Ⅲ 音 ――聞こえてくる話
憔悴した日々に訪れた非日常。それは確かに聞こえていた。
カツン――
またこの音がした。
近頃、静寂に包まれた深夜になると決まってこの音が鳴り響く。
暗黒が漂う世界の中にひとつ響き渡る奇怪な音。
この音は私の病室の外、おそらく廊下から鳴り響いてきているのではないだろうか。
女性の靴(ヒールか何かか?)が床に当たる音のようにも聞こえる。
まあ、おそらくは看護師が深夜に患者の様子を見て回っているのだろうとそう思っていたのだが。
カツン――
私の病室は病院3階に位置する6人部屋で、私はその窓際のベッドで寝ている。
このように寝るとき、普通は個々のベッドごとに区切れるようにカーテンレールを掛けるものだと思う。
しかし、私は面倒くさくてカーテンレールは掛けてはいない。
つまり病室の中が一望できる状態にして寝床に就いている。
なんとなく閉鎖的空間よりも開放的空間のほうが安心できる気がしたから。
この病室には私の他に誰も入院してはいない。
6人部屋を1人で過ごすことができるなんて大した贅沢であるように感じてしまうのだが、これは私が頼んだことではなく病院側からの提案である。
誰かに気を遣うこともなく、この広い部屋を一人で満喫できると入院した当初は喜んでいたものだった。
しかし明るいうちはかなり気分良く過ごしていても、夜になると孤独という感覚に蝕まれる。
多少寝息がうるさい患者でもいいから、誰かにいて欲しいと入院当初では考えもしなかったことまで思いつく。
そんな患者が一人でもいれば
カツン――
この音を気にしなくて済んでいるのかもしれない。
この病院に入院してからというものひどい不眠症が続いていた。
入院前、朝から晩まで仕事に明け暮れていた私は今まで「不眠」という感覚を味わったことが無かった。
「不眠で大変だ」などという同僚の話を聞いては馬鹿にしていたのだが、いざ自分がその立場に立つとなかなかに辛いものであった。
今まで私がどれだけの疲労を抱えて、そのままベッドに倒れるように寝ていたかという事実を改めて思い知った。
今はどれだけ暗くなろうと何時であろうと静かであろうと全く眠れない。
目を瞑り、闇に覆われた世界の中でたった一人の意識として輝き続けている。
眠くないというわけではなく寝たいのに眠れないという危機感が自分の体の上に圧し掛かり、激しく私を高揚させてくるような感覚に囚われていた。
だから……
カツン――
この音にはかなり悩まされていた。
定期的に聞こえてくるこの音は嫌でも私の耳に入ってきてしまう。
最初は看護師が深夜徘徊をしている音なのではと考えていたが、そうではないような気がする。
歩いているならもっと早いリズムで「カツカツカツ……」というような音が聞こえてくるはずである。
しかしこの音は定期的に、だいたい10秒毎に一度鳴る。
歩くにしては遅すぎるというよりも、ほぼ歩けていない速さである。
もしかしたらご老人の入院患者なのかとも考えたりしたが、だとしても遅すぎるし、そこまで足が悪いなら車椅子を使っているはずである。
さらに奇怪な点はあり、誰かが歩いているのなら、音が遠ざかって行ったり、近づいてきたりするはずであるが、この音にはそのような様子も全く無い。
ある一点で永遠を刻み、動いてはいないように感じる。
カツン――
まったくいったい何の音なのだろう。
うるさい、今日も眠れ
カツン―― キィ――
そうにない。
うるさい。
* * * * *
翌朝、一睡もできなかったように感じている私ではあったが、夜中(いやほぼ朝方か)のある一定の記憶は無くなっている。
それはつまり寝ていたということなのだろうか。
清々しい朝日が病室に差し込む中、私の担当医と看護師が病室にやってきた。
入院してからというもの私は毎朝血液検査のため注射をされる。
注射というものが子供の頃のトラウマから嫌いになっていた私であったが、流石に二週間毎朝となるとかなり平気になっていた。
「どうですかな、調子は?」
初老の担当医が枯れたような渋い声で私に尋ねた。
私は最近眠れないことと安定剤をもらえないかを医師に伝えた。
「ふうむ。病院ともなると何もすることが無くて、夜になっても目が冴えてしまうんでしょうなあ。あまり安定剤は投与したくはないんですよ。どうしてもひどいようなら仕方がありませんが」
何故かその一言でどうしようもない不安が私の心に押し寄せた。
勿論、薬は使わないで眠るに越したことは無いが。
もしかしたら今日は普通に眠ることができるかもしれない。
そう自身に言い聞かせることにした。
明日、いや……明後日まで眠れなかったら安定剤をもらうことにしよう。
続いて私は毎夜私を悩ませる音についても尋ねてみた。
「音? はて、何でしょう、特に気にすることは無いのでは? 寝れないという不安から変に敏感になってしまっているのでしょう。昼と夜の温度差からくる物の軋む音ですよ、きっと」
* * * * *
私は院内では車椅子での移動を命じられている。
歩けないわけではないが、病院側の理由で「念のため」らしい。
急に倒れてしまう恐れ(そんな可能性私には考えられないが)があるためらしい。
仕方が無く車椅子に乗り、廊下を散歩していた。
私の隣の隣の病室の患者さんが亡くなったらしい。
特に話をしたことがあったわけではないが、顔くらいは知っている。
いつも元気そうだったが、そうか。
やはり気が沈む。
そんな噂を聞いた私はその患者の病室を覗いてみた。
その患者も私と同じで6人部屋に一人で過ごしていたようである。
看護師たちが集まってベッドのシーツを手際よく取り替えていた。
しかし、何故6つの全てのベッドのシーツを取り替えているのだろう。
不思議ではあるが、そういう決め事なのかもしれない。
続いて私は血液検査ルームを覗いて見た。
数人の看護師がせっせと動いていた。
血液が入った試験管が箱のような装置の上に差し込まれ大量に並んでいる。
それぞれの試験管の下には「1~5」までの数字が書かれてあった。
いったい何の数字なのだろう。
気になってしまった私は自分の名前の書かれた試験管を見つけた。
「5」という数字が書かれていた。
どういう意味があるのだろう。
尋ねてみようか悩んでいたところを看護師に見つかり、叱られてしまった。
やはり覗くというものはあまり趣味がいいとは言えない。
そう感じた。
* * * * *
カツン――
またこの音だ。
今日はいつもよりも多めに散歩をしてみたのだが、全く眠れない。
たかが病院の患者が車椅子で行けるところを動いて回った程度では疲れはしなかった。
この病院では患者のエレベーターの使用は何故か禁止されている。
つまり車椅子では同じ階層しか散歩できなかったのである。
そんな不眠に苛まれていた私に聞こえてくるこの音だ。
布団に潜り込んで暗い静寂に包まれたこの病室に響いてくる音を聞いているうちに、私はあることに気が付いた。
今日の音は今までの中で一番大きい。
かなり近くで鳴り響いている。
やはり看護師が歩いている(この病室に近づいてきている?)音なのではないだろうか。
カツン――
つい音に集中してしまう。
耳をそばだててしまう。
聞きたくはないのに聞こえてくる定期的に鳴り響く音。
この病室の外、虚無という闇から聞こえてくる音。
カツン――
私は初めてこの音が鳴る中、廊下に出て辺りの様子を探ってみようかと考えた。
だがもしも看護師が歩いている、勿論かなり遅い速さ、ほぼ立ち止まっているに近い速さだとしたらいったい何故、どういう目的でそんなことをしているのだろうか。
そんな奇行をするような人物は正気だとは思えない。
廊下に出てそんなことをしている人物とばったり遭遇してしまったら、私はどうなってしまうのだろうか。
何事もなくその場を通り過ぎることができるのだろうか。
カツン――
よし。
私は決心を固めた。
どうせ眠れないのであれば、深夜徘徊を楽しもうではないか。
そして、この音の正体を
カツン――
掴むことができたなら、安心して眠りにつくことができるかもしれない。
前向きに考えよう。
カツン――
夜中、病院に来て以来、私は初めて重い目を開けた。
そういえば不眠症にかかってしまってから、毎日眠れない夜を過ごしていたが、眠ろうと努力はしていたため常に目は瞑って夜を過ごしていた。
つまり深夜に目を開けたのはかなり久しぶりではあった。
カツン――
初めて見る夜の暗い病室に窓の外から月明かりが照らしていた。
昼間とは同じ病室でも、まるで異世界のように感じた。
そう思いながら部屋を見渡した私はそのとき
カツン――
異常な何かを目の当たりにした。
病室内に窓から差し込む月明かりに照らされて何かの影が出来ている。
つまり窓のところにいる何者かが月明かりを遮り、その己の体で影を作っているのだ。
カツン――
なんだこの影は。
ここは3階だ。
ベランダも無いし、誰かが立っているなんて有り得ない。
そういえば窓の外には大きな木が立っていたではないか。
そうだきっとそれに違いない。
その木が影を作り、この病室に入り込んできているのだ。
夜中、私は病室の中を見たことが無い。
だからこんな影が月明かりでできるなんて知らなかったから。
違和感を感じてしまってもしょうがない。
そうであろうと思い込もうとしている私は背後、つまり窓から何者かの視線を感じた。
ああ違う、木なんかじゃない。
私はゆっくりと背後、窓を振り返った。
カツン――
そこには逆さで宙吊りにされた看護師が目だけは引ん剥いたように大きく開けて私の顔をじっと見ていた。
その看護師の頭には血が上ったように血管が浮き出ており、おぞましいほど表情が無く、私がその存在に気が付いても動揺すらしない。
異常なほどに開かれた目がじっと私の姿を捉え続ける。
そして、その看護師はただひたすらに自らの仕事に打ち込んでいた。
手に注射器を持ち、一定感覚でその注射器を窓に当てて、
カツン――
という音を作り出し
カツン――
やめろ
カツン――
その音を出さないでくれ。
カツン―― キィ――
* * * * *
静寂に包まれた暗い闇の中、誰一人として意識が存在していないはずの空間で、誰かの声が聞こえた気がした。
聞こえるはずもないのに聞こえた気がしたのだ。
「頭、胴体、右腕、右足、左腕、左足。それぞれ5ランクの一級品だからな。傷は付けないように扱ってくれたまえ」
そんな枯れた声だけが響き渡る闇の中。
永遠という暗黒の淵で、私は生温いベッドの上に泥のように全てを捧げた。
もう何も心配しなくていい。
音も聞こえない。
ああ、やっとこれで眠れる。
カツン――
end
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