夜行堂奇譚

嗣人

獄夜古市

屋敷町の片隅にある小さな古本屋で一年程、アルバイトとして働いたことがあった。

 店の名前は『獺祭堂』といって、獺祭魚という言葉からきている。獺祭魚というのは、カワウソが穫った魚を供えるようにして並べることから、転じて書物をよく好み、引用する人のことを指すという。なるほど、確かに店の創始者は本をこよなく愛する人だったのだろう。

 獺祭堂は小さな古本屋で、最近の漫画のような類いは一切なく、店内に陳列するすべての本が難解な書物で、およそ若い人間にはなんの価値もない。そういう店だった。

 私が獺祭堂にやってきたのは偶然、突然の天気雨に降られたからだった。天気がいいな、と出かけた矢先に激しい雨におそわれ、ほうほうのていで近場にあった小さな古本屋に跳びこんだのだ。

 店内は薄暗く、陰気でおよそ活気というものがない。客は私の他に誰ひとりもおらず、どうみても繁盛しているようには見えなかった。

 私は雨宿りをさせてもらった以上、なんでも良いから何か本を買って帰ろうと思ったが、本棚に並ぶものはすべて古い書物ばかりで、普段から漫画しか読まない私にはまったく価値のわからない世界だった。

「なにかお探しですか?」

 店の奥、薄暗い闇の奥から声が聞こえる。目を凝らすと、店の奥からエプロンをつけた若い女性がやってきた。その人はとても美しく、私は思わず言葉を失った。

「いえ、その、急に雨に降られたものですから」

「狐雨」

「え?」

「あら、こういう天気のことを狐雨といいませんか? 狐の嫁入りなんて言うでしょう?」

 そうして、にっこりと微笑む姿に私はすっかり心を奪われ、彼女のことを好きになった。そして、たまたま求人募集の張り紙を店を出る間際に見つけて、すぐにアルバイトとして働くことになったのだった。

「お給金はあまり多くありませんよ?」

 ばつが悪そうに言う彼女の言葉通り、時給は県の最低賃金よりもほんの少し多いくらいだったが、私はそんなことはまったく苦に思わなかった。

   

   ○

 彼女の名前はアヤメさんと言って、私よりも五つも年上だったが、小柄で華奢な体つきだったので年齢よりも幼く見えた。ただ外見とは裏腹に、大人の女性らしく物事に動じず、いつも静かに働いていた。中庭で虫干しをしている時に、膝の上で猫を撫でる姿をこっそり見るのが私は大好きだった。

 アヤメさんは時々、私の仕事が遅くなると夕飯を作ってくれた。

 アヤメさんの自宅は店の二階部分にあり、帳台の奥から階段を登ると六畳が二間、トイレとお風呂がある二階へと繋がる。そこが彼女の自宅であり、他には誰も暮らしていなかった。祖父がまだ存命だというが、何年も前から病院に入院しているという話だった。

 ひとり暮らしの女性の家でご飯をごちうそうになるというのは、なかなか緊張したものだったけれど、アヤメさんは私のことを異性としてでなく、弟のようにしか思っていなかった。

「私には兄弟というものがいませんでしたから、急に大きな弟ができたみたいでなんだか嬉しい」

 そうやって恥ずかしそうに笑って、オムレツをひっくり返すアヤメさんの姿を眺めながら、私はなんとも複雑な気持ちになった。

 私も自分の想いを告げて、彼女の傍にいられなくなるのがなによりも恐ろしかったので、彼女の良き理解者となるよう懸命に働いた。本当にわずかな希望だけれども、よく働く姿に好意を抱いてもらえないかと思ったのだ。

 アヤメさんのご飯をとびきり美味しく、ひとり暮らしでろくに栄養素も考えない食生活だった私は、アヤメさんのおかげで日に日に健康になっていくのを自覚し、こんなお嫁さんが欲しいと切に願った。


 獺祭堂の平均的な来客数は十人前後で、その殆どが何も買っていかない。しかし、週に一度ペースで本を買う客が誰かしらやってくる。その誰もがアヤメさんのことをよく見知っており、前店主のアヤメさんの祖父の代からの常連客だった。

 常連客が買う本はどれもとてつもなく高価だったが、よくよく並んでいる本の値札を見てみると、どれも驚くほど高価だった。私は古本がこれほど高いものだとは知らなかったので、アヤメさんにこんな本を何処から仕入れてくるのか尋ねてみた。

「古本市で仕入れてくるんです。月に一度くらいの頻度ですけど」

 私はぜひ連れてって下さい、と頼んだが、アヤメさんは急に困ったような顔になり、それはできない、と言った。

「少し特殊な場所なので、お連れする事は難しいのです」

 私は荷物持ちでも構わないのでどうか連れて行ってください、と食い下がったが、それでもアヤメさんは頑として聞き入れてはくれなかった。

「あなたは、夜が怖いと思ったことはありますか?」

 アヤメさんはそう呟いて、今までにない表情を私に向けた。

「濃厚な暗闇の中を覗いていると、あちらからもこちらを覗き込まれているような、そんな気分になるんです。でも、闇の中を覗き込まなければ、手に入らないものもあります」

 私はなんだかそら恐ろしいものを感じて、ただただ黙り込むほかになかった。


   ○

 その日は蜘蛛の糸を撒いたような細い雨が降っていた。

 アヤメさんが新屋敷にある病院へ出かけたので、私は一人で店番を任されていた。店番といっても特にやることはなく、帳場でぼんやりと外を眺めるくらいしかやることがない。

 薄暗い店を照らし出す電球をぼんやりと眺めていると、不意にガラス戸の向こうに人影が見えた。

 がらり、と戸を開いて店の中にやってきたのは着流しの中年男で、やたらと細くて骸骨のように不気味だった。頬のこけた白い顔のなかで、二つの瞳だけが炯々と輝いていた。

「いらっしゃいませ」

 男は店内を見渡すでもなく、まっすぐに帳場までやってくると、私の顔をじろじろと不躾に眺めた。

「見ない顔だな。君はアヤメくんの親類か何かか」

「アルバイトです。店主は留守にしております」

 そうか、と男は呟いてから袂から小さな何かを取り出して、台の上に静かに置いた。まるで爆弾でも扱っているような慎重な仕草で、私は思わずそれを凝視した。

 闇を塗り籠めたようなその帯留めは、なにを模しているのか、なんだか薄気味悪い形をしていた。強いて言えば、心臓に似ているような気がした。

「アヤメくんに渡しておいてくれ。かつての約束の品、といってくれればわかるだろう」

 男はそういうと踵を返して店を出ようとするので、私は慌てて男を呼び止めた。

「あの、お名前をお聞きしておいてもよいでしょうか?」

 男は振り返らないまま、ガラス戸を開いて立ち止まる。

「私は木山という。君の名は?」

 その時、私はなんだかこの男に自分の名を名乗るのが恐ろしくなり、思わず黙りこんだ。

 男はふらりと振り返ると、亀裂のような微笑いを白い顔に浮かべた。

「君は賢いな。残念だよ」

 悪寒が背筋を這い上がる。思わず台の上の帯留めに目をやると、蠢くように身をうねらせた。

「うわっ!」

 思わずのけぞったが、よく見るとなんの変化もない。目の錯覚だったようだ。

 気がつくと、男は煙のようにいなくなっていた。


 夕方、店仕舞いをしている所にアヤメさんは帰って来た。

 私はすぐにアヤメさんに木山という男が訪ねて来たことを伝え、男の置いていった帯留めを見せると、アヤメさんはすぐに表情を強張らせた。今にも悲鳴をあげそうな引きつった顔で帯留めを見つめ、それから意を決したように私の手を握りしめた。

「お願いします。ついてきて下さい」

 懇願するようにアヤメさんは言って、私の手の中から帯留めをハンカチでつかみ取った。それから素手で触らないように慎重に包み、帳台の下から取り出した小さな桐の箱に入れてしっかりと蓋をした。

 それから店に鍵をかけ、私はアヤメさんに引かれるままに店を出た。

「本当にごめんなさい。あなたには迷惑をかけてしまいました。こんなつもりではなかったんです」

 沈痛な面持ちでそんなことをいうアヤメさんを見て、私はなんだかとても悪いことをしているような気がしてならなかった。

「どこに向かっているんですか? そもそも、あの男はなんなんです」

「すべてを説明するのはとても難しいのです。あの人は一種の災厄のようなものです。関わってはいけない、そういう不吉な人なのです」

「そんな、人を化け物みたいに」

「化け物よりも、人間のほうがよほど恐ろしい。あの人はそういう人なのです」

「あの男はアヤメさんのことを見知っているようでした。あの人はあなたのなんなんですか」

「私の祖父を破滅させた人です。ですが、祖父にも落ち度はありましたから怨んではいません。祖父があの人に助けられたというのもまた事実ですが、あの人は必ず代償を求めるのです」

「よくわかりません。あの帯留めはなんなのですか」

「生前、祖父が偶然にも手に入れてしまったもので、とても危険なものなのです。祖父は木山氏とあの帯留めを巡ってなんらかの契約を交わしたと聞いていますが、私も詳しい話は知らないんです」

 ごめんなさい、と彼女は苦しげにいうので、私はもうあの男への質問をするのをやめた。

「アヤメさん。どこに向かっているのか教えてください」

「祖父の旧知の方に会いにいくのです。あの店でならどうにかなるかも知れませんから。本当はあなたをお連れしたくはないのです。でも、他に方法がなくて」

 私は歩き続けながら、私の手を引き続けるアヤメさんを見つめた。

「その店はなんというのですか」

 アヤメさんは白い顔で、私を振り返り、囁くようにいう。

「夜行堂。その店は、夜行堂といいます」


   ○

 

 その店は旧屋敷町の路地裏に息を潜めるようにして建っていた。薄暗い路地裏の中でただ一軒だけ軒先の裸電球が明滅していて、おそろしく気味が悪かった。

 看板らしきものは見当たらず、よく見ればガラス戸に張られた紙にえらく達筆な字で夜行堂と書かれていた。

「ごめんください」

 アヤメさんが戸を開いて中に入り、私はその後に続いた。店内は獺祭堂に負けず劣らず陰鬱としていて気味が悪い。裸電球が梁からぶら下がり、あちこちに暗い影が落ちていた。陳列されたものはどれも古く、また統一性がなかった。よく見れば一つも値札がついていない。

 店の奥、帳場にいる人物が私たちを見つけて手を挙げた。

「やあ。アヤメちゃんじゃないか。久しいね」

 店主らしき人物は男性のようにも女性のようにも見えて、どちらとも判断がつかない。薄暗い照明の下、すべてが曖昧にでよくわからなかった。

「ご無沙汰しています。申し訳ありませんが、引き取って頂きたいものがあるのです」

 そういうと、アヤメさんはハンカチに包んだ帯留めを店主に見せた。

「また古いものが流れてきたものだね。これは誰から流れて来たのかな」

「木山さんです。私が留守にしていたものですから、彼が受け取ってしまいました。お願いします。どうか縁を切ってあげてください」

 店主は帯留めを素手のまま摘まみあげると、目を細めて観察した。

「面倒な代物だ。そして、残念ながら彼と縁のある品はここにはないようだね。こればかりはどうしようもない」

 アヤメさんの顔色が真っ青になり、思わずよろめいた彼女を私は慌てて支えた。

「大丈夫ですか」

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 私は彼女がなにをそんなに謝るのかが理解できなかった。

「しかし、まだ方法はある。市に買い付けにいけばいい。あそこなら、これを欲しがる者も多いだろうから。ただし、危険は憑き物だ。それを承知なら、扉をあけてあげよう」

「私が彼の代わりに行きます」

「それはできない。人間が品を選ぶのではない。品物が主を選ぶ。それは君もよく知っているだろう。彼が自ら赴かなければ意味がないんだ」

 私はまだ事情がよくわかっていなかったが、ともかくこの帯留めを市に持って行って売ってしまえばいいのだということは理解できた。

「アヤメさん。俺がいきますよ。これを市で売ってくればいいんですよね」

「あの市は、基本的に金銭でのやりとりはしないのです。物々交換でしか物のやりとりはしません」

「じゃあ、この帯留めと何を交換してくればいいんですか?」

「なんでも構いません。あなたの気に留ったものと交換してくればよいのです」

 ごめんなさい、と彼女がまた謝るので、私はいいんです、と彼女の肩を叩いた。私のことで心配してくれているというのが素直に嬉しかった。

「自分が行きます」

「そうかい。じゃあ、幾つか忠告をしておこう。まずは、これを被ってくれ。向こうでは決してそれを外してはいけない。それだけは守るように。いいね?」

 店主が手渡してきたそれは、木製の獣面だった。どことなく私の顔に似ていて、なんだか気味が悪い。

「それから、あまり奥には進んではいけない。欲を張って奥へ進みすぎると、そのまま帰ってこれなくなるからね。でも、目的の物を見つけるまでは引き返してもいけない」

 店主はそういうと、帳場の奥の戸を開いた。怖々と中を覗き込むと、階段が地下へと続いているのが見えた。明かりは天井にぶらさがる裸電球だけで、それが下までえんえんと続いている。

「さぁ、面をつけて。後戻りはできやしない」

 私は面をつけ、階段の一歩めを踏み出した。途端、背後で戸が勢いよく締まり、どれだけ開けようとしてもびくともしなかった。

 進むしかない。私は意を決して階段を降り始めた。


   ○

 この店はなにもかもがおかしかった。

 地下へ続く階段は終わったものの、たどり着いた地下は通路のようになっていて、よく見れば電車のレールがどこまでも薄暗い闇の奥へと続いているようだった。反対側には赤い文字で『終点』と書き殴ってあった。

 私はそら恐ろしくなり、思わず叫びだしそうになったが、ここまで来たら引き返せないと自分を奮い立たせ、さらに先へと進むことにした。

 レールに沿って歩きながら、私は色んなものを視た。

 裸電球の下で蹲る何か。

 壁の穴からこちらを覗く目。

 レールの枕木に頭をつぶされて、蠢いている人間のようなもの。

 私と同じように獣の面をつけた人間も見かけた。私は彼らにここは何処なのか、と話しかけたが、まるで私のことなど見えていないようで、ことごとく私を無視して立ち去った。そういう人間は必ずなんらかの荷物を持っていて、大急ぎでどこかへ帰ろうとしているようだった。

 私は最初こそ恐ろしかったけれど、いつの間にか感覚が麻痺してしまって、奥に進んでいくにつれ、闇がまとわりつくほど濃くなっていることにも気づかず、淡々と歩みを進めた。

 もうどれほど歩いたか分からなくなる頃、私はその市を見つけた。

 市には幾人かの獣面を被った人がいて、露天をしている「なにか」から壷やら絵やらを自分の持って来た何かと交換していた。

 露天を開いている「なにか」は人間の女や男の面を被ってはいるものの、体は人の形をしていなかった。かろうじて腕や足はあるものの、いやに長かったり、数が多かったりして気味が悪い。

 それらは人の声で客を寄せ、商品を披露した。闇の市に並ぶ商品はどれも希少なものばかりで、およそ何処から手に入れたのか分からないようなものばかりだった。

 古書も多く並んでいて、アヤメさんが仕入れに行っているという市はここのことではないのかと思った。

 私は様々なものを眺めながら、どんどん奥へと進んでいった。あの店主のいうように、奥へ進めば進むほどに商品は品揃えを増し、その価値も高くなっているようだった。しかし、奥へ進むほど人は少なくなっていき、やがて、近くにいるのは私だけになってしまっていた。

「兄さん。面白いものを持っていなすね」

 私を呼び止めたのは、手足が何対もある化け物で、顔には笑う女の面を被っていた。面の向こうから縮れた髪の毛が伸び、強い潮の香りがした。

 私は呆然としながら、手の中の帯留めを見せた。

「これはこれは。大変不吉なものをお持ちで。ちょいと見せてもらっても構いませんかね?」

 私はそれの大きな十本指の掌にそれを落としてやった。

「なるほど。こいつは業が深い。お兄さん。こいつが何か知っているかね」

 私が首を横に振ると、それは嬉しそうに体を揺らした。

「知らぬほうがええやね。どうだろう。兄さん。こいつを私に譲ってはくれないかね。ここにあるものなら、どれでも好きなものをあげよう」

 私は目の前に並ぶたくさんのものを眺めた。どれもこれもたいへんな価値のあるものだろうけれど、私はその中に埋もれるようにして転がる小さな瓶を見つけた。しっかりと封がしてあり、中には小さな光が浮いていた。

 これはなにか、と私が訪ねると、人間の魂だ、と言った。

「私らとの賭けに負けた人間のものさね。欲をかいて負けたのさ。おかげでそいつは孫娘を一人残して、今もその瓶の中で彷徨っているんだよ」

 私はもしかしたら、と思ってこれと交換することにした。

「欲がないねぇ。兄さん。そんなものよか価値のあるものは幾らでもあるんだ。そこの古書なんてどうだい。百人一首の原本だ。たいそう価値があるだろうよ。そんな欲をかいた爺の魂なんてどうするのさ。蓋をあけてやったところで幾ばくも生きられやしない」

 いいんだ、と私がいうと、それは肩をすくめて私に瓶を手渡した。そして、面をほんの少しずらして、大きな口を開いて帯留めを飲み込んでしまった。

 私は道の奥を眺めた。遥か遠くにあわく光が見えたような気がしたのだ。

 この先には何があるんだ、と私が訊くと、それは身を震わせてほくそ笑んだ。

「そう生き急ぎなさんな。嫌でもいつかここを通る羽目になる。さぁ、もう戻んな。店仕舞いだよ」

 そうして、三対の手で大きく柏手を打った瞬間、私の目の前が真っ暗になり、足下が消失した。私は闇の中をどこまでも落ちていく感覚の中、手の中にあった瓶の封を千切り、蓋をあけた。途端、光が弾けるようにして瓶を飛び出し、深い闇から抜け出そうと飛び去っていった。

 私はその光景を眺めながら、ぼんやりと目を閉じた。


   ○

 目が覚めると、私はあの夜行堂で横になっていた。あたりは相変わらず暗く、頭がぼんやりとして現実感がなかった。カチコチ、と壁にかかった時計の針の音がやけに大きく響いていた。

「ああ、目が覚めたようだね」

 店主はよかったよかった、と投げやりに呟いてから、私にコーヒーを持って来てくれた。私は全身が冷えきっていたので、コーヒーの暖かさに救われたような気がした。

 自分はどうやって戻って来たのか、まるで思い出せなかった。今となってはあの闇の中での出来事すべてが夢だったような気さえした。

「言っておくけど、夢じゃないよ。君はよくやった。いや、見事だったよ」

「あの、アヤメさんは?」

「君には悪いと思ったけれど、病院に向かわせたよ。アヤメちゃんのお爺さんの意識が回復したんだ。でも、そう長くは保たないだろうから、ここは任せて別れを告げてきなさい、と言ったんだ。大手柄だったね」

 私は、この人はあの市場での出来事のすべてを知っているのだと気がついた。

「あの瓶の中に入っていたのは、アヤメさんのお爺さんの魂だったんですね」

「そう。あの木山という男にたぶらかされて、自分の魂を担保にして賭けに負けたんだ。アヤメちゃんは店を継いで、あの市で仕入れをしながら、あの瓶を探していたというわけだね。でも、これであの子がここへ来る必要もなくなった。良いことだよ」

 店主はそういって、大きな欠伸をした。

「また退屈になるなあ。この店は誰でも何時でも来れるというわけじゃないからね。退屈でいけない」

 私はあの帯留めの正体を尋ねようかと思ったが、恐ろしくなって辞めた。

「アヤメちゃんによろしく伝えておいてくれ。それから、二度とうちの店を探してはいけないと厳しく言っておいて。あの市にあるものを世間で売るのは少々危ないことだからね。店も閉めた方がいい」

「一つ訊いてもいいですか」

「なんだい」

「あの木山という人のことは放っておくんですか」

 店主は妖しげに笑うと、棚から小さな水晶を持ち上げて電球の光に翳してみせた。

「私はなにもしない。けれども、終わりはそう遠くないだろうね。あの人は闇の中を覗き込みすぎて、身をこぼしてしまったのだよ」

 私はそれ以上、もうなにも聞かずに店を出た。

 これ以上、深く覗き込んではいけない。私はもう充分に闇を視た。

 

   ○

 こうして、私が一年あまりをアルバイトとして働いてきた獺祭堂はその歴史に幕を閉じることになった。

 あの日、アヤメさんは意識の戻った祖父と最後の会話を交わし、その遺言に従って店を閉めたのである。アヤメさんは私に勝手な真似をして申し訳ない、と謝ったが、私はむしろ安堵した。

「祖父があなたに感謝を伝えてくれ、と。本当にありがとうございました」

 アヤメさんはそういって泣きながら微笑んだが、私はとりわけ特別なことはしていない。たまたまそういう縁があった。そういうことなのだろう。

 しかし、雇用関係が終わったのを機に、私は彼女に正式に交際を申し込み、紆余曲折あった後に結婚した。

 ちょうどその頃、屋敷町で木山氏が八つ裂きになって死んでいるのをたまたまニュースをみて知ったが、なにも考えないことにした。

 なにがあったのか、そんなことは考える必要もないことだ。


 獺祭堂の所蔵していた曰く付きの古書たちは、すべて妻の実家の蔵で眠っている。あの市で蒐集した本を安易に処分するわけにも質屋に売って世間にばらまくわけにもいかず、蔵で眠らせる他になかったのだ。

 時折、蔵の中から大勢の話し声や笑い声やらが聞こえてくるが、きっと気のせいだろう。

 確かめずともよいことが、この世にはたくさんあるのだ。

 私はもう闇を視ない。

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