ペンとと!?

秀田ごんぞう

第1話 ――部屋の隅のボール――

 神様ってのはいつだって、どこにだっているものなんだ。

 みえない人だっているし、みえる人だっている。

 神様はなんでもお見通し。

 神様は世界のルールで、世界の光として僕たちの前に降り立つ。

 けれどもたまには神様も僕たちに牙をむく。世界の闇として。

 それは時として、理想と現実という形で僕たちの目の前に現れる。

 神様に立ち向かうために僕たちができること。

 それはペンと紙を手に、サイコロを転がすこと。

 ――たった一つの願いを込めて。





「ふわぁ~」

 初夏の風が過ぎ去る中、一際大きな欠伸をした少年――秋川翔一あきかわしょういちは重い足取りで学校へと向かっていた。心地よいそよ風が、寝癖でぼさぼさの黒髪をさわさわと揺らす。

 昨日の寝不足のせいか、いつもよりも、瞼が重く感じる。翔一は鳶色の目で、ふと青々と広がる空を見上げ、そして嘆息した。

 今年の春に、翔一は地元の公立高校に入学した。環境が変わると、新しい環境には意識せずともつい期待してしまうのが人間だ。翔一もそんなちっぽけな人間の一人。きっと今までにないくらいすばらしい出来事に巡り合えるに違いないと思っていた。

 しかし、現実はそんなに上手くいくものではない。生来の仏頂面も災いしてか、翔一は入学以来クラスにもあまり馴染めずにいた。これといって部活の勧誘をされるわけでもなく、勉強だけはそれなりにやっていたものの、休み時間はいつも窓の外をぼんやり眺める――そんな日々が続いていた。

 翔一は高校生活に、ある種の虚無感と言えるようなものを感じていたのだ。だが、翔一には何もできない。期待しすぎていたのは事実かもしれないが、翔一にとって、今の生活は大切な何かが欠落したものだったからだ。翔一にとっては、本当に大切な……何か、が。

 とぼとぼと校門をくぐると、朝練をしているサッカー部や野球部の様子が目に入る。

「朝っぱらからご苦労なこって……」

 と、翔一は独り言をつぶやく。

「お前こそ、朝っぱらから仏頂面してんじゃねぇよ」

 翔一に話しかけてきた少年の名は、春日崎晴人かすがざきはると。翔一が中学の時のクラスメイトで、今もけっこう親しい友達である。金髪のボウズ頭で、ぎらぎらした鋭利な刃物のような目つきからなるすさまじいレベルの強面は、優に一八五センチはあるであろう体躯も合わさって、恐ろしいまでの存在感を放っている。入学して間もないころ、晴人と目を合わせた男子生徒が、間髪入れずに、「すいませんでしたァァァァ!」の一言と共に財布を取り出しスライディング土下座を決めたことからも察するに余りあるものだ。晴人の強面レベルはもしかすると学校一……いや、街一番かもしれない。

 そんな強面晴人と、仏頂面の翔一が意気投合するのにそんなに時間はかからなかった。中学でタッグを組んでいた二人は、偶然にも同じ高校に進学することになって、今こうして顔を突き合わせている、というわけだ。だが、同じクラスではないので、登下校以外はあまり顔を合わせることは少ない。そんなわけで、強面と仏頂面はどっちもクラスで浮いた存在。今日も愚痴に花を咲かせているのだった。

「翔一、聞いてくれよ。釜屋さんってばさぁ、俺の顔見ただけで泣き出しそうになってるんだぜ!? ホント困ったもんだよなぁ~」

「ホントだよ……。人を見た目で判断するなっていうんだよなぁ。俺は見ての通りの仏頂面だろ? だ~れも話しかけてくれなくってさ」

「まあ、お互い頑張ろうや」

「おう、またな」

 手を振り去っていく晴人を見送り、翔一は教室の扉を開けた。


   * * *


 翔一はその日の授業を終え、そそくさと教室を後にする。いわゆる帰宅部であるので特に学校でしなければならないことや用事があるわけでもない。そんなわけで今、翔一は家への帰り道を歩いていた。空を見上げると、美しい夕焼け空が広がっている。

「ふぅ……何すっかなぁ」

 家に帰っても、特にやりたいことがあるわけでもなく、翔一はさて、どうしたものかと頭を悩ませていた。

 ……宿題でもするか、と思った翔一の足がぴたりと止まる。

 今日の数学の授業での光景が脳裏によぎる。確か……今日は数学の宿題が出ていて、いつもよりも難しいし、量も多かった気がする。

 そして、その時翔一は気が付いた。肝心の数学のノートを学校に忘れてしまってきたことに。あれがないと……マズイ。数学の教師はけっこう厳しい人で、宿題など忘れようものなら、それはもう面倒くさいことになるに違いない。そう思った翔一は、くるりと反転して、学校へと走り出した。

 学校に着いた翔一は急いで教室へと向かう。特に急がなければならない理由があるわけではないのだが、翔一は廊下を走り抜けた。校舎内は、放課後であるためか生徒の姿はほとんど見当たらない。やがて、教室の前へとやって来た翔一は、走っている勢いのままに戸を開け放った。


 教室には、女子生徒が一人いた。


 夕日が差し込む教室で、彼女の姿はとても幻想的だった。窓から差し込む夕日に照らされた艶のあるその髪は、黒く輝いている。女子生徒はノートに何かを書いているようで、集中しているためか翔一には気づいていなかった。勉強でもしているのだろうか。全く持って殊勝なことだ。邪魔をしては悪いと思った翔一は、そろそろと足音を忍ばせて自分の机へと向かった。数学のノートを取り出そうと思って机の中へと手を伸ばした時、突然、女子生徒は顔を上げた。

 瞬間、翔一の目線が、女子生徒の目線と交錯する。

「ひゃあぁぁ~!」

 突如、大声を上げた女子生徒に翔一は驚いて、手に持っていた数学のノートを落としてしまった。

「い、いつから居たんですかぁ!」

 女子生徒は顔を赤らめ立ち上がった。夕日に照らされた美しい黒髪は腰まで伸びている。分厚いビンゾコ眼鏡が特徴的だ。

 翔一は彼女に驚きつつ、相変わらずの仏頂面で答えた。

「す、すまん。別に驚かせるつもりはなかったんだけど、なんか集中してたし、邪魔しちゃ悪いと思って……」

「ほんとに……心臓が止まるかと思いましたよ~! あ、秋川君……ですよね。こんな時間にどうしたんですか?」

 クラスでは少々浮いた存在であると思っていた翔一は、自分の名前を覚えていてくれただけで素直に嬉しかった。

「数学のノートを取りに来ただけだ。これがないと宿題、できないだろ? 冬島……だよな? あんたこそ、こんな時間に何してたんだ?」

 教卓の上の方に掛けられた時計の針を見ると、時刻は午後六時を回ったところ。夏なので日も長く、まだ外も明るいが、普通はもう家に帰っている時間だ。

「ふぇ!? え、ええと……私、もう帰ります!」

 翔一の質問に一瞬ギクリとして、冬島はそそくさと荷物をまとめて教室を出て行った。足音から察するに、彼女は廊下を猛スピードで走っていった。

 翔一の頭の上に疑問符が浮かぶ。冬島澄泉とうじますずみ。入学式以来、席替えも行われていないため、翔一とは隣同士だった。授業中たまに、様子を見ると熱心にノートを取っていて、真摯な少女だなぁ、と翔一は思っていた。そんな冬島が、なぜこんな時間まで学校に残っていたのだろう……? 

 だが、考えても特に答えらしきものが出てくる気配もない。床に落ちた数学のノートを拾ってホコリを払う。ノートをカバンに入れて翔一も教室を後にした。

 昇降口から外に出ると、うすぼんやりと月が出ていた。


   * * *


「おかえり、翔一」

「……ただいま」

 家に帰って来た翔一は、母親に無愛想な返事をして階段を上り、二階にある自室へと向かう。

「もうすぐ、ごはんよ~!」

「はいはい」

 翔一は、部屋の戸を閉め、カバンを置き、いつもの着なれたスウェットに着替える。

「ふぅ……」

 翔一は壁に貼ってあるサッカー選手のポスターを見て、ふとため息をつく。机の下には、使い込まれたせいでひどくボロボロのサッカーボールが置いてある。ボロボロになって白と黒のコントラストがもはや消えかけているボールを見て、翔一は胸が詰まるような気持ちになった。

 その時、階段の下から声がした。

「兄ちゃん! ごはんだから早く降りてこいよ!」

 その声に、翔一は、

「……わぁったよ!」

 と、返事をして、電気を消して居間へ向かった。

 居間では父と母と弟が座って待っていた。

「……いただきます」

 翔一は、特に話もせずに黙々とご飯を口に運んでゆく。不思議と味はあまり感じない。食卓を囲む家族の空気は実に重苦しいものだった。誰も言葉を発することなく、ご飯を、味噌汁を黙々と口に運んでゆくばかりである。

「……ごちそうさま」

 一足早く食べ終えた翔一は、そそくさと食器を片づけて自分の部屋へと向かう。

 部屋へ戻り、さっさと数学の宿題を片づけてしまおうと、机に座って教科書を開く。

 今日の宿題は問題の量は多いものの、一つ一つはそれほど難しくはない。公式をあてはめ、四則演算をしていくだけの簡単で単純な問題。翔一は目の前の問題をただひたすらに解き進めて行った。余計なことを考えずに、ただペンを動かした。

 その時、急に部屋の戸が開いた。

 部屋の戸を開けて入って来たのは翔一の弟――譲だった。

 いつもは端正に整っている顔立ちをやや顰めている。

「兄ちゃんさ……いつまでふてくされてんの?」

 翔一は両の眼に譲を捉えて、冷たく言い放った。

「……どういう意味だ?」

「とぼけんなよ。毎日毎日、鬱々としてさ。……見てるこっちが嫌になるよ」

「俺が鬱々としてるだと?」

 譲は翔一を見て嘆息。呆れたように言った。

「何をそんなにイライラしてるわけ? 兄ちゃんは……傲慢だよな」

 その言葉を聞いた翔一は、椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、譲の胸倉を掴みかかった。

「……もっぺん言ってみろ。クズ野郎」

 譲は自分の胸倉をつかむ翔一の腕を握り潰すように掴み返した。

「クズ野郎はそっちだろ! 悲劇のヒロイン気取りやがって……ムカつくんだよ!」

 翔一はまるで獲物を狩ろうとしている猛虎のような目つきで譲を睨む。

「毎日毎日、ゲームだ、アニメだと暢気なオタク野郎が…………、お前に俺の何がわかるってんだ!? あァ!?」

 翔一が振りぬいた拳は譲の右頬に命中した。

「…………兄ちゃん、変わったよな。俺は昔みたいな兄ちゃんに戻ってほしい、それだけだ。気に障ったなら謝るよ。……ごめん」

 譲は部屋の隅に転がるサッカーボールを一瞥し、部屋を出て行った。


 翔一は歯を噛み締めて、両拳をギュっと握りしめた。殴った右手が熱を帯びて赤くなり、心の奥をえぐるように痛かった。


「……イラつく……奴だ」


 譲の放った言葉の一つ一つが翔一の心に重く圧し掛かる。

 当然、宿題などやる気は起きるはずがない。翔一は電気のひもを引っ張って、部屋の明かりを消した。真っ暗になった部屋で、翔一は叫びたい気持ちを堪え、壁をぶん殴りたい気持ちを抑え込み、布団を敷いた。そして、枕に顔をうずめた。



 部屋の隅のボロボロのボールは微動だにしない。

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