第八話
翌朝、まだ雲が多いが黒く重い雲は消え、吹雪は完全におさまっていた。
太陽はまだ頭の先が山から見えてた程度。星空ぐらいには暗い。そんな時刻に目を開く人間がいた。エインだ。彼はいつもこの時間に起きる。
ベッドからほとんど音もたてず出ると、暗闇をものともせず滑らかな足取りで寝室から出て行った。二人が目を覚ましたのは、太陽が半分以上山から姿を見せたころだ。
「……うう」
まぶたを何度か痙攣させたネミールは、寒さに全身を振るわせた。ゆっくりと目を開ける。小さい窓を閉じた木板の隙間から太陽の光が差し込んでいた。
ネミールは朝が弱い。なかなか頭がはっきりしないのだ。体を起こし何度も左右へ頭を動かし、室内を確認する。
隣に誰かが寝ている事に気付く。はれぼったい目が徐々に焦点を結ぶ。そこに寝ているのはネミールに使えるメイド、アイリーンだ。
そこでやっとネミールの目が開いた。周囲を確認。昨夜は暗くてわからなかった寝室の細部が見える。部屋にはベッドしかない。
「アイリーン!」
ネミールはアイリーンの肩を揺さぶって起こす。
「ううん……あっ、お嬢様!」
ネミールの顔を確認したアイリーンは慌てて飛び起きる。
「すいません、お嬢様を起こすのが私の役目ですのに」
アイリーンは深々と謝罪した。起きれなかったのは昨夜の疲労のせいだろう。余分の服を全てネミールの防寒着として譲り、メイド服だけであの吹雪の中を歩いたのだ。体調を崩していないのが不思議なほどである。
「あやまることなんてないよ。それで……エインはいないみたいだけど」
エインが寝ていたベッドを見ると誰もいない。
寝室のドアが開いた。エインの顔がすっと出てくる。
「朝ごはんできたけど、どうする?」
ネミールはアイリーンへ目でどうするか問いかけると、頷く。
「頂きましょう。時間がありませんが、途中で倒れてもいけませんから」
昨日と同じテーブルで食事をする。違うのは料理で、野菜の切れ端が入った麦粥だ。少しの塩味が食欲をかきたてる。量は多くなかったが、それでも二人の腹は十分満たされた。
「濡れた服は乾いてると思うよ。着替えは寝室でやって」
食べ終えた食器をエインは運び、扉の向こうへ姿が消える。
「たしかに乾いていますね。着替えましょうお嬢様」
寝室でアイリーンはさっとメイド服へ着替える。その後ネミールの着替えを行う。ネミールは貴族の娘らしく、自分で服を着替えたことがない。
「寒いので少し不恰好になりますけど、何枚か下に着ておきましょう」
「うん。もう寒いのは嫌だわ」
着替え終わり、昨日の悲劇を思い出してネミールはため息をはく。
「では行きましょうか。まずは馬車まで戻らなければなりません。馬が凍死していなければいいのですが……」
「追いつけるのかな」
「大丈夫です。すぐに道へ戻って……」
アイリーンの表情が硬直する。さらに汗が浮かんできた。
「どうしたの?」
「忘れていました。ここまでがむしゃらに馬車を走らせていたことを。地図に無い場所ですから、元の道へどういけばいいのか……」
二人は無言となり、重い空気が漂う。ネミールは眉を下げた情けない顔に、アイリーンは眉間に皺を刻み歯を苛立ちで噛み鳴らす。
そして、急にアイリーンがバッと顔を上げる。
「そうです! あの少年に案内させましょう」
少年エインは家の裏手にある小川で食器を洗っていた。背後に気配を感じたエインは顔だけを向ける。アイリーンと、その背中に隠れるかのようにネミールが立っていた。
「どうしたの。もう出て行くかと思ったけど」
「はい、たしかに出発しようと思っていました。ですが、そうもいかなくなったのです」
「なんで?」
「道が分かりません」
その言葉に、エインは心底不思議そうに首を傾げた。
「ここまで来た道を戻ればいいだけだよ」
「それが分からないのです。騎士に追いかけられて夢中で逃げていたうえに、吹雪で方向もわからなくなりました。このあたりは地図に道も描いてありません。これでは不可能です」
「でも、通った跡をたどれば簡単だよ」
「跡とは?」
「通るときに踏んだ草や土、引っかかった木のキズ、そういうのを見ればどこを通ってきたのかわかるでしょ?」
それが誰でもできるありきたりの技術だと思っている様子で、エインは言う。そんなもとは一流の狩人でも難しい技術だ。こんな少年が持っているような技ではない。しかし円の様子は全く普通で、それを誇っている様子も、偽っている様子も無い。長い時間で蓄積された実力に裏打ちされた雰囲気を纏っている。
アイリーンは驚愕と呆れの混じった表情で肩をすくめる。
「そんなこと、普通の人間には無理ですよ」
「そういえば、じいちゃんもばあちゃんも、これをできるの人は少ないって言ってたかな? よく見ればすぐわかるのに」
「そういうわけですので、あなたに道案内を頼みたいのですが」
「地図はないの」
「ありますが、馬車に置いたままです」
「じゃ、そこまで行こう。そこで地図を見ながら教えれば戻れるよね」
そう言うと桶の中に食器を入れると立ち上がって歩き出す。
「ちょっと準備するから」
エインは家に入り、すぐに出てくる。変わったのは体に灰色の毛皮を纏った外見だけだ。
「これ」
エインは手に持っていた細長い毛皮をネミールに渡した。白いウサギのものだ。
「これって?」
「えり巻き。首にそれを巻くだけでけっこう暖かいよ」
「あ、ありがとう……」
「きみって寒がりなんだね」
急な贈り物にネミールは目を白黒させている。アイリーンは敵を見るようにエインを睨んでいる。ギリギリと歯を鳴らし「私もプレゼントなどしたことがないというのに……!」とつぶやきながら、血の涙を流すような形相だ。
「じゃ、行こう」
「あなたは馬車がどこかわかるのですか?」
「跡があるし。向こうから来たんでしょ?」
エインは指さすが、その方向には裸の木々が並んでいるだけだ。道はあるのかもしれないが、機能の吹雪で雪が足首ほどまで積もり隠している。さおかげで二人の足跡など何も無い。だというのにエインはそこに痕跡を見つけているようだ。
半信半疑でアイリーンとネミールは少年の後に続く。しばらく進むと、急にエインが立ち止まる。
「どうしたのですか?」
アイリーンの質問にエインは答えず、目を細めて前の一点を見つめている。
「声は出さないで。ゆっくりと歩いて」
軽い口調にかすかな鋭さをふくめた言葉。ネミールもアイリーンもその雰囲気に顔を見合わせ、小さく頷いた。
さくさくと雪を踏む音がする。それは二人分だけ。なぜかエインだけ足音が聞こえない。それだけで少年が達人の狩人であることが窺える。
さっとエインが姿勢を下げる。伏せてはいないが、それに近い。後ろの二人に手で近づくように合図する。ネミールたちは慎重に進む。
少し離れた斜面の下に馬車が見えた。馬は吹雪に耐えて元気な様子だ。
そこには馬車と馬以外の姿があった。鎧を身に着けた騎士の姿である。一人は外で周囲を警戒し、もう一人は馬車の中を荒らしていた。物を投げる音が聞こえる。
「だめだ。中にはいない」
「どこに行ったのか。おそらく遠くには行っていない。馬もつないだままだしな」
「どうする? 見つからないと団長殿に叱責されるぞ」
「クソ寒い雪山を山狩りなんてやりたくないぜ。さっさと終わらそう」
外にいた騎士は剣を抜き、馬車につながれていた馬の首を切りつけた。一度だけ悲鳴をあげて、馬は倒れる。それを見たネミールは悲鳴を寸前のところで口を押さえることで防いだ。エインとアイリーンは目を細めただけだった。
「おい、どうして馬を殺した」
「こうすりゃ逃げられないだろ。馬車は操れても馬に跨れるやつはほとんどいないしな。俺達の馬が奪われる心配も無い」
「なるほどな。さっさとぶっ殺して戻るぞ」
物騒なことを言いながら騎士たちが歩き出す。
「でもよ、お前が見たのは本当にメイドだったのか? なんでメイドが馬車に乗ってるんだよ」
「知らんさ。ただメイドってことは、領主の城の関係者だろうさ。見られたからには始末しなきゃな」
その言葉から彼らが昨日二人を追いかけた騎士だとわかる。しかも明確に命を狙っている。その衝撃で思わずネミールは一歩下がり、雪に足をとられて転んでしまった。声が漏れてしまう。
「キャッ!」
それを聞き逃さなかったのが騎士だ。
「何だ!」
「そっちから聞こえたぞ!」
二人は確実にネミールたちがひそんでいる斜面の上を見ていた。雪をものともせず駆け出す。
そのとき斜面の上で立ち上がった者がいた。エインだ。右腕を上げ、手に持った刃物、小型の投擲用ナイフを振りかぶり、投げる。
一瞬の早業だった。瞬きするよりナイフを抜いて投げる一動作のほうが速い。
投げられたナイフは騎士の首に一直線に刺さった。悲鳴をあげることもできず絶命。斜面に正面から倒れる。
「どうした!」
ナイフを視認できなかったもう一人の騎士は、男が勝手に倒れたようにしか見えなかった。思わずそちらを見てしまう。視線が外れた瞬間エインは斜面を数歩走り、地面を蹴って残った騎士へ踊りかかった。
「ぐっ?」
エインは腕で騎士の頭を抱え込み、落下する勢いのまま相手の体勢を崩しつつ地面へ頭を叩きつけた。雪がその衝撃を和らげることもなく、一瞬で騎士は意識を刈り取られた。この間、一秒もかかっていない。
ネミールとアイリーンの二人は、少年の速すぎる動きとその技量、そしてなにより躊躇い無く人を殺害したことに、驚愕のあまり声が出ない。
「よし」
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