第170話 やるんだよ

「花ちゃん、聞きましたか? 神崎さん、おやっさんと城代主任の強力なプッシュでここに引っこ抜かれるかも知れないらしいんすよ」

「え……」


 午後から製造部でFB80の新しい冷却装置を試しに入れてみるって聞いてすっ飛んできたんだけど、ガンタの一番最初の報告はこれだったわけよ。


「普通は試験場から本社に引っこ抜かれるもんじゃないの?」

「それが、実は城代主任も本社勤務だったのをおやっさんが引っこ抜いたらしいんすよね」

「だからあの人、関西弁じゃないんだ」

「そうなんすよ。因みに浅井さんも、京都支社のエンジニアだったのをおやっさんが引っこ抜いたって話っすよ」


 そう言えば神崎さんも浅井さんの事、すっごい仕事ができるって言ってた……。


「親父さん、そうやって優秀な人をここに集めてんの?」

「そうみたいっす。神崎さん、城代主任や浅井さんにも『欲しい』って言われてますから、多分マジで抜かれるんじゃないかな」

「そっか……神崎さん、優秀だもんね」


 ここへ来て、神崎さんと自分の立ち位置の違いをまざまざと見せつけられる事になるなんてね。

 でもさ、物は考えようだよ。きっと東京に戻っても神崎さんはネズミーランドに行こうって言った事なんて絶対忘れちゃってるし、あたしだけ期待して待ってるのも悔しいし。

 それにここに彼が残ればマリッジリングだって一緒にゆっくり選べるじゃん。あたしの留守を狙って出かけなくてもさ。

 そんな事考えてたら、ガンタがFB80のボディを撫でながらボソッと言ったんだよ。


「俺は花ちゃんにも残って欲しいっす」

「ごめん、あんまり優秀じゃなくて」

「そんな事無いっすよ。おやっさん、花ちゃんの事、すげー優秀だって言ってたんすよ」

「でも、ここに引き留められるほど優秀じゃない」


 そうなったら本当にあたしがこっちに出張でもない限り、神崎さんには会えなくなっちゃうんだ。

 あたしが俯いてたら、ガンタがあたしの手を両手でガシッと掴むんだよ。神崎さんの大きいけれども繊細な手とは正反対の、分厚くて太い武骨な男らしい手。


「それなら引き留められるほど優秀であることを見せつけたらいいんすよ。花ちゃんの凄さを見せつければいいんすよ」

「どうやって? 優秀でもないのに見せつけるような物なんかないよ」

「あるじゃないすか。花ちゃんは現場の人間がなかなか気づく事の出来ない、慢性化した問題点を見つける天才すよ。俺らは慣れちゃってて『それが当たり前』になってるけど、当たり前になっちゃいけないことだってあるんすよ。そういう、俺らの感覚が麻痺しちゃってるような事、花ちゃん見つけるの得意じゃないすか」

「でも、あと4日しかないよ」

「1日で十分すよ。水準センサの事だって、キャブの事だって、1日で見つけたじゃないすか」

「だけど……」

「だけどじゃねぇよ!」


 え。ガンタ?


「花ちゃん、今日、うち来いよ。ちゃんと帰り送ってやるから」

「え?」

「『けんきんぐ』、やるんだよ!」


 ガンタがいきなりあたしの手を引っ張って開発フロアの方にガシガシ歩き出したんだよ。すれ違う製造の人たちが驚いたような顔でこっち見てるんだよ。


「ちょっと、どうしたのガンタ!」

「神崎さん、今どこにいる?」

「え、わかんないよそんなの」

「ここですよ」


 突然神崎さんが音も無く現れたんだよ、ヘルメットを脱ぎながら。やっぱりあんた伊賀忍者だったんだ!


「どうなさったんですか? 何か問題でも起きましたか?」

「神崎さん、今夜、花ちゃん借ります!」

「は? 泊まりがけですか?」

「まさか! ちゃんと後で送りますから大丈夫っす。でもご飯は家で食べて貰いますから、神崎さんは花ちゃんの分は用意しなくていいっす」


 神崎さん、黙ってあたしの顔をじーっと見たんだよ。暫く見つめた後で、表情一つ変えずに小さく頷いたんだ。


「いいでしょう。夕食をそちらで取るなら僕には彼女の帰宅時刻など全く関係無いのですが、明日の業務に支障が出ると困ります。業務に差支え無ければ、山田さんが岩田君のところに宿泊しても僕は一向に構いません」


 あたしがガンタのところに泊まっても問題ないって言うの? 一緒に旅行までしたのに? 必ず帰って来いって言ってくれないの? 

 あたしってその程度だったの? 酷いよ……。酷いよ、神崎さん。


「泊まる場合はメールをください。明日の事もありますから。それと、山田さんのお弁当箱は僕が持って帰ります。明日どちらから出勤しても僕がお弁当を持って行きますので」

「……はい」

「用件はそれだけですか?」

「そうっす」

「了解しました」


 そう言って神崎さんは再びヘルメットを被り直し、溶接の方に戻って行っちゃったんだよ。その神崎さんの後ろ姿を見ていたら涙がボロボロこぼれて来ちゃって、もうどうしようもなくなっちゃったんだよ。


「花ちゃん、どうしたんすか」

「なんでもない」

「や、でも……」

「あたし、『けんきんぐ』やるよ。結果出してやる」

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