拝啓 闇の中から秘事が見えた(最終パート)


 南西地区にある廃教会は、半分天井が崩れまともに機能していない。教会を象徴するような巨大十字架オブジェは根本から折れ、ステンドグラスを砕いてしまっている。

 ニコルは恐る恐るそんな教会の扉を開け、中の様子を伺う。瓦礫だらけの教会にほうきがけをしている、小柄な神父の姿が見えた。


「もし」


 神父が振り向く。まるで、ドワーフが如く髭を蓄えた男であった。ただその髭は白く、目元はナイフで刻んだかのような深いシワ。相当な年齢である事を伺わせた。


「ここは、教会をやっておられると伺いましたが」


「そうですが」


 老神父はほうきを壁にたてかけると、拳で腰を軽く叩く。優しげな目に安心し、ニコルは胸をなでおろす。


「実は、シスター・アリエッタにお聞きしまして。ここは出来たばかりの教会だと」


「ほお、そうですか。いやいや、その通りです。通うような信者もまだおりませんでな。こうして片付けねばミサも満足にゆかぬ有り様です」


 尚更都合が良かった。なにせ、内容が内容だ。いかに聖職者達が『懺悔は絶対的にプライバシーが守られる』と宣言していようと、今のニコルには信用できなかったのだ。


「神父様、お願いでございます。言うにやまれぬ事ですが、どうしても懺悔したいことがあるのです」


 老神父はゆっくりと懺悔室を指さすと、自ら部屋の神父側へと入る。ニコルは、カーテンのかかった方へと足を進めた。暗く、埃っぽい懺悔室には、お互いの部屋を隔てる格子状の窓だけがあった。薄暗いこの部屋では、お互いの顔も影となって見えにくい。本来であれば、懺悔する者用の部屋への通路はカーテンで隠されており、神父でさえも誰か分からぬようになっているのが通常である。もっともこの朽ちかけた教会では、それも難しいが。


「では、迷える子羊よ。なんでも懺悔なさい。神はすべてをお許しになるでしょう」








 翌日。

 書類整理を終え、ブラブラとヘイヴンを見回るといういつもどおりのドモンの後ろから、話しかけてくる者があった。ご丁寧に、そのままで後ろを向かないでくれ、と注意までする始末だ。


「どうしたんです、そのヒゲ」


 ジョウはなぜか白ひげをつけたままの神父姿であった。声こそいつもの彼だが、なんとも言えぬ珍妙な違和感がある。


「今日で外すよ。それより、前話した断罪なんだけど」


 小声でも届くその言葉に、ドモンは少しだけ身動ぎし、振り向いた。表情は眠そうなダメ役人のままだが、目先は鋭かった。


「そんな怖そうな顔しないでよ、旦那。実は、ポシャっちゃったからそのお詫びにね」


 ドモンは無言であった。ゆっくりとジョウに近づく。彼は妙なものを感じ、後ずさった。有無を言わさぬものがあった。いつの間にか、ヘイヴンの店と店の間──暗い裏路地に追い込まれる。陽光で出来たはずの影から、ドモンの暗い瞳がジョウを見下ろす。次の瞬間、ドモンは裏拳でジョウを殴った。


「何を……」


 ドモンは屈むと、ジョウの胸ぐらを掴み、つけヒゲをむしりとった! 痛みから声を上げるジョウに顔を近づけ、ドモンは低い声で言う。


「二つ、あんたに言っときますよ。もしこの稼業を続けたいなら、外でぺちゃくちゃと『断罪』のことを口に出さないことです」


 ジョウは恐る恐る頷く。ドモンは手にしたつけヒゲを彼に突っ返しながら、いつもの顔でへらへら笑った。


「あと、あんたヒゲは似合ってませんよ」


「……殴んなくてもいいじゃないか、そのくらい……。とにかく、今度のはダメになっちゃったからさ。依頼人の条件、聞いてるでしょ」


 ジョウは神父に化け、ニコルから本音を引き出した。彼は、たまたま出会った浮気相手──遊撃隊員を夫に持つ、アイシャに誘われるがまま逢瀬を繰り返していたというのだ。つまり、ニコルは誘惑に乗ってしまったということになる。


「だから、今回は中止ってことで。アリーにはもう言ったんだけど、レドが見つからなくてさ。旦那、知らない?」


「傘屋なら、昨日女と一緒でしたよ。まああの色男ぶりです、嫉妬する気にもなれませんが……なにやらわけありみたいでしたけど」


 ふうん、と首をかしげるジョウであったが、どうも何も浮かんでこない。ドモンはというと、既に踵を返していた。こちらを向かず、背中越しにジョウに話しかける。


「ま、傘屋に会ったら伝えときますよ」






 結局、レドとアイシャは一夜を過ごした。一般的に、イヴァンにおいて、一夜を過ごすとなると娼館が使われる。そこで娼婦や男娼を買って部屋を借りるか、恋人と入って部屋だけ借りるか選ぶことができるのだ。

 ネオンの消えた色街。夢の跡を歩く人々は少ない。そんな中を、レドとアイシャは歩いていた。レドは立ち止まり、暗い顔をしたアイシャの顔を覗き込む。


「なんて顔をしてるんだ。誘ったのはあなたでしょう」


「私は、罪深い女……こうして朝を迎えると、それをまた思い出すのです。朝日なんて、来なければいいのに」


 色街を抜け、ヘイヴンまで来た時。レドは彼女に近づき、しなやかな指を頬に這わせた。人間離れした冷たい視線が、アイシャを刺す。


「ここで、別れましょう。あなたは迷っていた。俺も流された。それで終いです。……では」


 レドはそう言い残し、去っていった。振り向きはしなかった。アイシャもまた、何も言おうとしなかった。このまま、二人は別れていく。二人共そう思っていた矢先のことであった。


「アイシャ!」


 人混みの中から、誰かがアイシャを呼ぶ。レドが振り向くと、男が一人アイシャの肩を揺らしていた。


「話があるんだ。どうか話を聞いてもらえないか……」


 まるで魂が抜けたかのように何も答えぬアイシャに、男──ニコルはただただその肩を揺らし続けた。その直後のことであった。


「見つけたぞ! ニコル・ケノクニ!」


 カーキ色のジャケット。遊撃隊員の証であるそれをひらひら揺らしながら、男は現れた。レドがいつか見た、アイシャの旦那であった。初めて見た時から乱暴な男であったが、レドは男の様子がおかしいのを感じ取った。

 殺気が出ている。

 この衆人監視の中、殺気を出して歩くなど、尋常ではない。男は腰に帯びた剣の柄を握ると、ギラリと刃を抜いた。恐怖の色を浮かべるニコル。男は左手でジャケットの裏ポケットを探り、白い紙を取り出し突きつけてみせた。


「女敵討ちの書状だ。我が妻アイシャをたぶらかした罪は大きいぞ。死を持って償わせてくれる。そこに直れ!」


 ニコルはぱくぱくと口を開いたが、鈍く光る刃を喉に突きつけられ、手を挙げたまま跪いた。すると、正気に戻ったのかアイシャは夫とニコルの前にまろび出て、地面に頭を伏せた!


「あなた……お願い! お願いします! このような事はなさらないで下さい! すべて……すべて私が悪いのです!」


「どけい!」


 ぐい、とアイシャの身体をどけるが早いが、アトキンスは剣を高く掲げて、一気に振り下ろした! 広がる血の海。アイシャの呆けた顔に飛び散る、ニコルの血。どちらにも構わずアトキンスは剣を振り血を飛ばすと、剣を納めた。アイシャの手を引き強引に立たせると、ざわめく人だかりの中を抜け、二人は去っていった。






「そうですか、すべて終わりましたか」


 ケノクニ屋の奥、応接室にて。ショーティはコーヒーを応接テーブルに置き、目の前に座るでっぷりと太った男──ヅダ屋に差し出した。彼はソーサーごとそれを持ち、湯気だったコーヒーを一気に飲み干す。


「フフフ……いやあ、奥さん。あなたも悪いお人だ。このヅダ屋、恐れいりました」


「あの甲斐性なしには相応の最期というものでしょう。仕事も使えぬ、子供も出来ぬというくせに一丁前に浮気とは、恐れ入ると言うものですわ。……これで、ケノクニ屋の本屋の販路はヅダ屋さん、あなた方と合体することができる。イヴァン……いや帝国の本と新聞は、合併した後の新会社で好きにできるということになります。それにしても、もう少し早くわかっていれば、殺し屋を探してくれ、なんて馬鹿なことを頼まずに済んだのに」


 暗がりの中でゆらぐろうそく。響く笑い声。その間を縫うように、ハンチング帽を深くかぶり直したジョウが、窓の下にいた。依頼は取りやめという事を伝える前に、ニコルが死んだ事を伝えねばならないと、親切心でケノクニ屋を訪れたのだ。店員も居らず、ぴたりと閉じられた店舗に不信を抱いた彼は、たまたまこの二人の話を聞いてしまったのだ。


「災難でしたな。しかしこれも『転んだ先に金貨が落ちてた』ということわざ通り。私も、商売に行き詰まりを感じておったところです。奥さんのような方となら……」


 ヅダ屋は太い指をショーティの指と絡めようとするが、彼女は拒否して自分のコーヒーカップを掴み、一口飲んだ。


「勘違いしないで頂戴。この絵図を書いたのは私。あなたはせいぜい右腕止まり、くれぐれも変な気を起こさないようにお願いしたいものね」


「ははは……それはもう。アトキンス様も、ショーティさん、これではあなたに頭が上がらぬというものでしょうな。奥様が浮気で迷惑をかけた先が、あなたのような恐ろしい方だと知ったら!」


 ジョウは手のひらの中の金貨をさらに握り締めると、ケノクニ屋を後にした。金を返す必要は無くなった。








 夜。朽ちかけた教会に、四人の男女が集まっていた。皆、表情は重い。レドはいつもどおりの無表情仏頂面であるが、ジョウの話を聴き終わったドモンとアリエッタは、あからさまな嫌悪感を浮かべていた。


「恐ろしい話ですねえ。明日は我が身──だと思いたくはないですが」


「浮気はイケない火遊びだけど……その代わり旦那を殺して済ますなんて、いくらなんでもやり過ぎよね」


 アリエッタは豊満な胸の下で腕組みをしつつ、唸るように呟く。青い前髪をかき分け、赤く渦の巻いた瞳が覗く。ジョウは金貨を一枚ずつ、腐りかけの聖書台に置いた。標的は、ニコルを殺したアトキンス。ヅダ屋、そしてニコルの妻ショーティ。


「それにしても傘屋。あんたも役得というか偶然というか。アトキンスさんとこの奥さん、美人で有名なんですよ。なんなんですかねえ。美形はいつだって得なんですねえ」


 レドは、既に夜の衣装──黒スーツに黒いネクタイ、黒い革の手袋──そしてそれに差し込む、血のように赤いシャツを身にまとっていた。市松模様の鋭いネクタイピンが、月の光に反射する。彼は割れたステンドグラスから月を見上げていたが、茶化すようなドモンの物言いに振り向いた。


「美形なのは生まれつきで親父譲りだ」


「それが得だって言ってんですよ。……そういえばジョウ、アトキンスさんの奥さんは勘定に入れなくていいんですか。元はと言えば、あの女が浮気したのが原因なんでしょう」


 ジョウはレドを目の前に言いにくそうに目を伏せた。レドは身動ぎひとつせず、腕を組むばかりだ。ドモンは顎をしゃくり、彼に言うよう促した。


「それが……その。首を、吊ったらしいんだ。アトキンスが目を離した隙に……」


 レドの表情は変わらなかった。彼はジョウの話を最後まで聞かず、残っていた金貨を取り、闇へと消えていった。


「ちょっと、レド! ……行っちゃったよ」


「あの子もショックだったんじゃないかしら。……ま、やるだけやるとしましょうか。では私はこれで」


 そう言うと、アリエッタも金貨を取り外へと向かった。


「ちょっと! アリー、今夜この後すぐやるんだからね! 遅れたら困るんだよ!」


「大丈夫よ。一回だけだから」


 ジョウの言葉に堪えることもなく、アリエッタも闇へと消えた。ドモンはジョウと顔を見合わせる。ジョウは呆れたようにハンチング帽を取り、頭を掻いた。


「……娼館狂いなんだよ、アリーは……」


 二人は無言の内に立ち上がり、灯っていたろうそくを吹き消した。埃っぽい教会は月明かりだけの薄闇に戻った。







 ヅダ屋は、太った身体をゆっくりと椅子に沈め、一人残った事務所で明日の新聞の見出しをつけていた。見出しは『緊急合併! ヅダ屋とケノクニ屋、一大書店会社実現へ』というものだ。それを見るたび、ヅダ屋はニヤリと笑う。はっきり言って、ヅダ屋の経営状態は最悪だ。書店部門がダメになった時の負債で、もはや立ち行かない状態なのだ。


「あのメギツネに負債を全部背負わせれば、このワシも安泰よ。今のうちに……」


 机の下の隠し金庫。すこしだけ扉を開くと、黄金の光がヅダ屋の目に飛び込む。新会社に負債を押し付けたあとは、知らぬ。どうとでもなればよい。ヅダ屋の復讐は既に成ったのだ。笑いが止まらない。少し休憩をしようと、立ち上がって窓の外を見た。今夜は月が綺麗だ。


「さて、どこへ行くかな……逃げる先も決めておかねばな」


 その時であった。こんこん、と窓を叩く音。おかしい。ここは二階である。風の音だろうと背中を向けたヅダ屋であったが、今度は数回すばやく窓が叩かれた。振り向くも、窓の外には誰も居ない。窓から伸びる二階部分の屋根が広がるばかりだ。ヅダ屋は仕方なく窓を開けた。夜風が吹き込み、紙の原稿が舞う。身体を伸ばし、外を見回すヅダ屋だったが、次の瞬間その首根っこを掴まれた! ものすごい力だ!おまけに、身体が床から離れ、自らの身体が宙に浮く! 何が起こっているのか全く理解できない彼が見たのは、青い前髪から覗く、赤く渦を巻いた瞳であった。いつの間にか、自社ビルの三階の屋根まで、引きずりあげられていたのだ!


「だ、誰だ、貴様!」


「ちょっとこっちへ来なさい」


 冷たい夜風がヅダ屋の身体を通り抜ける。目もくらむような高さに、彼の血の気が一気に引いた。無理やり立たされた彼は女の姿を見る。風に揺らぐ、修道服の長身のシスターが、ニヤリと笑った。


「手、挙げて」


 赤渦を巻く目に宿る何かを、ヅダ屋は垣間見た。反射的に手を挙げてしまった彼の背中を、シスターは少し撫で──そして強く押した!


「さあ、どうぞお行きなさい。神の慈悲が届かぬ場所へ」


 右足が出る。左足が出る。右足が出る。左足が出る。右足、左足。右、左。右、左。右左右左──。走りだしたヅダ屋は止まれない。角度がつきすぎており止まれないのだ!


「たすけ、たすけて! 誰か! とめて! たすけて!」


 とうとう屋根の端まで来たヅダ屋は手をぶんぶん回し止まろうと試みるが、全くの無駄に終わった。彼は断末魔を残しながら、頭から落下し──ぴくりとも動かなくなった。






 アトキンスは妻の葬儀を終え、自宅へと戻る途中であった。彼女の事は愛していたが、死んでしまった今ではもうどうにもならなかった。彼女は、浮気の報いをとうとう受けたのだ。いつかはどういう形であれ、報いを受けるはずなのだ。浮気とは裏切りであり、自分はそれを許し続けたのだから。


「……そうだ、俺は悪くなど無い……」


「や、これはこれは。アトキンスさん、お久しぶりです」


 暗がりから、のんきな声が響いた。思わずアトキンスが振り向くと、猫背の男がこちらに会釈をしていた。黒髪の癖っ毛に眠そうな目は、アトキンスにも見覚えがあった。


「おお、お前……ドモンか!」


「アトキンスさんもお元気そうで何よりです。一体このような夜更けに、どうされたんですか?」


 憲兵団時代の知り合いとは言え、理由が理由だ。とてもドモンと話す気にはなれなかった。アトキンスは言葉を濁しながら立ち去ろうとする。ドモンを横目に通りすぎた時、彼がぼそっと呟いた。


「しかしなんですねえ。奥様が亡くなったとなると、大変ですねえ」


「……なぜそれを。まだ、憲兵団には知らせておらんはずだが」


 アトキンスは背中越しに、ドモンを見た。彼は向こうをむいたままだ。振り向こうとしない。


「いやねえ、聞いたんですよ。あなたが殺した……ニコル・ケノクニと、奥様に」


 あまりの物言いに、アトキンスは振り向きドモンの肩を掴んだ。その瞬間であった。アトキンスの脇腹に、ドモンが逆手に持った短剣が、深々と突き刺さっている!


「き、貴様……!」


 ドモンは短剣の柄から手を離すと、長剣を抜きアトキンスを振り向き様、一気に袈裟懸けに引き裂いた! 吹き出す血、剣の柄を握ったまま倒れこむアトキンスの身体をするりと避け、ドモンは剣を振るい、血を飛ばした。剣を納め、マフラーを巻き直しながら、ドモンは死体となった彼に囁いた。


「奥様が待ってらっしゃるといいですね、アトキンスさん」






 帳簿の整理はなかなかの重労働である。

 ケノクニ屋の店舗で、ランプの薄明かりを頼りに、ショーティは帳簿から顔を挙げ、眼鏡を押し上げた。思えば、ままならぬ人生であった。小さな書店の冴えない店主であったニコルと、望まぬままお見合い婚をし、子供ができなかったので商売だけしか打ち込むものがなかったのだ。

 そんな楽しみすら、あのニコルは足を引っ張ることで何度も台無しにしかけた。許せなかった。それでトドメに浮気だ。殺してもお釣りが帰ってきそうなものだ。

 だから、自分は正しいのだ。


「邪魔さえしなければ、一流書店の店主でいられたのにね……」


 ショーティは眼鏡を押し上げ、羽ペンを置いた。その時であった。店舗の方から物音がした。もはや深夜だと言うのに、一体誰だというのか。彼女は立ち上がり、本棚の間を縫って、木で出来た扉の前に立つ。


「……どなたですか? こんな夜更けに」


「どうしても、済ませたい用事がありまして」


 抑揚のない声であった。ショーティは不気味なものを感じながら、少しだけ扉を開けた。黒スーツに赤錆色の長髪を後ろで結んだ男が、血のように赤い傘を持っているのが目に入る。男は無表情で、まるで仮面をかぶっているかのようであった。


「……あなたはだ」


 ショーティの言葉は最後まで続かなかった。男は鋭く長い鉄骨を持っており──それが、ショーティの喉に突き刺さっているのだ。気づいた瞬間には、もう遅かった。さらに深く喉元に押し込められ、彼女はだらりと手を垂らす。レドが鉄骨を抜くと、ショーティはその場に崩折れ、そのまま息絶えた。レドは瞬きせずに息絶えたショーティを見つめた後、扉を静かに閉め──そのまま後ずさり、闇に返っていった。







「ただいま戻りました」


 ドモンが玄関先で革のブーツを脱いでいると、奥からかしましい笑い声が響いた。ティナだけではない。見下ろすと、見覚えのある靴が置いてある。


「あら、あなた。おかえりなさいませ」


「おかえりなさいませ、お兄様」


 キッチンの側のテーブルに、ティナと──妹のセリカが座っていた。別にこれ自体は珍しいことではない。彼女は結婚し、東地区に住んでいるが、ティナと茶飲み話をしに、度々ここへ遊びに来るからだ。


「ああ、なんです。遊びに来てたんですか」


「なんです、とはなんです! せっかくお義姉ねえさまが……」


 ティナがまたも一喝しようとするのへ、セリカは手をかざしそれを制した。なるほどさすがは血を分けた妹だ。とドモンは誇らしく思いながら、ハンガーにジャケットをかける。


「ティナさん。お兄様もお仕事でお疲れなのですから」


「……お義姉様がそう言われるなら」


 しぶしぶと言った様子で、ティナはテーブルに料理を並べだす。くるみパンに、肉入りのスープにサラダ。途端にドモンは複雑な笑顔を浮かべる。好きなメニューではある。それに、ティナの家事は完璧だ。誇らしいほどだ。しかし、料理が少しだけ下手なのだ。食えなくはないし、見た目は悪くないが、絶妙にマズい。マズいと言えないくらいのマズさで、人によってはまあまあイケるとまで言うような実に微妙なレベルなのだ。だから文句が言えない。


「どうぞ召し上がってください」


 ドモンは小さく祈りを捧げてから、パンをかじる。美味い。スープを飲んでも美味い。これはどうしたことか。


「今日はなんだか、全部うまいですねえ」


「そうでしょう。お義姉様が手伝ってくださったんです」


「そうですか。さすがはセリカですねえ。花嫁修業をしっかり積んだだけ有りますよ」


「良かったですわね。ね? ティナさん」


「はい、お義姉様! これからは毎日この人に美味しいものを食べさせてあげられます!」


 ドモンはふとスープを口に運ぶ手を止めた。毎日と言ったか。


「……ちょっと待って下さい。毎日ってのは?」


「ええ。夫と離縁いたしましたので」


 セリカは湯気だった紅茶を口に運びながら、事も無げに言った。


「……今なんて?」


「ですから、離縁いたしました。よりにもよって、浮気をしていたようなのです。ですから、失望いたしましたと三下り半を出して離縁してきたのです」


「あなた、お義姉様には離れに住んでもらう事にしましたの」


 ティナは声を弾ませ言った。セリカの手を取り仲よさげに握る。二人で笑い合う様だけ見れば、楽しげであるかもしれない。だがそれはドモンにとって、地獄の釜の蓋が開いた事を意味するのだ。ティナの小言だけならまだしも、妹セリカの苛烈な小言も加わるなど、考えられぬ。目の前の最後の晩餐めいた食事に感謝をしつつ、明日からの地獄の日々へと、ドモンは思いを馳せるのだった。




拝啓 闇の中から秘事が見えた 終

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