夜話3 蜘蛛の糸


昔読んだ本の中に「蜘蛛の糸」という作品があった。確か、芥川龍之介の書いたものだ。


あらすじはこうだ。地獄に落とされ苦しんでいた一人の罪人。生きているうちに一つだけ善行をしたことで、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らす。だが、その罪人は自分だけが助かろうとしたために、蜘蛛の糸が切れてしまい、そのまま地獄に再び落ちてしまった。


そして、今、まさに自分が置かれている状況は同じだった。確かに俺は罪を犯した。窃盗、強盗、恐喝、放火、殺人。数えだしたらキリがない。何故なら俺は地獄というものを信じていなかったからだ。どれだけ罪を犯したとしても、地獄が無いのなら良いと思った。それは死刑となる寸前まで思っていたことだ。


だが、地獄はあった。ここではありとあらゆる苦痛が永遠に続く。そして、死ぬこともできない。もう死んでいるのだから当たり前なのだが、これほど死が愛おしくなることなど、生前にはなかっただろう。


「うわあああー、熱い、助けてくれ!助けてくれえ!」


今はちょうど、身体が燃やされ続けているところだ。これは放火で家族四人を殺した時の罪だろう。地獄では自分の犯した罪がそのまま自分に返ってくる。この次は、包丁で身体の随所をくり抜かれ、その次は日本刀でなぶり殺しにされる。おおよその予想はできていた。これは人生の終わりから順番に罪の重みを体感させられるのだ。まだここに来たばかりだが、これから続く途方もない時間は、絶望という言葉だけでは表しきれないほど、恐ろしいものに感じられる。



もう、どれほどの時間が経っただろうか。気が遠くなるほどの拷問を受けても、何度殺されても、私の意識ははっきりとしている。そして、体もすぐに治癒してしまうのだ。


「すいません。ごめんなさい。この地獄をなんとか抜け出したいのです。反省しています。お釈迦様、お助けください」


そう、何とは無しに呟いた。もちろん、この言葉は本心から出たものだった。

その時、天空から声が聞こえた。


「貴方は本当に自分の罪を自覚していますか?」


これはお釈迦様の声だろうか?


「はい!しています!地獄がこれほどまでに苦しく、希望のないところだとは思っておりませんでした。出来ることなら別の形で罪を償いたいとも思っております」


これも本音だ。何としてもここから抜け出したい。その一心だった。


「分かりました。貴方は生前に一度、蜘蛛を助けていますね。その行いに免じて、貴方を助けてあげましょう」


奇跡は起きた。何処で蜘蛛を助けたかなど覚えていないが、恐らく幼い時であろう。その時の自分に賞賛を送りたい気分になった。


目の前にキラキラと光った蜘蛛の糸が垂れ下がってくる。ここだ。ここの行動を間違っちゃいけない。俺は、その糸を見て集まってきた他の罪人たちにこう声を掛けた。


「良いですか?この蜘蛛の糸は重みで切れる可能性があります。だからここから抜け出したい人は、一人ずつ順番に登っていきましょう」


だが、他の人達からは何の反応もない。ただ、じっと糸が続いている上空を見上げているだけだ。俺は、皆がちゃんと理解してくれたものだと信じ、一番先に糸を登り始める。


よし、良い調子だ。誰もこの糸に群がろうとしない。そうだ、一人ずつ登れば切れることなく、確実に極楽浄土に行ける。

天井に浮かんでいる雲が見えてきた。もう少しで手が届きそうだ。


「よし、もうすぐ、もうすぐここから出られる」


最後の力を振り絞って、雲の上に抜ける。

だが、おかしい。誰も下から上がってくる気配がないのだ。

周りを見渡す。するとちょうど俺の背後にそいつはいた。


五メートルほどはあるだろうか。これまでに見たことのないほどの巨大な蜘蛛。そして、その口からは、今自分が登ってきた蜘蛛の糸が繋がっている。


蜘蛛はこう言った。

「あの時はどうも。お前は散々痛めつけてくれたな。苦しかったよ。足をもがれ、分解されて息絶えたときは。それで、どうだった?少しの間とはいえ、希望の光が見えていた時間は?」

それから俺は蜘蛛の糸に絡め取られ、ゆっくりと食べられた。


そこでようやく、下の罪人たちが糸を登ってこようとしなかった理由が分かった。こうなる事が分かっていたから。極楽なんてないという事を知っていたから。


俺は蜘蛛の口の中で咀嚼されながら、ある言葉を耳にする。


「これで終わりじゃないぞ。お前が訳もなく殺してきた蛙や蝉、百足、みんな順番を待ってるんだからな」


地獄は苦しみが繰り返される場所だ。一通りの罪の償いが終われば、同じ苦しみの二週目に移る。だが、未だに俺は二週目の苦しみを迎えていない。自分の犯してきた罪の多さ、重さを、ここでようやく感じることができたのかもしれない。

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