自殺団地
新年を迎えた私に押し付けられたのは、とある公営団地の後処理だった。
美嚢の県営団地は高度経済成長期には二千五百世帯が暮らし、市の財政の殆どを担っていたが、石炭の需要が減り始めると住民の流出が始まり、世帯数は減少し続け、鉱山の閉山と共に殆どの住民が越していったのだ。
しかし、中には引っ越す先のない人々もおり、現在もまだ二十世帯程度の入居者が残っている。取り壊すべきだという声もあったのだが、仮にもまだ入居者が残っていることが問題視された。しかし、それ以上に問題だったのは、それだけの規模を取り壊す費用の方だ。再開発の目処はたっておらず、おそらくはこれからも同じだろう。
現在、美嚢団地は殆ど無人といっていい有様で、廃墟同然である。道路は罅割れ、公園の遊具は錆びて朽ち果てている。美嚢団地は人々の記憶からも忘れ去られつつあった。
しかし、数年前から美嚢の県営団地の名は、人々によく知られるようになった。
飛び降り自殺する者が続出したのだ。
十年間に七名。
自殺した七名のうち、二人はその部屋の入居者だったが、残りの自殺者は入居者ではなく、自殺の噂を聞いて肝試しにやってきた他県の若者たちだ。県は入居者が立て続けに飛び降り自殺をした直後、すぐに件の部屋に入居できないようにした。県営団地の抽選を行っても該当者はなし、ということだ。鍵もかけ、部屋は封鎖された。
しかし、噂を聞きつけた者が部屋へやってきて、施錠されて誰も立ち入れないはずの部屋のベランダから飛び降りる。何度対策を講じてみても、一向に効果はなかった。すぐにこの物件は『曰くつき』という扱いとなった。
不動産や住宅関係の業界ではこういうことは珍しくない。そうした話題の宝庫といってもよかった。首を吊った霊が視える、畳の下から爪でひっかく音がする、など枚挙に暇がない。私もそういう物件を何度も担当したが、慣れそうにない。
今回の件は今までとは違う。
上司から特別に『改修補正予算』という項目で大金を与えられた。その額はそれなりのもので流石に驚いた。
要は、金なら積んでやるからどうにかしろ、ということらしかった。
私は以前、とある物件で知り合った人間に連絡を取ることにした。
予算がおりたのは非常に好都合だ。今回は自腹を切らずに済む。
○
待ち合わせはとある骨董店で行う。
その骨董店もいわゆる曰くつきで、私はなるべく足を伸ばさないようにしているのだが、なんだかんだと言って何度もここへ足を運んでいる。そもそも彼と知り合ったのもこの店からの縁だ。蛇の道は蛇とはよく言ったものだ。
その日は曇天で今にも雨が降り出しそうな空模様だった。私は約束の時間より少し早く、件の骨董店へ向かった。路地裏を何度も迷いながら、私はようやく店の前に立った。
店には看板のような類はなく、ただ曇りガラスの戸にえらく達筆な毛筆で『夜行堂』とある。一見してなんの店か判然としないが、ともかく戸をあけて中へ入る。もうすぐ雨が降り出しそうだ。
店内は相も変わらず薄暗く、照明の類は天井から吊るされた裸電球だけ。酷く寒々しい店内には乱雑に物品が置かれている。どれもこれも怪しげで、皆目なんに使うのか分からないが、それらには値札らしきものはつけられていない。
店の奥、帳場に腰かけて水煙草を吸っている女が私を見て目を細める。
「久しい顔じゃないか。また何か困りごとかな」
女は楽しげに言って、肩にかけたカーディガンを揺らした。
彼女がこの店の店主だが、一癖も二癖もある人間で私はあまり得意ではない。いつも人を食ったような顔をして、見透かしたように人を煙に巻くのだ。
「君のようにここへ何度も訪れる者も珍しい。どうだ。なにかひとつくらい見繕ってみないか? 御代はいらない。君は引く手数多だからな」
彼女の言葉はあながち間違っていない。こうしている間にも、私の背後から服の裾や後ろ髪をついついと抓んでくる何かがいるのだ。無論、振り返ってもなにもいない。しん、と静まり返っている。
「彼の手助けが欲しいのですが、連絡を取ってくれませんか」
「本来、私は人と物の縁を繋ぐのが仕事なのだけどね。しかし、運がいい。彼ならもう間もなく来る頃合いだ。一仕事終わったという話だから都合もいいだろう」
言うやいなや、ガラス戸が開いて若い男が入ってくる。短く髪を刈り上げた背の高い男で、長袖のセーターを着ているが、右腕がないので袖だけ頼りなく揺れている。
「なんだ。大野木さんも来てたのか」
私に一瞥し、彼は夜行堂の主人になにかを手渡した。風呂敷に包まれた小さな箱のようなものだったが、私は詮索しない。
「仕事が早くて助かるよ。どうだったね?」
「しばらく魚は見たくもないな。危うく溺れかけた」
疲労困憊といった様子で彼はため息をついて、それから私を胡乱気に見た。
「それで今日はなんの用? 俺に用事があるんだろ?」
私は彼に事情を説明した。話が進んでいくにつれ、彼の顔色は芳しくなくなり、次第に唸るような顔になった。
「余所に頼んでくれ。俺はやらない」
「予算も潤沢です。言い値で構いません」
「そういう問題じゃない。そういうのは扱わないことにしているんだ。何度も言うけど、俺はお祓いの類は出来ないんだよ。口寄せ屋の出来損ないみたいなもんだ。そういうのは本職に頼ってくれ」
「しかし、君の仕事ぶりは我々の間でも有名です。腕に問題はない筈」
「大野木さん。勘違いされたままだと困るんだよ。俺は視たり、触れたりすることは出来る。確かにそのへんの連中よりも深く視ることは出来るけど、それだけだ。素人に毛が生えたようなものなんだよ。だから引き際だけは絶対に間違えられない。逃げだせないと気付いてからじゃ遅いんだ。あの団地はよくない。俺の手には負えないよ」
悪いけど他を当たってくれ、と彼は言って、感覚だけが残っているという失った右腕の袖を振った。
「俺もあそこには何度か近くを通ったことがあるけど、あれは駄目だ。とてもじゃないけど手に負えない。火傷程度で済むのなら、俺も仕事だから文句は言わないけど、あの団地はそんな生易しいものじゃない」
だから無理だよ、と彼は頑なだった。
彼だけではない。私の知る誰もが美嚢団地に関わることを極端に嫌がった。霊感などない私にはまるで分からないが、彼らはあの団地に近づこうとさえしない。
「いいじゃないか。引き受けるべきだ」
「あんたは黙っていてくれ」
夜行堂の女主人は楽しくて仕方がないといった様子で、ぷかぷかと水煙草の煙を虚空に噴いている。甘い香りが否応なしに肺の中に入っていて思わず顔をしかめた。
「なら、こうしよう。件の部屋で曰くつきの物が見つけられる筈だ。それを回収してくることに成功したら、前回の借りはなかったことにしようじゃないか」
彼は唸るような顔をして、女主人を睨みつける。
「あんた、まさかそいつが元凶じゃないだろうな」
「まさか。あれは今回の件とは無関係だ。なにしろ、あれはまだあの部屋にはない。どうするね? 借りを返しておいた方がよくはないか? それとも違う機会に返してもらおうか」
「冗談じゃない。近い分だけまだマシだ。引き受けるよ。もちろん謝礼はもらうからな。大野木さん、さっそく出かけようか」
「これからですか」
「犠牲者が増えるのは困るだろう。それに夜の美嚢団地に行くのだけは避けたい」
絶対に無理だ、と断言する。
「わかりました。すぐに車を回します。なにか必要なものはありますか?」
「何もいらないよ。いや、運動靴に履き替えてくれ」
「運動靴?」
そうだよ、と彼は言いながら欠伸を噛み殺す。
「革靴じゃ逃げきれない。いざという時は置いていくぜ」
そんなことを言った。
○
美嚢団地は私が想像していた以上に荒れ果てていた。荒廃、という言葉はまさにこの状況を表すための言葉だった。
道路のアスファルトは罅割れ、あちこちの亀裂から草が生えてしまっている。信号機は赤く点滅を繰り返し、街灯は折れて朽ち果てているものまである。道路を左右から押し潰すようにそびえたつ団地棟は長年の風雨によって変色し、無残な有様になっていた。ベランダの窓ガラスは悉く割れ、とても人が住める環境ではない。
時折、塗り固めたような暗い部屋の奥から視線を感じたが、気にしてはいけない。
私はゆっくりと車を走らせながら、件の部屋のある第三十七棟へ向かう。
助手席に座る彼は目を閉じて、なにも言わない。車に乗り込むなり、眠ってしまった。よほど疲れているのか、まるで死んでいるような深い眠りだった。
第三十七棟の駐車場へ車を止め、彼を起こす。
「着きました」
「ん、ああ、はい。さて、行きますかね」
助手席を降りた彼にならい、私も後に続く。
「ついて来なくてもいいですよ」
「いえ、自分も行きます」
責任感などではなく、こんな場所に一人で置いていかれる方が危険だ。実際、前にそれで私は死にかけたことがある。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
彼はなにも持たず、片袖をぶらぶらさせながら入口へ向かう。その後に続きながら、なるべく周囲を見ないように専念した。余計なものは視ない。
罅割れたコンクリートの階段を登る。エレベーターもあるが、こういう時には使用を避ける方が賢明だ。
「大野木さん」
「はい」
「前に組んでた綺麗な女の人はどうしたんですか? 柊さんでしたっけ」
「彼女は旅に出ています」
「旅ですか」
「はい。旅です。暫くは帰ってこないかと」
「それじゃあ、音信不通ですか」
「いえ。たまに絵葉書が届きます。先日は竜を宿した若者と酒を呑んだとか」
「なんですか、それ」
「そういう類の話ばかり届きます。楽しそうでなによりですが」
「俺も旅とかしてみたいですね。仕事とか抜きで。温泉とかいいな」
「温泉ですか。いいですね」
「どっか良いところあります?」
「大分県の別府温泉がいいですね。あと熊本県の黒川温泉など。草津もよいですね」
「さすが詳しいですね」
無駄話のように聞こえるが、私は彼が無駄話をしない人間だと知っている。こういう話をするのは決まって、こういう状況の時ばかりだ。意識を話題に向けることで、私があれらを視なくともよいようにしているのだ。
柊さんや、彼と仕事をするようになり、分かってきたことがある。
霊や怪異というのは電磁波のような、そういうものに似た性質があるらしい。例えるのならラジオだ。誰にでも電磁波を捉えるチューナーを持っている。だが、それは個人によって受信できる範囲が異なっているのだが、彼らはそういう範囲が通常よりも広いのでそれらを捉えることが出来る。そして、こういう場所に来ると私のような者も受信できる範囲が広くなるのだ。
そして、こちらが視えるということは、あちらからも視えている。
「ここだ」
不意に、彼の足が止まる。
「鍵がかかっています。少し待ってください。今、出しますから」
ポケットから鍵を取り出そうとした瞬間、罅割れた音と共に重い金属の扉がひとりでに開いた。思わず背筋が震え、逃げ出したくなる。
「さぁ、行こうか」
お邪魔します、と小さく告げて彼が中に入る。一瞬、躊躇したが私も彼に続いた。
部屋は小さなワンルームの間取りの筈だが、薄暗い闇のなかでは部屋はもっと大きく見えた。
壁紙も畳も真新しいが、室内は禍々しく、脂汗が止まらない。視られている、そう思った。
襖の隙間、天袋の闇。そこかしこから視線を感じる。
まるで、ここは誰かの腹のようだ。
奥の部屋への襖を開ける。ベランダに面した小さな居間。
不意に立ち止まる。強い潮の香り、いや、これは血の匂いだ。
窓の向こう、ベランダに何かが立っている。
ぼさぼさに伸びた髪を顔にかぶった女。骨のように白く乾いた肌が斑に血に染まっている。
髪の毛の間から覗く、無数の闇が蠢く眼窩が私を視た。どろり、と血の涙が頬を伝う。
全身が粟立つ。私は絶叫した。
振り返った彼が瞬きひとつできずに叫び続けている私を、奥の部屋へ突き飛ばした。思わず尻餅をついた私の視界のなかで、あの女が居間に立っているのが視えた。蠢く髪が畳を埋め尽くし、壁を這って天井から垂れ下がっている。
危険があればすぐに逃げ出すと言った彼は、どういうわけか逃げる素振りすら見せず、視えない右手を伸ばした。空っぽの袖が動いて不可視の腕がはっきりと視えた。
天井の髪の毛が彼に覆いかぶさるように落ちる。蠢く髪の毛が彼を呑みこんだのを見て、私は恐ろしさのあまり襖を閉じた。部屋の端まで逃げて、ガチガチと噛みあわない歯の根が鳴った。
悪夢だ。
固く閉じた襖の隙間から、天井板や壁紙の間から髪の毛が蠢いて出てくる。それらはまるで意識を持ったように蠢き、私を探しているように見えた。
不意に、右手に誰かが触れる。氷のような感触だった。
見てはいけない、そう思うよりも早く、私の目がそれを捉える。
それは首の折れ曲がった幼児だった。
私は絶叫し、そのまま意識を失った。
夢を見た。
眉の付け根に黒子のある若い男。
怒声。暴力。
女の髪を掴み、乱暴に壁に叩きつける。
茶碗が壁にあたり、砕け散った。
火がついたような子供の泣き声。
男が立ちあがる。
子供を乱暴に持ち上げ、ベランダの鍵をあける。
女の絶叫。気が狂いそうなほどに悲痛な叫び。
ベランダの向こうに子供が消える。
女がベランダへ駆け寄る。
手を伸ばす。
上下が反転する。
落ちていく最中、髪の毛の間から男の顔が視える。
薄い笑み。恐ろしさと愉悦が入り混じったような貌。
肉がひしゃげる音を、闇のなかに聴いた。
○
「大野木さん!」
気が付くと、私は絶叫していた。咽喉が切れてしまいそうなほど大声で叫び続けていた。
ぱしん、と強く頬を叩かれて正気に戻る。
正気に戻った瞬間、その場に嘔吐した。涙が止まらず、何度も胃の中身を吐き戻す。
「大野木さん。とにかく落ち着いて、息を整えるんだ。おかしくなるぞ。アンタはあの母親じゃない。思い出せ」
そう声をかけてくれた彼は泣きはらした顔をしていた。周囲を見渡すと、芝生の上に横たわっていたらしい。まさかと思って見上げてみると、件のベランダの真下にいるようだった。
「わ、私はあそこから落ちたのですか?」
「飛び降りたんですよ。自分から。まぁ、なんとかなったけど、危うく死ぬところだ」
「夢を見ました。恐ろしい夢を」
「男が子供と女を殺す夢。俺も見ましたよ。たぶん、大野木さんよりも深く視ることができた。酷い気分だ。ああくそ、だから嫌なんだ」
彼は立ち上がり、まだ膝が震えている私を立たせた。
「帰ろう。まずは準備をしないと」
帰りの車の中、私は火を灯していない煙草を咥え、あのマンションでの出来事を自分なりに考えていた。
「私は今まであんな経験をしたことはありませんでした。ああしたものを視たことは何度かありましたが、あれほど深い部分まで視ることが出来たのは初めてでした」
「それは相手が見せたかったからだよ。死に際の感情、その瞬間の記憶が強すぎて未だに同じ瞬間を繰り返しているんだ。自縛霊とかいうのかな。だから、あの部屋に来た人間はあの女の感情に呑みこまれて、ベランダから飛ぶ」
「自殺ではなかった。我が子を助けたい一心で、自らバランスを崩してしまった。あれは事故だった。しかし、子供を殺したのはあの男です」
あの瞬間のことを思い出し、思わず煙草のフィルターを噛み潰した。
「結果、死の間際の感情が強すぎて、あの母親は子供と共に自縛したままだ」
次々にあのベランダから身を投げた人々は、私と同じように意識のないままベランダから飛んだのだろう。
「大野木さん。ひとつお願いがあるんだけど」
「わかっています。それはこちらで手配しておきますから、明日また同じ時間に迎えに来ます」
「話が早くて助かるよ。名前しか分からないけど大丈夫かな」
「問題ありません。市民課に問い合わせますよ」
私は淡々と答えながら、アクセルを強く踏み込んだ。
○
翌日、間もなく日も沈もうかという黄昏時に、私と彼は件の団地の一角に車を止め、ある人物がやってくるのを待っていた。
「簡単に身元を調べておきましたが、正真正銘の悪人ですね。あの事件から二十年以上経過していますが、その間に暴行、詐欺、恐喝など諸々な前科があります。現在は県境のアパートでひっそりと生活していますが、周辺住民からの評判は酷いものです」
「県職員って探偵みたいだな。そんなことまで分かるんだ」
「人脈を少し使いました。ここまで本腰を入れて人を探したのは初めてのことです」
「名前だけでも探せるもんだなあ。それで、どうやって呼び出したの?」
「特に何も。電話で『お前の過去を知っている。取引がしたいので妻と子供を殺した場所に来い』とだけ。それだけですよ。叩けば叩くほど埃のでてくる男です」
「そりゃあ、来ないわけにはいかないわな」
彼は楽しげに笑い、それから遠くから響いてくる車のエンジン音に笑みをいっそう深くした。
私たちの視線の先、罅割れた駐車場に荒々しく停車する一台のセダン。中から現れたのは白髪交じりの中年で、血走った両目であたりを見渡している。
「あいつ、懐に刃物持ってやがるな」
「よく分かりますね」
まあね、と彼は告げてから、もしかして、と怪訝そうに呟いた。
私は彼の携帯電話に電話をかけた。
『来たぞ。顔を見せろ。てめぇ、どういうつもりだ』
「そんな所で話す内容じゃないだろう。件の部屋へ来い。お前と話をつけたいという人がいる。用件は直接、本人から訊けばいい」
一方的に通話を打ち切り、携帯の電源を落とす。
男は口汚くなにか罵った後、しばらく辺りを見渡していたが、やがて非常階段へと向かった。頭上の非常灯が激しく明滅する中、男はかつて自分の暮らしていた階へと辿り着いた。
男が廊下に立った瞬間、件の部屋の扉が勢いよく開いた。そうして、廊下を埋め尽くす波のように押し寄せた髪が男を呑みこみ、凄まじい悲鳴が響き渡った。その悲鳴ごと飲み下すように、男の姿が部屋の中へと消え、ゆっくりと扉が閉まる。不意に悲鳴が途絶え、耳に痛いほどの静寂があたりを包んだ。
ようやく、家族が揃ったのだ。あの女性と子供も満足に違いない。
私は煙草を取り出し、一本を彼に渡した。それから先端に火をつけ、煙をたっぷりと肺の中に吸い込んだ。長く細く吐いた紫煙が、たゆたうように夕暮れの空に漂う。
「終わりましたね」
「いや、まだだよ。俺の仕事が残っている」
ついてくるか、と訊くので、私はもちろんついていくことにした。
件の部屋はまるで別の部屋のように静かで、もうなにも感じなかった。ベランダの向こうから差し込む西日で部屋の中は眩しいほどだ。もちろんあの男の姿もない。おそらくは彼女たちが連れていったのだろう。
「あった。これだな」
居間の畳の上、そこには白木の小刀が無造作に転がっていた。
彼は小刀を取って腰に挟む。
「それはあの男が持っていたものですよね。そんなものをどうするのですか」
「夜行堂に持っていくんだよ。あの女が買い取るさ」
どんなものかは知らないけどな、と彼は呟いて、踵を返した。
彼の後に続きながら、なんとなく振り返った。
あの男が何処に行ったのか、その行方を考えようとしてすぐにやめた。
どうせ見つかりはしない。
こうして、私の仕事は終わった。
今のところ、件の部屋への入居希望者はいない。
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