰を下ろし、じりじりと距離を詰めてくる。
俺は苦笑するとミーシャを起こさないよう移動して互いの肩が触れ合う位置で留まった。
もっとも、彼女とでは身長差があるのでちょっと格好がつかないが、誰が見ているわけでもないので取り繕っても仕方ない。
ミーシャは固く腹にしがみついているので手を放しても、ころりと落ちる心配がない。
そっとユリーシャの手を取って見つめ合う。
ちちちと小鳥が遠くで鳴いている。ふわりと風が舞って高い梢の上を渡ってゆく。
どちらということなく手を取り合ってキスをすると、カッカッした頭のまましばらく彼方にある青い空を見つめ、幸福とはこういうものかとじわり噛み締めていた。
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