第一章 目覚めるは神か獣か

第零話「楽園」

 どの国においても、一般的に『高校生』っていうやつは多忙だと思う。学校に通ったり、アルバイトをしたり、勉強をやったり、etcエトセトラ……。

 俺も例外なく、その高校生の一人だった。

 俺の通っている学校……乃蘇久我のそくが学園は、どこにでもある普通の高校。偏差値も全国平均を叩き出すような高校だ。

 そんな俺の日課は、登校中に駄菓子屋へ寄ること。この駄菓子屋のおばあちゃんとは小さい頃からの付き合いだ。馴染みの店、っていうやつなのかな。


「おばあちゃん、いる?」

「はいよ」


 店の奥からおばあちゃんが出てきた。よかった、ちゃんと起きてたみたいだ。


「いつものうまぁ棒一つお願い!」

「ほいほい……十円だよ」

「はい!」


 俺は財布から十円を取り出し、おばあちゃんへと手渡す。代わりに駄菓子を一つ受け取った。


「じゃあ、行ってきます!」

「はいな、気をつけてねぇ」


 駄菓子屋を出て、学校へと向かう。俺は駄菓子の包装を解いて一口頬張った。


「……うまっ」


 思わずそうこぼれてしまう。

 昔から変わらぬ味。伝統の味って言うと大げさかもしれないけど。


「おーい、蓮介れんすけー!」

「お、刀真とうま! おはよう!」


 俺は駆け足で刀真の元へと向かう。


「まーたお前はおばあちゃんとこへ行ってたのか?」

「ま、俺の日課だからね」


 こいつはさくら刀真。俺が小さい頃からの友達、俗に言う親友だ。

 いつも楽しそうに笑ってるのが刀真だ。刀真の笑顔を見ていると、こっちまで笑顔になる。不思議な感覚だ。


「毎日食ってて良く飽きないよな」

「美味いものはいくら食べても飽きないだろ?」

「はいはい、そうですねー」

「あっ、流した! 今絶対流した!」


 刀真は腕につけた時計を確認した。


「おい、さっさと行かねぇと遅刻すんぞ!」


 刀真は俺の肩を叩くと、ついて来いと言わんばかりに走り出す。そのまま坂を駆け上がっていった。あいつ、逃げやがったな……?

 俺も刀真の後を追いかけようと、足を踏み出す。

 前からは、目を伏せた悲しそうな表情の女の子が歩いてきた。俺はぶつからないようにすれ違い――



「歪んでいるわ」

「――え」



 すれ違った女の子は、俺にだけ聞こえる小さな声で言った。


「あの、君は!?」


 急いで振り向くが、そこには誰の姿もなかった。

 ……誰だったんだ、今の子は。歪んでいる……なにが歪んでいるというんだろう。

 俺は思わず空を見上げる。普段となにも変わらない、雲ひとつない晴天がそこにはあった。俺の目には、どこも歪んでいないように見えるけど。


「おーい、置いてくぞー!」


 坂の上から刀真が大声で言う。


「悪い! 今行くよ!」


 俺は胸の奥に小さなもやもやを押し込み、刀真の元へと走る。遅刻だけは避けたいからな。







「あ、緋崎ひざきくんだー。おはよー」

「よっす緋崎」

「おはよう、緋崎くん」

「蓮介くん、おはよっ」


 教室の扉を開けた俺を待っていたのは、見渡す限りの笑顔。笑顔畑って言われても信じてしまいそうになるほど、笑顔に溢れていた。

 対する俺も、笑顔で応える。


「ああ、おはよう!」

「っとと、もう先生来るから、席座ろうぜ!」

「そうだな」


 俺たちは窓際の自席へと向かう。一番前から二番目が俺、その前が刀真だ。

 座ったタイミングで、教室の前の扉がガラガラと開く。


「よぅし、みんな来てるな」


 教室へ入ってきたのは、俺たちのクラスの担任教師である必豆戻叉ひずれいさ。ボサボサの髪を整えることもしないものぐさ教師だ。いつも白衣の様なものを着ており、その胸ポケットにはたくさんのタバコが所狭しと詰まっていた。今にもポケットが破けそうなほどだ。


「じゃあ、今日も笑顔で頑張ろうか。ほら、教科書開けー」


 先生の一声で、みんなが教科書を開く。俺も慌てて教科書を開いた。テストが近いからな、授業を無駄には出来ないぜ。


「じゃあ始めるぞ。前回やったところを……櫻、おさらいだ」

「はい! ええっと――」






「これにて、今日の授業は終わりだ。起立! ……礼!」

『ありがとうございました!』


 必豆ひず先生は並べていた教材を片付けると、前の扉から教室をあとにする。

 授業が終わった教室は、生徒の喧騒に包まれた。


「たっはー、疲れた……」

「おいおい、こんなんで疲れんなよ」


 一日の授業が終わり、今は放課後。俺は机に突っ伏した。


「そうは言ってもなぁ……勉強って思った以上に疲れるもんだよ」


 顔を上げた俺の目の前には、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべる刀真がいた。


「ねー、緋崎くんと櫻くん。このあと遊びにでも行かない?」


 クラスメイトの足立さんが話しかけてきた。快活な女の子で、男女隔てなく接してくれる。うちのクラスの人気者だ。


「んー、流石にすぐには決められねぇわ。またあとで連絡入れるよ」

「わかった! 急にごめんね!」

「いいって。な、蓮介」

「うん。誘ってくれてありがとう」


 俺がお礼を言うと、足立さんは頬を染めて視線を逸らしてしまう。


「じゃ、じゃあ、またあとで!」


 そのままそそくさと離れてしまう足立さん。

 ……なんか失礼なことでもしたかな。


「青春ですな~」

「なに年寄りくさいこと言ってんだよ」

「それもそうだな。そう言えば、朝はどうしたんだ?」


 急に刀真が聞いてくる。


「朝って?」

「ほら、学校に向かってる最中、ボーっとしてただろ? なんかあったのかなーってさ」


 朝のこと……つまり、あの女の子とすれ違ったってことだよな。

 ううむ、どう言ったものか……。


「いや、ちょっとおかしな女の子がいてな。それで――」

「どんなやつだ」


 刀真はがっちりと俺の肩を掴む。その手には力がこもっていて、とても痛い。

 いつもの笑顔は消えうせ、感情の欠けた人形のような表情になっていた。あきらかに、いつもの刀真じゃない。


「ど、どうしたんだよ、急に……痛いって」

「いいから教えろ。どんなやつだった?」


 その声には、怒気が含まれているように聞こえる。


「どんなやつって……少なくともこの学校の生徒じゃないよ。制服が違う」

「外見は?」

「とっても綺麗ってこと以外は……あ、髪はつややかな翡翠色だったよ」

「そうか……ごめんな、なんか」

「別にいいよ」


 俺たちの周りを渦巻いていた嫌な雰囲気が霧散する。どうやら、いつもの刀真に戻ったみたいだ。

 それにしても、なんで刀真はあの女の子のことを執拗に聞いてきたんだろうか。接点はないはずだけど。





『――歪んでいるわ』





 ふと、女の子の言葉が脳裏によぎる。

 歪み。あの子が言ってた歪みって……?


「顔が怖いよ、刀真。いっつも笑顔じゃんか」

「そう、だな。笑顔、だよな」


 刀真は二カッと白い歯を見せて笑う。そうそう、笑ってなきゃ刀真じゃないからな。


「あれ……笑、顔……?」


 そう言えば、なんでいつも刀真は笑顔なんだ? 他のみんなも、誰だって笑顔だ。すれ違う人も近所のおばさんも駄菓子のおばあちゃんも、みんな笑顔。

 そう、常に笑顔だ。みんな楽しそうに笑ってる。楽しそうにしてるなら、それでいいじゃないか。

 ――ならなんであの女の子は、悲しそうな顔をしていたんだ?


「なあ、刀真……」

「どうしたんだよ、そんな暗い顔して。ほら、笑顔笑顔。さっきお前が言ってたんだぜ?」


 気づいてしまった。否、俺は気づかされてしまった。


「なんで刀真は……いつも笑顔なんだ?」

「なんでって。そりゃ、それが正しいことだからだ」


 あの女の子の言葉で、気づかされてしまった。




 ――俺の見ている、見えている世界の『歪み』を。




「笑うことが正しいなら……悲しむことは悪なのか?」

「なに言ってんだよ。この世界に悲しみなんていう感情は存在しない。みんな笑顔だ。な、みんな!」


 刀真の呼びかけにみんなは笑顔で返す。




 笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔笑顔。




 ゾワッと、背中に鳥肌が立った。

 女の子の言っていた『歪み』。

 俺の見ている世界には、笑顔しかない。

 それはおかしい。そんなのありえない。

 笑顔しかない世界。悲しみも苦しみも、負の感情が存在しない世界。

 そんなものは、正常な世界とは呼べない。正しく、『歪んでいる』……ッ!


「……なぁ、刀真。本当のことを言ってくれ」


 刀真は答えない。ただその顔に、笑みを浮かべているだけだ。


「ここは、どこだ? 俺は、どこにいる?」

「――悪いけど、そいつらにその質問は答えられないわ」


 刀真に向けた質問を遮ったのは、女性の声。教室の扉の方を向くと、先ほどすれ違った女の子がいた。いつの間に、そこにいたんだ?


「それってどういう――」

「これから先、何が起こっても自分を見失わないで」


 女の子はパチン、と指を鳴らす。

 瞬間、視界がブレた。

 いや違う。景色が、ブレたんだ。

 徐々にいろを失っていく世界。気づけば、刀真たちの姿も歪んでいく。

 刀真たちだけじゃない。目に映る全てのものが、歪んでいく。俺は思わず顔を押さえた。なにが、どうなってるって言うんだ……!


「そして、知ればきっとあなたは理解するわ。この世界がいかに、歪んでいるかをね」

「なにを――」


 光が、弾ける。

 真っ白に染まる視界。

 俺を、女の子を、刀真たちを、眩しく鋭い光が覆った。

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