第172話 毎日を大切に
あれからガンタが「冗談すよ」つってなんか話が有耶無耶になって、何事も無かったように『けんきんぐ』やって、で、家に着いたのが夜の11時だったんだ。今日はこの前みたいにガンタにキスされる事も無かったし、特に何も問題なく帰って来たんだけど。だけど、なんか神崎さんと顔を合わせるのが気が引ける。
静かに玄関の鍵を開けて、そーっと入ってみる。今から神崎さんが寝てる訳なんかないんだけど、何故かそうしてしまう自分が居て。リビングのドアを開けると、神崎さんがいつものようにストレッチマットを敷いてプランクしてる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつもと全く変わらない。あたしはこんなに心の中、ボロボロでメチャクチャなのに。
「お風呂、冷めてしまってると思いますから、追い炊きしてください」
「うん」
それだけ言って、二階の自室に荷物を置きに行く。神崎さん、何考えてるんだろう。あたしがガンタのとこに行ったの、どう思ってるんだろう。
悶々としたままお風呂に入って、湯船の中でもやっぱり悶々としちゃうんだよ。
ガンタ。「俺の女になれよ」って言うから、あたしは誰のものでもないよって言ったら、そうだねって。「それくらい言わないと花ちゃん、自分の気持ちに嘘ついたままじゃん、神崎さんの事好きなら好きでいいじゃん」ってさ。「俺は花ちゃんの事が好きだけど、神崎さんの事も好き。どっちも好きだから、どっちも手は抜かない。花ちゃんの事は本気で神崎さんから奪い取るつもりだし」って言ってくれたんだよ。
そりゃさ、あたしはガンタも好きだよ。素直で努力家で凄くいい子でほんと大好き。凄く凄く好きなんだよ。だけど神崎さんは別格なんだよ。なんかもう、別の世界の生き物なんだよ。
あたしはガンタの事は好きだけど、『神崎さんの代わり』になんてできないんだよ。
ああもうこれ以上考えてたら、またのぼせちゃうよ。ウチのお風呂は狭いし、ひっくり返ったら絶対怪我するし、てかその前にその辺のモノ破壊するし、早いとこ上がろう。
上がってみたら、神崎さんが汗だくになってんだよ。病み上がりの癖にどんだけやってんのよ。
「ねえ、病み上がりなんだから、あんまりやっちゃダメだよ。汗だくじゃん」
「そうですね、ぼんやりしていて数えるのを忘れていたんですよ」
「珍しいね、神崎さんがぼんやりしてるなんて」
「……山田さんがそれを仰るんですか」
「え?」
「いえ、何でもありません。僕ももう一度入って来ます。何だかベタベタで」
そう言って神崎さん、ストレッチマットをパタパタと畳んで片付けると、さっさとお風呂に行っちゃった。
なんだか神崎さんと顔を合わせたくないような気もするけど、今日ここで会話も無く寝てしまったら、明日はどんな顔して朝食取ったらいいのか、そっちの方がなんか憂鬱な感じがしたもんだから、なんとなくダイニングテーブルのとこでお茶を飲みながらボーっとしてた。
はぁ……何やってんだ、あたし。昨日の朝までは「一分一秒でも神崎さんと一緒に居たい」って思ってたのに。今は顔合わせるのもなんだか憂鬱。でもさ、やっぱり心のどこかで彼と一緒の空間に居たい気持ちもあってさ。あー、もうどっちなんだよ花子! 自分でも訳わかんないんだよ!
とか考えてるうちに神崎さんが上がって来た。
「ここにいらしたんですね。部屋に戻られていたかと思いました」
だから! その綺麗なハダカでウロウロすんな。凝視しちゃうだろっ!狙ってんのかあんた。まあ、必ずズボンは履いてるから許すけど。
神崎さんは何を考えてるのか、そんな恰好をしている自分に気づかないみたいで、頭をガシガシ拭きながら冷蔵庫に向かう。こんな仕草を見てると『神崎さん』じゃなくて『フツーの男』だよ。ウチの兄ちゃんみたい。全然別世界に住んでる人じゃない。だけどこの人のこんなフツーな姿、もうすぐ見られなくなっちゃうんだね。
「今日は如何でしたか」
コップのお茶をテーブルに置いて、椅子に腰かけながら神崎さんが聞いて来た。
「如何って?」
「岩田君のところですよ」
「あ、ああ、うん。親子丼作ってくれたよ」
「彼もレパートリーを増やしてますね」
「うん。美味しかった。けど出汁がね、粉のヤツだった。味が違ってたよ。あれも美味しいけど、あたしは神崎さんの作る方が好きかな」
「そうですか」
お茶を飲んでるだけなんだけど、ほんとそれだけなんだけど、なんかお風呂上がりの神崎さんってセクシーだよ。あれだけキツイ思いしても、やっぱりこの人見てると素敵に見えちゃうよ。だからますます悔しい。
「あたしがガンタのところに泊まって来ると思った?」
「まさか」
へ?
「だって……」
「そんな訳がないと思ったので言いました。それに、僕があなたの自由な恋愛に口を挟むわけには行きません。岩田君は誠意を持って僕にあなたを借りると言ってくれましたので、僕も彼とあなたに自由を与えなくてはならない。それだけの事です。そこに僕の希望を挟むわけには行きません」
「じゃあ聞くけど、神崎さんの希望を挟んだらどうなったってのよ」
「門限を決めてそれまでに確実にここに送り届けるように言いますね。門限は23時です」
帰って来た時間だ。ガンタの顔を立ててる?
「僕はあなたに『どこにも行きません』と言いました。だからここで待つだけです。待ってさえいればあなたは戻って来てくれますから」
なんて返したらいいのかわかんないよ。
あたしが目のやり場に困ってテーブルの上のコップを見つめていたら、神崎さんが身を乗り出して来たんだ。
「あと4日。引越し入れて6日です。僕は1日でも惜しい。あなたもそうでしょう。毎日を大切に過ごす事、僕の頭にはこれしかありません」
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