第15話 2013年(2)
「よかったら、家で少し飲んで行きませんか?近くなんですよ」
「でも…」
「買い物して、つまみができる頃には15時になりますし」
「そんなご迷惑をお掛けするわけには…」
「実は、町子さんのことを祖父に話したら、大笑いして一度会ってみたいと言っていたんですよ」
哲郎さんが、おじいさんにどんな話をしたのか、おおよそ想像がつく。こたつ事件だ。
彼氏と同棲していた時に、彼氏の友達カップルが遊びに来た。明け方には、私以外は酔いつぶれて、こたつに入ったまま眠っていた。
ベロンベロンに酔っ払っていた私は、寝ていた彼氏に特別サービスをしてあげようと思い、こたつに潜った。相手を間違えたことに気付いた時には手遅れだった。
彼氏は泣きながら部屋を出て行き、友達カップルの女の子も私をビンタして唾を吐きかけると部屋から出て行った。彼氏の友達は慌ててファスナーを閉じると、二人を追いかけて行った。
私はトイレに駆け込み嘔吐した。嫌な思い出だが、鉄板のネタでもある。
買出しを済ませると、赤羽駅から徒歩20分弱にある、哲郎さんの自宅におじゃまさせてもらった。おじいさんの邦雄さんは、私を見るなり、股間のファスナーを開くしぐさをして豪快に笑ってくれた。
変に優しくされるより、こうやって初っ端に私の大失態を処理してくれたほうがありがたい。
哲郎さんは、刺身をお皿に盛りつけると、醤油と酢味噌を用意してくれた。
「沖縄の人はこうやってお刺身を食べるって聞いたから」
「ありがとう」
私もこういう配慮ができたら、今頃人妻になれていたのだろうな。
「町子さんは、座って待っていてください」
「でも…」
「じっちゃんの相手をしてもらえると助かります」
「それじゃ…」
渡りに船だった。哲郎さんから刺身の盛り合わせを受け取ると、料理が苦手な私はキッチンから退散し、リビングで野球を見ている邦雄さんの向かいに座る。
もっとお喋りな人かと思ったら、邦雄さんは物静かな人だった。野球を見て、たまに呟くくらいで、芋焼酎の赤霧島をチビチビと飲んでいる。
「じっちゃん、楽しそうだね」
哲郎さんは、イカとトマトのバジル炒めを運んでくると、またキッチンに消えていく。
何か喋らないとと思う反面、邦雄さんと一緒に野球をぼんやり観ながら、黙って焼酎を飲んでいるのもありだと思えた。
「どうしてここでバントなんだ!?」
「バカな監督ですね」
そう言うと、私と邦雄さんはまた黙って焼酎を飲んだ。
そして、試合が6回の表に進む頃には、テーブル一杯に哲郎さんがつくった料理が並んだ。アボカドと豆腐のサラダに、ほっけの塩焼き、ホタテとオクラのソテー、塩辛じゃがバター、卵焼き、どれもおいしく、何よりお酒に合う味付けだった。
「町子さんも野球が好きなんですか?」
哲郎さんは2本目の缶ビールをグラスに注ぎながら尋ねて来た。また泡2、ビール8の割合だった。
「私は甲子園ファンなんです」
甲子園と聞いて、邦雄さんの表情が一瞬険しくなったが、阪神ファンではないことを理解すると、穏やかな表情に戻った。
父と兄が野球観戦をする度に喧嘩をしていたので、私は特定の球団を好きにならないようにしている。
「甲子園大会おもしろいですよね。僕も、あれは2006年だったかな。ハンカチ王子の年の、帝京と智弁和歌山の一戦は最高でしたね。負けはしましたが、よく9回に8点もとったものです」
「おお、あれは名勝負じゃった」
言えない、甲子園ファンと公言していながら、リアルタイムはおろか、ゲイバーに行って『熱闘甲子園』でさえ見ていないとは、5本目の缶ビールを飲んでいても言えない。
「じっちゃん、ちょっと飲みすぎだよ」
哲郎さんが、先ほどから芋焼酎の赤霧島をロックで飲んでいる邦雄さんを注意する。
「バカ言うな、これくらいへっちゃらよ」
「いつも、哲郎さんがおつまみをつくるんですか?」
「おお、こいつのつまみがうますぎるのが悪い。しょんべん行って来る」
「黙って行けばいいのに…」
邦雄さんがリビングから出ていくと、哲郎さんはグラスを持ってきて、焼酎の水割りをつくって、それを邦雄さんが飲んでいたグラスとすり替えた。
「いつもは酒量を気にしながら飲む人なのに、今日は町子さんが来てくれて嬉しいんですよ」
「はあ」
はあ、だって? 町子、せっかく褒めてもらっているのに、はあ、はないだろう。こうやって、婚期どころか恋人になるような候補さえ消えて行くのだ。
「はははははっ。本当に面白い人ですね、町子さんは」
「はあ」
今の、はあ、の使い方は間違っていない。哲郎さんは一体何が面白かったのだろう?
邦雄さんが戻って来て、焼酎の水割りを飲むと「プーッ」と吐き出し、料理にかかってしまう。
「なんてことをするんじゃ!」
「こっちの台詞だよ、もう汚いなあ」
「こんな水にすり替えおって、驚きすぎて心臓発作で倒れてしまうところじゃったわ!」
「水じゃないよ、水割りだって」
「ロックと思って飲んだら、水も水割りも変わらんじゃろ!」
「変わらなくない。水割りは水割りだよ」
「ワハハハハッ」
私がお腹を抱えて笑い出すと、料理を片づけようとしていた哲郎さんの手が止まった。哲郎さんを殴ろうとしていた邦雄さんの手も止まった。
私は焼酎がかかったイカを食べて、ビールを飲むと、思い出し笑いをして危うくイカが喉に詰まりそうになった。
「ゴホッ、ゴホッ。私、決めました。こんなに面白いことが起こるのなら、結婚することにします」
私の突然の結婚宣言を聞いて、哲郎さんと邦雄さんはきょとんとしていた。
邦雄さんが応援していたチームが逆転されていたが、それさえ耳に入っていないようだった。
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