第2話 感染

2016年8月23日ー


汗を流したかった。体内のすべてを、一度吐き出したい思いだった。何も考えず、社会の歯車の一部になれるように、僕は伊豆・下田のペンションでアルバイトとして住み込みで働いていた。


そのお客さんのことは好きだった。オーナーが特別に作るかつ丼を、毎晩おいしそうに食べていた。他のスタッフは変人と言っていたが、僕にはそのお客さんこそ、実にまともな人間に思えた。ライオンが獲物を仕留めて、もうこの味に飽きたというわけがない。毎晩、かつ丼をおいしそうに食べるそのお客さんが、僕は羨ましかった。

「君が捕まっても、かつ丼は食べられないよ。高杉翔太くん」

そのお客さんにかつ丼を運んだ僕の動きが止まる。

「あれはテレビドラマが作ったイメージだからさ」

よくできた笑顔だが、目の奥は笑っていない。

僕を逮捕するために来たのか?でも、それならなぜ何日もここに泊っているのだ?

「それにしても、ここのかつ丼は、とてもおいしい」

「そうですね…。オーナーは昔、有名な料亭で料理長をしてたみたいですよ」

「いや、君と会えたから、こんなにおいしく感じるんだ」

「ど、どこかでお会いしたことがありましたっけ…」

「階段から転落した女教師を、尾行していたんだ」

終わった。やっぱり、僕を捕まえに来たのだ。もう、お終いだと覚悟した。今、見ているドラマの最終回を見られないのは残念だ。

「後で、見せたいものがある。仕事が終わったら私の部屋に来てくれ」

僕を捕まえに来たのではないのか?何を考えているのか、まったくわからない人だ。僕は黙って、彼に従うことにした。


仕事を終え、彼が宿泊している部屋に上がると、新聞の切り抜きが、壁一面に貼られていた。

「君は、増殖しているんだよ」

善人の死亡記事の横に、同じ人数の悪人の死亡記事が貼られていた。

「君が死の清算をやめてから、まるで新種のウイルスに感染するかのように模倣犯が続出してね。素人がそう簡単に殺しをできるわけもなく、返り討ちにあう者や、殺人未遂で捕まる者がほとんどだったんだが…」

耳を疑った。僕の真似をしている?それも何人も?

「調べを進めると、6人の模倣犯が、今も捕まらずに死の清算を実行していることがわかった」

考えてもいなかった。模倣犯が出てくるなんて…。

「何人だと思う?」

「えっ?」

もう、どう返答していいのか、まったくわからない。

「153人だ。6人で153人を清算している」

僕の影響で?いや、違う。僕はまったく無関係だ。殺された153人に対して、僕が罪悪感を抱くことはない。

「恐れていた通りだった。君を観察していたが、ごく普通の青年として働いている。最も逮捕することが難しい人種だよ。模倣犯の6人も君と同じように、殺人犯とは思えない顔で暮らしていたら、警察もなかなか逮捕できない」


翌日、彼はペンションから去って行った。どうして僕を逮捕しなかったのだろう?考えられる理由は2つあった。彼も死の清算に対して肯定的で、模倣犯の6人をあえて捕まえていない場合。もしくは、彼自身が模倣犯の1人である場合だ。



2016年9月5日ー


僕はもう一度、甲田さんに会おうとした。しかし、宿泊名簿に書かれていた住所にあったのは、老舗のかつ丼屋『かつ日和』だった。店主が何か知っているかもしれない。

「あの、ここに甲田さんという方が通っていませんでしたか?」

「知らないね」

甲田さんも、この店主も社交的な人には思えない。通っていたかもしれないけれど、ろくに会話もしていないのだろう。諦めて帰ろうとすると、ふいに肩を叩かれた。

「君、甲田さんの知り合いなの?甲田さん、突然辞めてしまって…君、何か知っているの?」

刑事を辞めた?なぜ?僕のほうこそ、その理由を知りたいものだ。

「私は甲田さんの後輩の松永よ。ちょっと、ここに座って」

半ば強引に松永さんにかつ丼をごちそうしてもらったが、何度も食べたくなるほど特別おいしくもなかった。それに、美人の松永さんにじっと見られていたから、緊張もしていた。



2016年9月8日ー


僕は、松永さんに逮捕された。取り調べ室は、思っていたより暖かく、ここでは不思議と緊張しなかったことをよく覚えている。

「闇カジノ連続殺人事件の被害者の1人に使われた凶器のナイフについていた指紋と、かつ丼屋で採取した君の指紋が一致したの」

少しでも早く、自分の手柄をひけらかしたかったのか、松永さんはやや早口でそう言った。

「どうして僕が犯人だと思ったのですか?」

あまり興味はなかったが、他に話題がなかったので尋ねてみた。松永さんの目が大きく開き、待ってましたとばかり輝いた。やっぱり松永さんはすごくかわいい。こんな女性が彼女だったらいいのにと、僕が思っているとは露知らず、松永さんが話し始める。

「無意識にやっていたことかもしれないけど、君は他のお客さんが出ていくときに、両手をズボンのポケットに入れたまま入ってきたの。そして、私がかつ丼をすすめるまで、君は店内の何にも触れていていなかったのよ。まるで犯人が現場で指紋を残さないように」

そんな癖がついていたなんて…。僕は完全に犯罪者になっていたのだ。善人の死と同様に、悪人にも死を。正しいことを行ってきたつもりだったけれど、それこそ始末してきた悪人の思い上がりと何も変わらない。

罪を受け入れよう。僕は安堵し、笑みを浮かべた。

「何がおかしいの?」

松永さんが今にも殴りかかってきそうな勢いで僕を睨む。怒った松永さんも、素敵だ。松永さんとこうして会えるように、自白はやめておこう。


今日は、久しぶりにゆっくり眠れそうだ。もう、怯えなくていい。次に何をしでかすかわからない自分に。だけど、僕にとって平穏な休息はたった4週間で終わってしまった。証拠不十分で釈放されてしまったのだ。

一致したはずの闇カジノ連続殺人事件の凶器に使われた指紋も、再度鑑定したところ、僕の指紋と一致しなかったという。

父や伯父が手をまわしたのかとも思ったが、さすがに正確に何人を殺したかもわかっていない殺人鬼を無実にできるほどの権力は持っていない。

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