人喰奇談 ――ホラー短編小説集

Kfumi

人喰奇談

Ⅰ カニバリズム ――愛を貪る話

 退屈な毎日に訪れた非日常。男はその美しい女性に刺激を求めていた。



 いつものように終電に駆け込み、目的の駅に着くまで泥のように眠ってしまっていた。

 仕事場と家との往復の日々をどれだけの間、繰り返しているのだろうか。

 自分は、この作業になんの疑問も抱かなくなってしまった。

 あとどれだけの時間、このようにして生きていかなければならないのだろうか。

 いっそのこと今自分が存在しているこの世界が崩壊して跡形もなく消え去ってしまえばいい。

 そうとさえ思っていた。

 こんな世界でこのまま生きていたって何も得られない。


「僕は何かに飢えているのかもしれない」


 帰宅し、明かりを点けずにベッドへと直行。そして倒れこむ。

 真っ暗な部屋の天井を見上げながら、筒井亮太ツツイリョウタはそんなことを考えていた。

 どう思ったって何も変わらない。だから何もしない。何もせぬまま毎日繰り返される単純な作業を繰り返している方が楽だ。


 そんな1日の作業の最終工程である、いつもの終電に駆け込んだ。

 亮太と同じサラリーマン風の格好をしている人間がちらほらとシートに腰を下ろし、目を閉じていた。


「いつも通り」


 そんなことを心に思い浮かべて亮太はいつもの場所に座り、ゆっくりと目を瞑った。

 何回も繰り返した作業。

 亮太の体は次の駅に到着する合図"アラーム"が電車内に鳴り響く2分前に目が覚めるようになっていた。

 しかし、今日の亮太は違った。自分の駅はまだ先だというのに目が覚めてしまった。

 そんな自分に違和感を感じたが、それと同時にもうひとつの違和感に気が付いた。

 右肩が重い。

 最初は日頃の疲労が肩に現れだしたのかと思い、ゆっくりと右肩に顔を向けた。


 そこには女性の頭があった。女性が亮太の肩を枕代わりにしてすやすやと寝ていた。


「え?」


 驚いてしまった亮太は思わず声に出してしまった。

 こんな時間に女性が電車に乗っているところなど見ることは少ない。

 いや、いつも自分が寝ているだけで知らないだけかもしれない。

 それにどうして混雑しているわけでもない電車の中で自分の隣で、しかも肩を枕にして寝ているのだろう。


「こんなに綺麗な女性が……」


 黒髪でつやのある綺麗な毛並みの髪。色白で透き通っているような肌。整った顔立ち。ほのかに香る香水のにおい。

 亮太の心は無になった。こんな気持ちになることなんて今までの人生であっただろうか。

 小さく消えてしまいそうなこの女性の寝息を聞いているだけで一日の疲れが吹き飛ぶようだった。

 全身が緊張し硬直していた。こんなときどうすればいいのかわからない。

 もう少しで亮太の降りる駅だった。でも、女性はこんなに気持ちよさそうに自分の肩で寝ている。

 起こすのは申し訳ないと重いながらも亮太は、自分ができる限りなく優しい声で囁きかけた。


「あ、あの……すみません、駅に着きましたよ」


 反応はなかった。


「どうしよう……」


 しかし、"アラーム"が鳴り響く2分前に女性の瞼がゆっくりと開いた。


「う、うーん……」


 頭をゆっくりと上げた女性は亮太の方を向いてきた。亮太の目と女性の目が合った。


「あ、すいません。でも僕降りるので……」


 刹那。女性の唇が亮太の顔に近づいてきた。

 そして、静かに亮太の唇と交わった。

 その時間は永遠の一瞬のようであった。


「え……?」


 柔らかなその唇が、自分の唇から離れたとき亮太の心は混沌としていた。

 何が起こったのか理解ができなかった。


「キ……ス……?」


 そして、彼女の次の言葉はさらに亮太を混乱させた。


「ずっと貴方とこうなりたかった」



 駅を降りた亮太は呆然と立ち尽くしていた。長い夢でも見ていたかのような、そんな感覚。記憶に残っているのは右肩に残された重みとキス。

 どちらもいつもの亮太の日常からかけ離れた存在。何分そのことについて考えていただろう。


「すみませーん」


 亮太は後ろから声をかけられていることに気が付いた。

 亮太は振り返った瞬間、再び夢の世界へ入ってしまったかのように感じた。


「お兄さん? さっきからぼーっとして大丈夫?」


 そんな言葉を亮太にかけていた女性は紛れも無く、忘れもしない、先ほどの女性であった。


「え? なんで……?」


 亮太は驚きのあまりそんな言葉を吐いてしまっていた。


「お兄さんが降りたから私も降りたの。何回声をかけても全然返事ないから心配してたんだけど?」

「いや……え!?」


 自分が降りたから降りた?

 まるで自分の跡に付いてきたかのような言葉。何度も夢かと思ったが。いつも退屈していた自分に舞い降りた奇跡。亮太にとってその女性は自分が求めていた刺激そのもののように感じた。


「あ……あの!!」

「え!?」


 女性は亮太の急な大声に驚いていた。


「さ、先ほどに、あの……キ、キスを……?」


 それを聞いた女性はクスリと笑い、


「お兄さん可愛いね、もしかして続きがしたいの?」


 亮太の顔は完璧に赤くなっていた。

 そんな様子を見ながら女性はくすくすと笑っていた。



 白石恭子シライシキョウコ。女性は自分のことをそう名乗った。

 恭子が亮太の側に立ち、耳元で囁いた。


「これからはずっと一緒ね」


 亮太は動揺を隠し切れなかったが、それ以上に恭子に対して「安心」な気持ちを抱いていた。

 恭子が持つ不思議な魅力に亮太は包まれていった。自分を包み込む暖かい感覚。亮太が今まで感じることができていなかったもの。


「この人のために俺は生きていけるし、死ねる」


 亮太は既に恭子の虜となっていた。



 そうした日々が半年も続いた。あっという間だった。

 亮太は以前とは比べ物にならないほど仕事での働きぶりと成功を残し、出世もしていた。

 それは全て恭子のため。恭子との家庭のため。

 今、結婚はしていないが、同棲をしている。

 「ただいま」と言えば「おかえり」と言葉が返ってくる安心感。


「亮太、おかえり」


 そう言いながら恭子は亮太のバッグを持った。玄関で靴を脱ぎながら亮太は嬉しい報告を恭子にした。


「今日な、実は新しいプロジェクトの責任者を任せられた。凄く緊張しているけど、でもそれだけ期待されている、それが嬉しいんだ!」

「亮太! あめでとう! 私もとっても嬉しい!」

「ありがとう、恭子! 恭子のために頑張るよ、俺」

「あのね……、亮太」


 恭子は急に改まって亮太に顔を近づけた。


「? どうした?」

「でき……ちゃったみたいなの……」

「なにが?」

「あ……赤ちゃん……」


 亮太の中に衝撃が走った。それは、今まで感じたことがないような感激。仕事での成功など忘れてしまいそうなほどの嬉しさ。そして、亮太は子供のようにはしゃいだ。


「ほ、ほんとに!? やったー! 恭子!」


 そのまま恭子を抱きしめた。


「産んでもいいよね?」

「当たり前じゃないか! 2人で育てよう! 僕らの子供を!」

「……うんっ!」


 亮太は幸せを噛みしめていた。今、自分は世界で一番幸せなのだと、そんな気がしていた。

 亮太に抱きしめられた腕の中で、恭子は不気味な笑みを浮かべていた。



 季節は移り行く。初夏。

 亮太は、その日、他の仕事仲間より早く仕事を切り上げ、病院へと向かった。

 待合室でどれだけ待ったことだろう。病院内に「おぎゃー」という元気な声が響き渡った。

 亮太の顔は満面の笑み、安堵感・安心感に満ち溢れた。ベッドに横になっている恭子に声をかけ、二人で隣で寝ている我が子を見つめ、また笑顔になった。


 二人で考え抜いた挙句、名前は「リン」に決まった。

 最終的には亮太が決めた名前で恭子は納得した。


「凛が立った! おい恭子!」


 ビデオカメラを持ち恭子が亮太のもとへやってきたときには凛は既に座っていた。


「あなた、立ってないじゃない」

「ほんとだよ! 立ってたんだって! 君こそ来るのが遅いよー」

「いや、撮影しようと思って」

「凛は将来有望だな! 俺も鼻が高いよ」


 どこにでもある幸せな普通の家庭。



 そんな家庭に崩壊が近づいていた。

 日に日に恭子は以前のように笑うことはなくなっていった。

 昔は家でも化粧をしていたのだが、今では外出時も化粧をすることを忘れることもあった。

 体も痩せていき、もともと痩せていたが、いまでは皮と骨だけのような体になっていた。

 亮太はそんな恭子の姿に心配して病院に行かせようともしたが、どんなに言い聞かせても


「大丈夫」


 恭子はそう言って、病院に行こうとはしなかった。



 凛を抱きながら「いってらっしゃい」と玄関に向かってくる恭子の姿は以前のような美しさを全く感じさせなかった。

 まるで、骸骨が赤ん坊を抱えているような……そんな印象を抱かせた。

 それ以上に、亮太が不思議に感じていたことがあった。

 恭子は亮太を見送るとき、いや、そのときだけではなく、普段から、凛を抱きかかえているときから、いつも目を引ん剥くように見開いて、腕の中で眠る凛のことをじっと見つめているのである。


 1年後の、初夏。凛はもうすぐ1歳になろうとしていた。

 午後9時半。亮太は帰宅した。


「ただいまー」


 いつも通りに帰ってきて恭子の返事を待つ。

 返事がない。

 玄関で不思議そうな顔を浮かべた亮太は靴を脱ぎ、リビングへと向かった。

 明かりもついていない部屋。


「出かけてるのかー?」


 スイッチを押し明かりをつけたとき恭子はソファーに黙って座っていた。


「うわ! びっくりした! 恭子、いるなら返事くらいしてくれよ」


 それに対しても恭子は返事をしなかった。


「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」


 恭子は黙って前を見つめている。

 その目は瞬きすらしていない。

 その姿はマネキンのようだ。

 痩せ細った骸骨のようなマネキンからは静かな呼吸音しか聞こえない。


「帰ったぞ? ……メシ……作ってるのか?」


 そう聞いた瞬間、恭子の首が回り、顔だけが亮太を向いた。目を限界まで見開き、じっと亮太の顔を見ている。そしてようやく口を開いた。


「ごめんなさい、作ってないの。でもね、私、食欲がないわけじゃないの、今まで我慢してきただけなの」

「え? どうしたんだ、恭子?」

「お腹ぺこぺこなの、腹が減っているの、食べたい、食べたい」


 亮太は恭子を見て不気味に感じた。何かが変だ。


「な、ならさ。たまには外食にでも行こうか?」


 優しく声をかけた亮太だったが、それに対し、急に恭子は怒鳴った。


「ふざけるな!!』


 恭子の聞いたことのないようなその声に亮太は驚きを隠しきれなかった。


「おい、本当に大丈夫か? 恭子お前、変だぞ?」


 冷静さを取り戻し、にんまりとした笑顔を浮かべ、恭子は落ち着いた声で言った。


「私、変じゃないわ。寧ろ今までのほうが変だった。私、頑張ったんだからご褒美をくれたっていいでしょ?』

「何言ってるんだ? 正気じゃないぞ、お前」


 そのとき亮太は、凛の声が聞こえないことに気が付いた。


「凛は……? 寝てるのか?」

『赤ちゃんは起きてるわよ』


 亮太はその言葉を聞き背筋に悪寒が奔った。

 「凛」という名前すら言葉にして発しない、その違和感。


「凛……っ!?」


 急いで恭子のいる部屋から出て、凛を探した。


「凛!! どこだ!! 凛!!」


 どの部屋を探してもいない。凛のベッドにすらいない。

 亮太は、怒りの形相でリビングに戻った。


「恭子、凛はどこだ!?」


 そう聞こうと思ったが、部屋に戻った亮太は、恭子の姿を見て、背筋が凍った。

 恭子は凛を抱きかかえ立っていた。


「恭子……?」


 恭子は不気味な笑みを浮かべて、亮太に語りかけた。


『今からご飯作るから』


 そう言って凛を抱えたまま台所へ向かった。


「おい! 恭子、凛を俺に渡せ!」

『リン……? この赤ちゃんのこと? いやよ、どうして? 私から"これ"を奪わないで。せっかく今まで我慢してきたのに』


 それを聞いて亮太は確信した。今まで感じてきた違和感。


「恭子、お前……凛をどうする気だ……!?」

『ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ』


 恭子は不気味に笑った。

 今まで見せたことも無いような顔を浮かべ亮太に言った。


『食べたいの、この赤ちゃんを』


 亮太は既に立っていることも不思議な程の恐怖をこの女から感じていた。

 この女が怖い。


『おいしいのよ、赤ちゃんて。あなたも食べればわかるわよ』

「何を言っているんだ……やめろ……。やめてくれ!」

『そしてあなたにもお願いがあるの、私頑張るから……だから』

「……やめろ」

『あなたの子供をもっと産ませて欲しい。食べたいの、もっと、もっと!!』

「やめろ!!」


 そう声を発した瞬間だった。


『ああああああああああ!』


 この女が叫んだ。

 亮太は驚いた。


『やめてええええええええええ! 痛い、痛いいいいいいい!』


 女の下の床に血がだらだらと零れ流れ堕ちる。

 女が凛を抱きかかえている手を離すが、凛は女の胸から離れなかった。


「凛……?」


 女の胸から血が飛び出る。


『痛いいいいいいいいいいいい! やめて、お願いいい! いやああああああ! りょ……う、た……」


 亮太はその様子を見て立ち尽くしていた。

 恐怖。

 何が起こっているのか理解するまでに時間がかかった。

 しかし、理解したときには、既に遅かった。

 女は床に倒れこんで既に声も出ていない。

 凛は女の体にくっついて離れようとしない。


「凛、なにやってるんだ……」


 凛は、女を食っていた。

 そして、女の体は段々と人間の形からかけ離れていった。



 ある日の昼下がり。

 女の子とその父親であろう男が手を繋いで公園を歩いていた。

 女の子が手を離して滑り台へ向かっていった。

 男はその様子を見ていた。

 女の子が滑り台を遊び終え、男の元へ走ってきて抱きついた。

 その瞬間、男は倒れこんだ。

 男の腹には包丁が刺さっていた。

 女の子はその男の様子を見ながら、にやりと笑った。

 男はそんな女の子の姿を見て、静かに口を開いた。


「強く生きろ」


 その公園には、その二人以外誰もいなかった。



* * * * *



 いつものように終電に駆け込み、目的の駅に着くまで泥のように眠ってしまっていた。

 仕事場と家との往復の日々をどれだけの間、繰り返しているのだろうか。

 自分は、この作業になんの疑問も抱かなくなってしまった。

 あとどれだけの時間、このようにして生きていかなければならないのだろうか。

 いっそのこと今自分が存在しているこの世界が崩壊して跡形もなく消え去ってしまえばいい。

 そうとさえ思っていた。

 こんな世界でこのまま生きていたって何も得られない。


「僕は何かに飢えているのかもしれない」


 何回も繰り返した作業だ。

 そんな作業の中、いつも通り電車内で眠りに付いた。

 どれだけ時間が経った頃だろう。

 右肩が重いことで目が覚めた。

 そちらの方へ目をやると、綺麗で美しい女性が男の顔をじっと見つめていた。

 そして、女性はこう言った。


「ずっと貴方とこうなりたかった」


end

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