Ⅴ 二人 ――飢餓を満たす話

 普通の日々に訪れた非日常。少女は知った。



「あ! 忘れ物したみたい!」


 慌てて放送室から出て来た少女は階段を駆け上って行く。

 都内A小学校にその少女は通っていた。

 少女は幼い頃から活発で、色々なものに興味を示すような好奇心旺盛の女の子であった。


 今日は少女が属する放送委員会で話し合いがあった。

 そのため放課後もずっと他の児童や先生たちと話し合いをしていた。

 最近は季節も冬に近づいているため、昼の時間はかなり短い。

 ちょっとした夕方の時刻でも、外は暗くなる。

 当然、校舎内も比例するように暗くなっていた。

 学校の校舎ほど暗さが不気味さを際立たせるものはないだろう。

 このA小学校とて例外ではなかった。


「気をつけなさいね! 電灯は点けたら必ず消してから帰ってくることー!」


 階段を駆け上る少女に向かって、放送委員会顧問の教師は大声で告げた。


「はーい!」


 少女はわかっているのか、わかっていないのか空返事を発して駆けた。



 小学5年生である少女の教室は校舎3階にある。

 放送室は1階にあるため、2階、3階と上っていくこととなる。

 初めて訪れた者ならば足元もおぼつか無くなるほど、薄暗く不気味な階段をタンッ――タンッ――と、少女は軽快な足取りで上っていく。


 3階に着くと少女は廊下の先を見つめた。

 閉ざされた窓から、夕方とは思えないほどの闇が差し込んでいる。

 薄暗い細長い廊下。

 少女はの教室は5年3組である。

 その先まで静かに歩いていった。


「暗いなあ……」


 活発な少女でも、流石に億劫になるほど恐怖心を煽られる。

 少女は怖いものが苦手ではない。

 例えば、夜中に怖い映画のCMを目にしてしまったとしても、一人でトイレにだって行くことができる。

 だから、友達と行ったお化け屋敷なども平気で先頭を歩けた。

 しかし、


 ピシッ――


 という温度差で窓が軋む音に体をびくつかせながら少女は歩いていく。

 元々怖いというイメージのつく場所でないためか、そのギャップからか。

 既に少女の顔は強張っていた。


 目の前に5年3組。

 少女は教室の閉ざされた扉をそろりと開け、中へ足を踏み入れた。

 普段通いなれた教室であるにも関わらず、この教室は異世界のような不気味さを放っていた。


 そのとき、教室内に見慣れぬ白い影が存在していることに気が付いた。


 「え……!」


 教室の隅に白いワンピース姿の女性がいたのだ。

 色白の透き通るような肌。

 黒く長い髪。

 暗いこの教室であっても、その女性の容姿が不思議と判断できた。

 白い女性は窓から外を見つめ、立っている。

 

 少女はとても驚いたが、不思議とこの女性に対しては怖いと思わなかった。

 ただ単純に「誰なのか」という疑問だけが湧いて出てきた。

 ここは小学校なので、こんな大人の見知らぬ女性が放課後の教室にいるのは変だ。

 

 白い女性は大人で、20代から30代に思える。

 窓の向こうを向いているため顔はわからない。

 少女が扉を開けるときに立てた音にすら、何の反応も示さなかった。


 少女は女性に警戒心を抱きつつ、視線を向けたまま、自らの席の中にあるリコーダーを探しに気配を消すように歩き始めた。


 『こんにちは』


 びくっと少女は体を強張らせた。

 白い女性がそう声を掛けてきた。

 とても綺麗で消えてしまいそうな声だった。


「こ、こんにちは……」


 少女は白い女性を見上げるようにして答えた。

 そのまま自らの机の中に手を突っ込み、リコーダーを取り出した。

 そして去っていこうと出口へと足を向けた。

 昇降口で少女の友達が待っているし、早くこんな暗い場所から立ち去りたかった。


『どうしてここにきたの?』

 

 白い女性は窓の先を見据えながら、少女に問うてきた。

「あ、明日リコーダーのテストがあるから練習しなきゃ駄目なの……」

 少女は答えた。


『おなかへってない?』

 

 白い女性はほっそりとした腕を窓に当てながら、聞いてきた。


「う、うん。減ってない」


 勿論、少女はお昼から何も食べてはいない。

 家に帰れば夕飯が待っているだろう。

 それを考えれば腹の虫が鳴るほど空いていたのだが、この奇妙な女性からの奇妙な質問に正当な答えを述べてはいけないだろう、と子供ながら咄嗟に判断した。

 

 コツ――コツ――

 

 と指を当てながら、白い女性は窓の先をじっと見つめていた。

 少女はその行動に不思議に思い、その女性の視線の先を見てみた。


 次の瞬間、少女は顔を青ざめた。

 白い女性は窓の向こうにある景色を見ていたのはない。

 窓の先の暗い闇に反射して映る少女を見ていたのだ。

 目を引ん剝き、まばたきすらせずに充血した眼球が少女を捉え続けていた。

 白い女性は少女の姿を指でゆっくりとなぞりながら、こう告げた。


『おいしそう』

 

 白い女性は物凄い勢いで首を捻らせ、少女の居るほうへと振り向いた。

 よく見ると白い女性の体は骨と皮のみで細すぎるほどに痩せていた。

 窪んだ割に大きく見開かれた目。

 こけた頬に浮き出た歯形。

 その姿はまるで骸骨のようで、荒々しく呼吸を繋いでいた。

 

 少女は恐怖に足元をすくわれ、その場から動けなくなってしまった。

「ひっ……!」

 ぐりぐりと眼球を動かしながら、白い女性は少女の姿を捉えている。


『こんにちは』

 

 白い女性は振り向いた顔だけで少女の姿を捉えて、じっと見つめている。


『どうしてここにきたの?』

 

 白い女性はカタカタと首を動かしながら、少女の姿を見つめ、さきほどと同じ質問を繰り返している。


『おなかへってない?』


「きゃああああああああああ!」


 少女は叫び、固まった足を懸命に動かし、その場から逃げ出した。

 教室から飛び出して、暗闇の廊下を無我夢中で走って行く。

 途中で掴んでいた掌から抜けて、リコーダーを落としてしまった。

 しかし、そんなことにも気が付かないほど、少女は慌てていた。

 どれくらいの時間、どんなルートを取ったのか、覚えてはいなかった。

 少女は児童たちの靴箱が並ぶ昇降口に立っていた。

 高鳴る心臓に手を当て、荒く乱れた呼吸を整えるように辺りを見渡した。

 そして、覚悟を決めたように自らが走ってきたであろう背後を振り向いた。

 そこには見慣れた廊下が薄暗いなか、遠い先まで延びていた。


「はあ……はあ……」


「どうしたの?」


 その声に少女は大慌てで振り向いた。

 神経が過敏になってしまっている。

 その声の主は少女と同じ放送委員会の友達であった。


「大丈夫? 顔色悪いよ?」

「う、うん……なんでも、ないよ……」


 少女は「変な女の人に会ってしまった」などと言うと、『何かオカシイ人間』と思われてしまうのではないかと考え、友達にも話すのをやめた。


「早く帰ろうよ! 私、おなか空いたよ」


 友達は屈託ない笑みを浮かべ、少女に告げた。



 * * * * *



 既に暗くなった閑散とした夜道を少女と友達は歩いていく。

 少女は先の怖い夢のような出来事に体を震わせていた。


 白いワンピース。

 透き通る肌。

 綺麗な艶の黒髪。

 とても綺麗で美しい女の人。


 というのが少女の抱いた印象であった。

 しかし、少女へと振り向いたその姿はおぞましく異常であり、少女は身の危険を感じた。

 あの女性が何故教室にいたのか、どうやって学校に侵入したのか、自分に何をしようとしてきたのか。

 変態とか異常者というようなカテゴリとは違う気がした。

 それよりも、あの女は人間だったのだろうか。

 

 少女は背筋に寒気を走らせながら、頭の中でぐるぐると思考を渦巻かせていた。

 そして、どうしてであろうか、『自分はあの女に食べられてしまう』という恐怖を抱いていた。


「ねえ? 本当に大丈夫?」


 暗く俯く少女を心配して友達が声を掛けた。

 いつも元気な少女がしおらしいというだけで、やはり思うところがあるようだ。


「う、うん心配しないで!」

「そういえばさあ。あの女の人って誰だったのかなあ?」

「!」


 少女はその言葉に身を凍えさせた。


「え……? お、女の人って?」

「私、校門から校舎を見たときにさ、どこかの教室の窓に映ってたんだよね~。白いワンピースを着た女の人が」


 少女は目を見開き、その友達を見つめ続けた。

 激しい動揺が襲った。

 もしかしたら、あの女は幽霊かもしれない、という恐怖を抱いていた。

 しかし、友達が見たということは現実にいたということだ。


「ウチの学校にはあんな先生いないよね~。だったら誰かの親とか? う~ん、でも若すぎる気がするしな~」


 腕を組み友達は唸るように呟いていた。


「あれ? でもあの女の人が居た教室って、ウチ等の教室だった気がする……」

「違う!」


 少女は動悸を激しくさせ、否定した。

 何故であろうか、その女性と会っていてはいけない気がしたのである。


「え……? う、うん。だよね。5年3組に居たなら会っているはずだもんね」


 友達はそんな動揺する少女を初めて見たのか、不思議に思いながらも宥めるように付け加えた。


 暗い電灯に照らされた鉄橋がある。

 少女も友達も登下校の際にはこの鉄橋を必ず通らなければならなかった。

 鉄橋の下には穏やかな河川が流れている。

 少女は夜の河川というものが好きではなかった。

 夜の海というものも好きではない。

 黒く底の見えない巨大な液体の淵は、見ているだけで吸い込まれそうになってしまう。

 穏やかな水の流れも何か不吉な予兆にしか聞こえなかった。

 

 そのとき少女は鉄橋の中心に白い人影を見つけた。

 刹那、少女は全身を凍らせた。

 固まり動けなくなった。


「? どしたの、今日やっぱり変だよ」


 友達が少女を気遣う。


「し、白い……お、女の人、が」


 少女は必死に口を動かし、自分が今見ているものを伝えようとした。

 友達は少女の視線の先を追い、その白い人影を目にかける。


「あの女の人がどうかしたの?」

「い、嫌だ……私、た、食べられる」

「……え?」

 

 次の瞬間。


『こんちにはあああああああああああああ』

 

 白い人影は少女と友達に向かって全速力で走り始めた。

 あまりに不恰好で、しかし人間とは思えないほどの速さで、鉄橋の中心から少女たちに向かって襲い掛かってくる。


「きゃあああああああ!」


 白い人影は奇妙な挨拶を口にしながら疾走してくる。街頭に照らされた顔は痩せこけ、浮き出た歯形は異常なほどに釣り上げた笑みを飾っている。

 飛び出そうな目玉だけはしっかりと少女と友達と捉えていた。


「いやああああああああ!」


 叫び声を上げ、少女と友達は駆け出そうとしたのだが、少女は恐怖に腰が砕かれ、まともに歩くことすらできないでいた。

 そして、そのまま転倒してしまった。


「や、やめて……助けて……」


 涙に顔をぐしゃぐしゃにして少女は友達に語りかける。

 友達は必死に少女の肩を抱えて歩き出そうとするが、小学5年生の女の子がもう一人を抱えて走るなど不可能に近いことであった。


「お、置いてかないで……!」

「立って! 早く!」


『ああああああああああああああああああ』

 

 全力で白い細った女が近づいてくる。

 そして、


「……ぃやっ!」


 少女は肩を白い女に掴まれた。

 人間とは思えないほどの、骨まで砕けてしまいそうな力だった。


「があ……あっ……あ」


 鎖骨の軋む音が聞こえる。

 友達は顔を青ざめた。


『おなかすいたああああああああああああ』

 

 白い女は思い切り頬が裂けるほど口を開き、そして少女の首に噛み付いた。


「いやあああっ!」


 少女は苦しみ、激痛から、空気が割れそうなほどの叫びを上げた。

 まるで液体が沸騰しているかのように、血液が少女の首から飛び出る。

 鮮血に染まった白い女はひたすらに笑みを浮かべ、少女の血肉を味わっている。


『おいしいおいしいおいしい』


「や……っ、た、たすけ……」


 少女の瞳孔が開き、顔色が白く、血の気が引いていく。

 友達は愕然として、腰が引けたように、血に染まる少女と白い女の姿を見ていた。

 

 そのとき、友達は自らの心臓の高鳴りを感じた。

 友達の感情から恐怖心が消えた。

 飛び出る血。

 赤く染まる白い笑顔。

 変わり果てていく少女の姿。

 

 次の瞬間、友達は背負っていたランドセルからリコーダーを取り出し、白い女性の眼球に向かって突き刺した。


『きゃああああああああああああああ!』


 白い女性は悲鳴を上げ、目を押さえ、そのまま鉄橋の柵へと凭れかかった。

 息を荒げ、自らの瞳を抑える白い女性の背後から女の子の囁くような声が聞こえた。


『堕ちろ』


 そして、リコーダーにさらなる力が加えられると白い女性は鉄橋から転落した。


 びくびくと体中を震わせ、首から大量の出血をして倒れている少女を友達は見下ろした。

 最期の力を振り絞るように少女は友達に向かって、手を差し出した。

 友達は少女に駆け寄り、寄り添うように近づき、手を握り締めた。


『大丈夫、しっかりして。アカリちゃん』

 

 声を震わせながら、少女は必死に友達の姿を捉えた。


「た、たすけ……て、……リ、ン……ちゃん」


 友達は頷き、優しく微笑んだ。

 そして言った。


『あの女、許さない。アカリちゃんは最初から 私のモノ なのに、ね』


 不気味に釣り上げられた頬を裂くようにして、友達は少女に覆い被さっていった。


『いただきます』


 * * * * *


 オレンジ色の夕景輝く屋上で、一人の少女がリコーダーを吹いていた。

 とても上手で透き通るような音色だった。

 演奏が終わると満足気に深呼吸をした。

 リコーダーの先は何度も噛み付いたように歯形が付いていた。


「あらーこんな所にいたのー? 今日放送当番でしょう?」


 少女の背後から教師がやって来て、そう告げた。


『はーい』


 少女は元気に答えた。

 教師はその返事を聞くと微笑み、続けた。


「演奏うまくなったわね。アカリちゃん」


 そう言って教師は去っていった。

 残された少女はぺろっと舌を出し、口の周りをなめずり、ポツリと呟いた


『おなかすいた』


 end

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