第二十二話

 馬の速度を上げる。ここまでは馬を使っていない者に合わせていたが、その必要は無い。すでに目の前に敵の姿が見えていたからだ。

 指揮官であるザリーヌ・ノゴ・ベイは、それを見て舌なめずりをする。相手は全くこちらを気にしていない。完全に背を向けていた。

「仕方がないだろうな。私たちのことを味方だと思っているのだからな」

 ザリーヌは腰から滑らかな音とともに剣を抜く。周囲の騎士達も剣と槍を構えた。それを見て、併走していた馬に乗った傭兵の集団も武器を構えた。

「行くぞ……総員、突撃ぃ!」

 十分に速度が乗ったザリーヌ率いる総勢二百の騎兵と、馬に乗った百の傭兵は、エル地方領騎士団左翼部隊の背後へと突き刺ささった。絶叫と鮮血が噴出する。

 それと時間を同じくして動いた者達がいた。

「やっと合流したか! 野郎ども、やるぞ!」

 エル地方領騎士団の右翼にいた傭兵の一人がそう叫ぶと、周囲から声があがった。それに困惑した一人の傭兵が詰め寄る。

「どうしたんだお前は? 他の奴らも戦おうとしない。何をやってるんだ!」

 右翼の傭兵のほとんどは敵と戦おうとしていなかった。三十人程度しか戦闘へ積極的に参加していない。敵が戦闘経験が無い農民達だからなんとかなっているが、もし相手が傭兵達だったなら、今頃全滅するか逃走していることだろう。

「うるせえよ、バカが」

 そう吐き捨てた傭兵は、問い詰めてきた味方であるはずの傭兵を手に持つ剣で突き刺した。腹に刺さった剣を不思議そうに見て、その口から鮮血をあふれ出させながら死亡する。

「お前ら、ちゃんと見分けろよ! 腕に布を巻いている奴が仲間だ! それ以外は殺せっ!」

 血に濡れた剣を振り上げた傭兵の腕には、赤い布が巻かれている。それに答えた男達の腕にも同じ布が巻かれていた。


 高価な酒を飲む男は、ふと顔を上げた。そこには部屋の壁しかなかったが何を思ったのか、悪意ある人間が浮かべる醜い笑みを浮かべた。

「もうそろそろ、あの女が死んだころか?」

 男はたるみきった脂肪が付きすぎて三重になったアゴを震わせた。

 彼の名は、ヒルレーヌ・ノゴ・ベイ。エル地方領の隣に位置するノゴ地方領の領主だ。年齢は四十。アゴだけでなく全身が脂肪で膨れ上がっている。そのため普通の椅子には座ることができず、彼が座る椅子は全て特注品だった。

「これであの女が死ぬと思うと清々するわ」

 笑いながら酒を飲む。口の端からこぼれていたが気にしていない。汚らしく口を手で拭う。

 彼はかつてネルゴットに結婚を申し込んだ一人だった。彼女を愛していたわけではない。その美貌だけが目的だった。

 彼の女狂いは有名だった。妻を五人も娶り、さらにはメイドだろうが部下の妻だろうが目に付いた女性を全て手篭めにした。さらには領地の村から若い娘を誘拐し、散々玩んだ後は娼館に売るという鬼畜のようなこともやっている。

 彼が領主であるノゴ地方領は広く肥沃な平地が広がっていて、ボラス王国一の食料生産地だった。だというのに領民達の生活は豊かなものではない。ヒルレーヌがとんでもない重税を課していたからである。領民たちから巻き上げた金で彼は贅沢三昧な日々を過ごし、今の醜い体が作り上げられたのだ。

 ヒルレーヌがネルゴットに目をつけたのは、蛮族討伐の祝賀会でのことだ。まだ成長しきっておらず、だからこそ特有の色気を持つ彼女に男の食指が動いた。

 晩餐会のたびにヒルレーヌはネルゴットへ接触したが、すでに肥満体で常人より二周りも膨れた姿は、ネルゴットにとって見るのも嫌なほど醜いものだった。

 しかし相手は王国有数の領地を持つ貴族だ。無下にするわけにも行かず、適当にあしらっていたが、それが何年も続くとさすがにネルゴットの限界が来た。

 その日、ヒルレーヌが誘うとネルゴットはそれに頷いた。それどころか彼女から人気のない場所へ腕を引いていく。これから起こるであろう事に想像を巡らしてだらしない笑顔を浮かべていると、突然首を絞められ地面へ引きずり倒された。

 息ができない苦しさに目を白黒させていると、冷たい顔をしたネルゴットの顔が飛び込んできた。何をするのかと怒鳴りたいが、首を絞められていれば声も出せない。

「いい加減、うんざりなのですよ、ヒルレーヌ様」

 ネルゴットは首を絞める腕にさらに力をこめると、まるで子供に言い聞かすように言った。ただしその声は鳥肌を立たせるほど冷たい。

「あなたがどれだけクズな人間なのか、私は知っています。一体何人の女性を玩んだのですか。いえ、人数など知りたくないですね。いいですか。どうせあなたは私の容姿にしか興味がないのでしょう。ですが私は、あなたの醜く汚らしい泥豚よりもたるみきった姿が、吐き気がするほど嫌いなのです! こうして近づくだけでも怖気がする!」

 すでにヒルレーヌの顔は呼吸困難で真っ青だった。そんな状態にも気付かないほど彼女は怒っていた。今にも首を折ってしまいそうだ。

 ついにヒルレーヌの口の端に泡が出てきたころ、ネルゴットは腕を放した。ヒルレーヌは膝をつき、何度も咳き込みヒューヒューとのどを鳴らす。その様子をネルゴットは刺すような視線で冷たく見下ろしていた。

「今後、私に関わらないでください。もし従わないのでしたら……こんなものじゃすみませんよ。では……」

 まさに汚物を見るような一瞥を向けた後、ネルゴットは背中を向けて去って行く。それをヒルレーヌはよだれをこぼしながら睨み、この復讐はいつかしてみせると心に誓った。

「あの時からずっと、この機会を待っていた……」

 ヒルレーヌは復讐の機会をずっと探していたが、彼女は有力貴族の娘であり、蛮族との戦争で名を上げ王の親衛隊にまでなってしまった。いくらヒルレーヌでも簡単に手を出せる相手ではなかった。

 しかし彼女はその地位を捨て、弱小貴族の妻となった。しかも隣接する領地の貴族の元にだ。この機会を逃すわけにはいかない。

 そして長い時間をかけ、今回の作戦を練った。ネルゴットもまさか敵国と手を組むなどは想像もしていないだろう。

 ヒルレーヌは密かにイヴュル帝国へ手紙を送った。正確には、山脈を挟んでエル地方領と隣接するイヴュル帝国の領地を治める貴族にだ。その内容は「エル地方領を共同で統治しませんか」とういうものだった。

 エル地方領は山脈の間に刻まれた割れ目のような場所である。山脈は険しく狼や熊といった獣も多いので、人の足で移動することは不可能。北はイヴュル帝国で塞がれた、行き止まりの土地だ。その隣にあるのはヒルレーヌが治めるノゴ地方領。つまりイヴュル帝国とヒルレーヌが手を組めば、エル地方領を挟み撃ちにできるのだった。

 今回の作戦はこうだ。まずイヴュル帝国が侵攻してきたとすれば、間違いなく救援を求めるだろう。その知らせが届くのはどこかというと、隣の領地であるノゴ地方領だ。早馬から知らせを受けた騎士は、ヒルレーヌの元へそれを届ける。王へとイヴュル帝国の侵攻があったことと、その救援を求める書状。それをヒルレーヌは握りつぶした。エル地方領の現状は、これ以上誰にも知られることはない。

 そしてイヴュル帝国軍を討伐に向かったネルゴット達を、救援として送ったザリーヌ率いる騎士と、こんな表には出せない仕事でも嬉々として請け負う傭兵達が襲い、イヴュル帝国の軍勢と協力して殲滅する。

 その後は城に残っている領主ルカールを含めた全員を、これまた殺して証拠隠滅を行う。そして何食わぬ顔でヒルレーヌは王へ報告するのだ。「突然のイヴュル帝国の奇襲により、奮戦むなしくネルゴットとリカールは死亡。騎士団も全滅。それを知った私、ヒルレーヌは騎士団を派遣し、イヴュル帝国軍を追い払った」と。その功績をもって、ヒルレーヌはエル地方領を己の領地として得る。

 実際は追い払ってなどいない。それどころかイヴュル帝国の者達が村を略奪し、村人達を一人残らず誘拐していく様を見逃すのだ。これはイヴュル帝国側とヒルレーヌが約束した事だった。

 略奪した食料は万年食糧不足のイヴュル帝国へ運ばれる。村人達も農奴として運ばれる。そして、いなくなった村人のかわりにイヴュル帝国から農民を移住させる。これはイヴュル帝国にとってまたとない最高の条件だった。そうは言っても全てイヴュル帝国へ全てその富が流れるわけではない。エル地方領の富の四割はヒルレーヌへと流れる。これはヒルレーヌの取り分であると同時に、ボラス王国の領地を売り渡したことを気付かれないようにするためでもあった。エル地方領からの税収がなければ、そことを疑われるためだ。そもそもエル地方領で得られる程度のものに全くヒルレーヌは興味が無かった。その何十倍もの富が自分の領地から得られるのだから。彼はただ、己に屈辱を味あわせたネルゴットに復讐する、それだけが目標だった。その結果として自国の土地を敵に明け渡す、その罪を全く自覚していない。

 嫌らしく唇を歪めると、杯を傾けて豪快に酒を飲む。

「勝利の美酒は格別だ」

 醜い顔の口の端から、血のように赤い酒が一筋垂れていた。


 周囲は混乱の渦だった。意味の無い叫び声がそこらじゅうで飛び交う。

「一体どういうことだ!」

 ネル地方領騎士団左翼の指揮官である第二騎士団長は苛立って叫んだ。それだけで人を殺せそうな目で睨む。その視線の先では、味方であるはずのノゴ地方領騎士団と傭兵達が、自分達へと襲い掛かっていた。

 血しぶきと絶叫がここからでも確認できる。騎兵を先頭にして突撃してきた彼らは、歩兵しかいない左翼を後方から簡単に突き破って進む。まさか援軍である彼らから攻撃されると思っていなかった騎士達は、何の準備もできず殺され、混乱の坩堝に放り込まれた。

「なぜ! なぜ味方である我等を襲うのだ!」

 騎士団長の叫びは彼らに届くことなく、悲鳴と殺戮に狂乱する叫び声でかき消される。


 同じ様に、前線で戦うネルゴット達も混乱していた。

「どうして私達に襲い掛かるのよ! まさか、こちらの騎士に変装した敵なの!」

 思わず冷静な態度が剥がれ、驚愕の悲鳴が口から放たれる。

「それは違いますネルゴット様! いくらなんでもそれは不可能です!」

 副官の騎士がそう諭すが、ネルゴットの混乱は収まらない。視線は乱れ、襲われている左翼の周囲をウロウロと彷徨う。思考が定まらない。

 そんな彼女の耳に、新たな騒乱の声が聞こえた。今度は右翼だ。そちらへ目を向けて、再び絶句する。なんと右翼の傭兵集団が、味方の騎士団へと襲いかかっていたのだ。

 現在の状況は、三角形の槍の穂先のようにネルゴット達騎兵が敵集団に突き刺さり、その後ろから自らの足で進んできた騎士達が、左右に若干左右に広がった状態で戦っている。その騎士たちの側面を傭兵達が襲撃していた。

 これはほとんど全体を包囲されているのと同じ状況だった。右翼は同じボラス王国の騎士に攻撃された混乱から立ち直れず、右翼の傭兵による突然の裏切り。ネルゴット達騎兵はすでに敵集団の中に深く入り込んでいて身動きできない。後方へ下がって救援へ向かいたくても、後ろは仲間の騎士たちで塞がれてしまっていた。

 まさに絶体絶命。そのことが逆にネルゴットを冷静にさせた。右翼に襲い掛かるノゴ地方領騎士団。傭兵達の裏切り。思考が高速で回転する。

「あの掲げる紋章旗は間違いなくノゴ地方領のもの……傭兵の裏切り……普段より多い傭兵の数……そういうことなのね!」

 考えがまとまったネルゴットは確信と、憎悪の込められた叫び声をあげた。

 普段は三十人にも満たない傭兵達が最近になってエル地方領主城の町に増えたのは、ヒルレーヌが自分の手の者を送り込んでいたのだ。彼はもっと大量の人数を仕込みたかったが、辺境に突然傭兵が大挙して来たとなれば疑われる。そのため今回のことを決意してから、一月の時間をかけて徐々に傭兵を送り込んでいた。

「ヒルレーヌ……あの肥満豚! 私をいつまで恨んでいるのよ、陰険野郎!」

 汚い言葉が口からつい漏れる。

 ヒルレーヌを叩きのめした後からは、彼がネルゴットに近づくことはなくなっていた。しかし晩餐会などで粘りつくような視線を感じると、そこには醜い憎悪の瞳があった。ヒルレーヌだ。

 ネルゴットが目を向けるとすぐに姿を消したが、その晩餐会の間中、どこからかその視線を感じ続けていた。それは一回だけではなく、何回も何年も続いた。ネルゴットが結婚し、晩餐会など貴族の集まりから遠ざかると、やっとその視線に悩まされることはなくなる。彼女がネミールに語った「変な男につきまとわれた」というのはこの事だった。

「ネルゴット様!」

 その叫び声で我に返る。いつの間にかすぐ近くまで敵傭兵が接近していて、大きく剣を振りかざしていた。嬌声とともに振り下ろされた剣を自分の剣で払いのけ、ネルゴットは精確にその男の首を切り裂いた。悲鳴もなく倒れる。

 突然の事態に混乱していた間に、魔法によって開けた穴が塞がってしまっていた。前方は敵で埋め尽くされている。

「ネルゴット様、このままでは!」

 足が止まってしまった騎兵は歩兵にも負ける。その移動力と速度の乗った突撃こそが騎兵の攻撃力の源だ。それができないとなれば、攻撃力は半分にも満たない。

「こうなったら全員で突撃するわ!」

 ネルゴットは火炎弾を前方に発射。その瞬間急激な全身の疲労を感じ、意識を一瞬失いかけた。限界が近い証拠だ。しかし炎の鳥を消すことはしない。この姿があるだけで敵への威嚇になる。相手はどれだけあの火炎弾を撃てるのか知らないのだ。

 火炎弾が着弾した場所が爆発し、そこにはえぐれた地面と、炭になった体だけが残っていた。そこを目がけて騎兵達は駆ける。

「このまま敵の集団を抜けて、指揮官を目指すのよ!」

 後方の騎士たちのことは、持ち堪えてくれると信じるしかなかった。とにかくこの密集地帯から抜け出さなければならない。

 駆けるネルゴット達の頭上へと落ちてくる影があった。それはイヴュル帝国の弓兵隊が放った矢だ。ネルゴット達の周囲には味方である人間が密集しているというのに、構わず指揮官であるマルヒンはその指示を出した。

「矢を放て、放て! 農奴や傭兵に当たっても構わん。ただの捨て駒だ!」

 その指示に弓兵たちは無言で従う。彼らにとっても目の前に集まる人間達は、生きている壁程度にしか考えていなかった。精確なネルゴット達の位置を確認することもなく、弓兵達は次々と矢を空へ放っている。

 矢のほとんどはネルゴット達には当たらない。まったく見当外れの場所へ飛び、味方である人間達の肩や体へ刺さる。運悪く頭や目に突き刺さった者は、物言わぬ骸へと姿を変えた。

「まずいわね」

 そうは言っても複数の矢が騎兵達の頭上に降りかかってくる。騎兵達は盾を持ってはいるが、手綱を使うため腕に固定できる小型のものしか装備していなかった。それでは頭しか守ることができない。幸運にも肩の鎧で弾かれた者もいれば、運悪く鎧の隙間から突き立った者もいる。馬に刺されば暴れた拍子に投げ出される可能性もあった。

 ネルゴットは頭上に炎の鳥を滞空させ、その巨体と羽で矢から騎兵達を守る。しかしその傘下に全ての人間を隠すことはできなかった。さらに鳥を出現させているだけで、彼女の体力は削られているのだ。ネルゴットの顔には玉のような汗が浮かんでいる。

 気力を振り絞り前を見据えた。人の壁はまだ厚い。これを抜けるために火炎弾を撃ちたいが、そんな余裕はすでに無かった。あと一発でも撃てば気絶してしまうかもしれない。

「全員死力を尽くしなさい! ここを抜けなければ、私達の負けよ! 続きなさい!」

 力強く馬の腹を蹴り、ネルゴットは人の群れへ突撃する。他の騎士たちもそれに応え、気迫のこもった叫び声をあげながら続いた。空から襲い掛かる矢をものともせず、敵を剣で切り捨て、槍で貫いて進む。

「おおおおおっ!」

 自分を鼓舞するため、ネルゴットは叫ぶ。その脳裏に、城からの出発間際に会った娘の泣きそうな顔が浮かんだ。

(大丈夫よネミール。私は絶対にあなたのところへ帰ってみせるわ)

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