第三章 一節
「お、お前、誰だ……ここは、どこだ」
そよ風のように吹く風もなく、木葉のように囁く音もなく。
無機質で、無感動で。
空を見上げても、地平線に目を凝らしても、視界に映るのは純真無垢な白の世界。
光源も遮蔽物もまったく存在しない。ここには影を生み出すものはなく、唯一光の障害物たりえる自らの影さえもない。入口も出口もなく、はたしてさっきまで当たり前にあった校舎の屋上はどこに消えたのか。
あの校長室とは正反対の白。混沌も秩序も排した静謐で、完全な無の世界に俺はいた。
「どうして俺の名前を知ってんだッ!」
力一杯怒鳴りつけようとも、当然のように声も反響しない。
「少し落ち着いてください。そのような敵対的態度では、こちらも対応に窮します」
妙にかしこまった喋り方をする女だ。
真っ黒なコートと目深に被ったフードのせいで正確なところまではわからないが、わりと背は低く、ガタイもさしてよくない。しかし、コートを着てさえもわかる胸元のふくらみに不謹慎ながら目を奪われてしまう。雫じゃ、こうはならないだろう。声は意図的に重みを持たせようとしているのか、太く落ち着いていた。
「騙されて刀まで首に突き付けられて、腹に蹴り入れられて……それで黙ってられるほど俺はいい子じゃねえんだよ!」
膨れた敵意をありったけ吐き出した。半ばやけっぱちでぶちまけた言葉に、しかし女はしかと頷いた。
「確かに……あなたの意見はごもっともです。ですが、ここはひとまず冷静にお願いします。あなたの置かれている現状をお話しさせてください」
まるで強硬な態度を崩そうとせず、彼女は喋り続ける。
そりゃあ、あのロボットから救い出してくれたのは感謝したって構わない。だが、こんな出入口の見当たらない、脱出方法の見当もつかない空間にぶち込まれて、しかもこんな横柄な態度をされたら、静まる怒りも静まらない。
「私の名前は
彼女は一方的に自己紹介をし、苛立つ俺を一顧だにせず続けた。
「私はルーインに収監された囚人の解放を目指す組織『ミストラル』に所属しています」
「――は?」
何言ってんだ――それが率直な感想だった。
まだ名前はいい。どんな人間にだって名前の一つくらいあるだろう。けれど、その後に発せられたワードはもれなく意味不明で、理解することさえままならなかった。
思わず表情が歪んでしまったのだろう、顔をしかめる俺の気持ちを察したのか、女――八神まどかは単純に、それを聞くのがどんなに程度の低い人間だったとしても理解出来そうな、簡単な言葉に置き換えた。
「あなたは牢獄に閉じ込められた囚人なのです」
「はあ?」
訂正する――出来なかった。
おそらく掻い摘んで、彼女なりに簡単な言葉を選択したつもりなのだろうが、それでも俺の理解の域を悠々跳び越えた。八神の言葉は脳が理解する次元にまで到達しない。するわけがない。囚人解放だの牢獄だのといったワードが、何故この場でこうも当然のように出てくるのか。
「な、何を言って……」
ぞっと鳥肌が立つ。この身に迫る違和感はなんだ。疑問を声に出そうにも、何かが喉の奥に引っ掛かってはずれない。
「私は――私たち組織は、ある目的のためにあなたに接触いたしました」
八神はおもむろに被っていたフードに両手を掛けた。ふわりと舞ったフードの中から、厳然として、決然とした素顔が現れる。
きめの細かな白い肌が透き通った。手鞠のように小さな顔の中央には、鷹を想起させる鋭い双眸は深く輝き、芯の強さを露にせんと引き結ばれた唇がうっすら赤みを帯びている。肩にも届かない真っ黒なショートヘアと、凛と整えられた眉が白の世界にコントラストを生み出す。コートの黒さも相まって、シルエットはさながら黒猫に近い。
どんな生活をしたらこんな眼差しを人に向けられるのか。わずかでも目を逸らせば虎のごとく噛みついてきそうな殺気に満ちている。
「目的?」
その端々から溢れる威圧感にいつの間にか怒りを忘れ、ただ復唱するしかなかった。
「ご説明します。しばしご静聴を」
すると八神はコートのポケットから虹色のカラフルなガラス玉を取り出した。
「あ――」
そして悠然と、彼女はその玉を手から滑り落とした。それは床に衝突すると粉々に砕け、中に入っていた鮮やかな液体を四方八方に飛散させる。
――世界がよみがえる。
無一物の世界は、突如バケツをぶちまけたように色彩鮮やかな世界へと変貌する。
境もなくどこまでも無限に広がっていた天井は、パレットでは作れないほどの青く蒼いグラデーションを描く空を生み出し、その遥か遠くに真っ赤に燃える灼熱の太陽を描き出した。
白色無地を決め込んでいた地上には、灰色に輝く鉄の塔が樹木さながら一斉に天へと昇り、塔の側壁には何千枚ものガラスや英字で書かれた煌びやかなネオンが、所狭しと並んでいく。塔と塔との間には半透明のチューブが無数に駆け巡り、ときおりそのチューブの中を見たこともないニビ色のカプセルが往来していた。
うっすらと汗がにじむ。空間が徐々に暑さを増す。
喧騒と雑踏。群衆と騒音。
むさ苦しく不快な風が全身を駆け抜け、人の声が耳を打つ。
土くれから産み出されるように、どこからともなく現れた人間が地面を闊歩する。人の数は刻々と増していき、並行し、すれ違い、遠ざかる。
太陽が燃え、空が染まり、風が吹く。ビルが建ち、人が歩き、街を成す。
「……」
それはまるで天地創造を早送りで見ているかのような光景だった。
ここ数日で手に余るほどの奇想天外をいくつか体験したが、今目の前で繰り広げられているものは、なんというか次元を異にしていた。
何かが生み出される度に地面が胎動し、その都度バランスを失い掛ける。度重なる異常な現象が俺に余計な不安感を与える。生きた心地がしない。
だが、それとは対照的にこの異常な状況下でさえ、八神は眉一つ動かさず屹立していた。
「これは現実世界を模したバーチャル映像です」
「バーチャル映像?」
んな、アホなことがあったもんか。だって――臨場感が尋常じゃない。昨今流行り始めた3Dでもここまでの臨場感を表現することは出来ないだろう。触感も、嗅覚も再現できるバーチャル映像なんて、いまだかつて聞いた覚えがない。
俺は――その美しさにただ目を奪われていた。
いつの間にか、俺たちは一本のビルの上に立っていた。
それは見渡す限り無限に広がる鉄の塔の一つだった。
八神は険のある瞳で、俺を睨んだ。
「これは二一〇七年の地球の姿を投影したものです。あなたの暮らす現代からおよそ百年が経過した未来です」
「未来? これが……未来なのか?」
あまりの事実に口を挟まずにはいられなかった。
その俺に、しー、と自らの口に人差し指を当てることで彼女は答えた。
「この未来において、車は地面に埋め込まれたガイドに従い走行し、ビルとビルの間を小型のリニアレールが縦横無尽に行き来する。主要なエネルギーは太陽。高度四万キロ上空の宇宙空間に漂う直径二〇〇〇キロメートルの巨大な円環――ソーラーリングによって得られた太陽光を、地上まで伸びる軌道ケーブルから供給することで賄われています。地上には非常に精巧に造られたアンドロイドが大量に生産され、高度に発達した人工知能がまるで人間のように振舞い、生活をしています」
説明の最中、彼女は空を見上げ、再度視線を戻す。
「その進歩した技術によって支えられた社会の中、人々は政府が発行した認証IDによって管理され、いつ、どこにいても、何をしていても二十四時間、三六五日休むことなく行動が記録されるのです」
「……はあ」
まるで映画か漫画の世界だな。ちょっと想像し難い。
「政府はその監視システムをもとに、犯罪者の行動記録や事件発生時の周辺情報を検索するなど、徹底した治安維持を行い、犯罪抑止活動を行いました。政府の思惑通り、犯罪検挙率は激増し、同時に発生件数は見る見るうちに激減していきました」
システムによって常に監視されている世界。それが未来の姿。
街から流れる雑音を背景に八神は淡々と説明を続ける。
「ところが、それだけでは完全な犯罪抑止にはなり得なかった。計画的な犯行に対しては充分な抑止力になったとしても、突発的な衝動的殺人までは、抑止することが出来なかった。人が人を殺す。その最も根本的な衝動を止めることが出来なければ、いくら監視をしたとしても完全な抑止など夢物語でしかないのです。ですがその時に、それは現れました。いえ、現れてしまったと言ったほうがいいでしょう」
「何が」
「――通称、ノア」
「のあ?」
「それは一人の女の子でした。公式な情報ではありませんが年齢は十歳前後とされています」
少女? ノア? ――犯罪抑止?
「幼かったノアはある日を境にして水を怖がるようになります。コップの中、熱帯魚の泳ぐ水槽、浴槽に溜まった湯から雨滴の溜まった水溜りまで。水があるところに頑なに近づこうとしないのです。まるで取り憑かれたかのように拒み続け、その様子を憂慮した両親が病院へ彼女を連れていくと、数日後彼女を診察したカウンセラーは――」
驚くべき診断結果を示しました、と彼女は添えた。
「少女は人の死を視ている。水面がテレビのような役目を果たし、人の死の現場、殺人の現場をビジョンのように視ている。それも数日後の未来に起こる殺人事件を視ている、と診断したのです」
「おい……それって、つまり……」
「――未来予知です」
俺は息を呑んだ。八神は言う。
「原因はわかりません。どうして彼女がそのような力を身に付けることになったのか、今をもって不明です。けれどそのようなことは政府にとって、瑣末な問題でしかありませんでした。政府はその力を犯罪抑止に利用したのです」
背筋が凍っていくのを感じた。自分の踏んでいるコンクリートの地面がぬかるみ、沈み込んだ気がした。
こんな電波な話など一笑に付するくらいの、そんな安い気概すらまったく起きなかった。鬼気迫る気配と現実味を帯びた語り口調に――彼女の言葉に興味を持つ自分がいた。
「未来犯罪予防法。すべての犯罪を起こる前に処理することを可能にした悪夢の法律です。ノアが予知した未来を観察し、未来犯罪予防局という政府直属の特務機関の手によって、犯罪行為を行う前の未犯罪者が逮捕される世界が誕生したのです」
彼女の乳白色の頬に影が差した――そんな気がした。
「無論それには問題がありました」
「問題?」
「人権問題です。罪をまだ犯していない人間を捕らえること。自由を奪い虜囚とすることに、その人間の尊厳は守られるのかという議論が生まれたのです」
「でも……でもその法案は可決されたんだろ?」
「はい……政府の予防法賛成派は最初からそのような反対意見が挙がることを予測し、反対派が勢力を増す前に『ルーインシステム』を導入したのです」
「……ルーイン」
「ruin――廃墟のことです。ルーインシステムとは我々の時代で実用化された新たな囚人収容のシステム、牢獄の新しい形です」
「牢獄の……新しい形?」
八神の言葉を俺は反芻する。少し頭が痛い。
高い外壁と堅い鉄の檻。屈強な看守と厳重な警備。そのシステムはいくら時代が変遷しようとも変えようがないだろう。しかし、どうやらそれは古い考えだったらしい。
「仮想現実、つまり
八神はそう言って言葉を結んだ。
「いや……待て、ちょっと待て」
俺は彼女と距離を取った。まるで逃げるように。
息が詰まり、手が震える。ドロッと汗が全身を流れた。憐憫のこもる彼女の言葉に、俺は堪え切れなかった。どこか引っ掛かる違和感の答えを求めなければならなかった。
「じゃ、じゃあ……さっきお前が言った俺が囚人だって話……それってのは、それってのは俺も予防法とやらで捕まった人間の一人って意味なのか? それで、俺の記憶は消されていて、この世界はニセモノで……」
「そうです。あなたは未来犯罪予防法によってルーインに収容された囚人なのです」
答えは恐ろしく単純だった。その瞬間、八神の言葉は鋭い槍となって俺を貫いた。
「ウソだ……そんなの、そんなの信じられるか……」
音が消えた――鼓膜が利かなかった。俺の中の何かが脆く崩れるのを感じた。
いや、確かに――確かに違和感はあった。
この世界は出来過ぎている。
何の苦労もなく。何の障害もなく。何の不自由もなく。
友達に困ることも、家庭内暴力も、教師の横暴も、成績も、金も生活も病気も。
順風満帆に、予定調和に、困難なことなんてまともに味わったこともない。
当然だ。
人格更生プログラム。捕えた犯罪者を改心させるためのシステム。
俺には不都合のない、模範的な人生が用意されていた。自分で決めた道を歩いているつもりが、誰の謀略かすべては定められ、決められたレールの上を俺は否応なく歩かされていた。知らず知らず、俺は人形のように操られていた。
俺が今までに感じていたこの人生の違和感は証明された。だが、
――こんな馬鹿な話があるか。
額に手を当て、俺は空を振り仰いだ。
上空では依然として、架空の太陽が熱く暑い熱を降り注いでいる。青い空の一部には、太く長大な建造物が漂っており、あれがソーラーリングだろうか、と無駄な空想を働かせる。
視線を八神に戻し、俺は問い掛けた。
「俺は……俺は何を予知されて捕まった?」
浅はかな知識欲となけなしの権利の主張だった。
自分がいつ、どうして、誰がために虜囚とされたのか。
記憶は? 本物の俺はどこにいる?
「あなたの犯した罪は――ノアの暗殺です」
「……あ、暗殺?」
「未来犯罪予防局の中枢、通称『ターミナル』と呼ばれる超高層建造物内において、ノアを暗殺した――否、すると予知されたことにより、法案成立以降初となるSSSランクの超重犯罪者として、あなたはこのルーインに閉じ込められたのです」
「な……え?」
いよいよワケがわからなくなった俺を誰が責めることが出来ようか。
俺が人を殺す? 何で? どうして?
しかも、よりにもよって政府直下の重要人物を相手取るとは、本物の俺は救いようのない空け者であることに疑いの余地がない。
「ご理解いただけませんか?」
片眉を下げ、探る表情の八神。俺は彼女に率直な感想しか言えなかった。
「り、理解は出来る。だけどお前の話は飛躍し過ぎている。信じるかどうかは別問題だ」
いや、信じざるを得ない状況に立たされているのは充分に理解していた。
この数日の経験は俺の信じた世界を確実に変容させた。そして今聞いたすべてのことが、それを裏付けるに値していた。
あのゲーム画面みたいな校長室もプログラムを投影した何かなのだろう。さっき俺たちを襲った機械も現代の技術ではないもっと先の、それこそ二一〇七年の技術が生み出したものに違いない。ここに来て目撃したあの世界の創造も、この女が変装していた鞍馬の姿だってただの変装とは思えないほどの精巧さだった。
それらすべてが――VRの産物だというのなら説明がつく、ついてしまう。
これだけの状況証拠を並べられて、それでもなおこの女ではなく今までの世界を信じることが出来る人間はきっと少数派のはずだ。人を殺す、ただそれだけは是が非でも信じたくないが、八神の説得力に満ちた言葉を前には頼りなさ過ぎる。
「目的があるって言ったな。聞かせてくれないか」
だから、俺は直面した真実から目を背けた。せめてもの自己防衛だった。
ノアを殺すにしろ殺さないにしろ、ここにこうして収監されている以上、何かしらの大罪を犯したことに変わりはないんだろう。ならば、今すべきことは過去を悔やむことじゃない。これからをどうするか、これに懸かっている。
「私たちは、あなたにターミナルの最上階を目指してほしいのです」
「最上階?」
「はい。そこにいるノアを暗殺していただきたいのです」
「お前……まさか、もう一度チャレンジしろってのか」
「そうです」
あまりにはっきりとした態度に俺は首を引っ込めた。
「俺が引き受けると思ってるのか?」
「引き受けます。必ず。何より彼女を殺さないかぎり、あなたはこの世界から脱出出来ません」
何か釈然としない。たとえそうだとしてもこの女の自信はどこから来る?
「ノアはこの世界にいるのか?」
「はい。ノアは政府の意向で精神と肉体を分離され、精神はこのルーイン内にあるターミナルで生活をしています。どうしてターミナルで生活をしているのか、詳しい事情は私たちも知りませんが」
「だったら生身の肉体を狙ったほうが簡単なんじゃないか? 意識がないんだろ、ノアは」
「そうとは限りません。ノアの肉体は外部からの侵入を遮断された最も強固な場所に安置されているとされ、またその場所も特定出来ていません。私たち組織では、直接肉体を狙うよりも、ルーインから攻撃を仕掛けたほうが作戦の成功率は高いと判断しました」
ますます釈然としない。作戦の成功率をとやかく言うなら、一度失敗している――らしい――俺を巻き込むよりも組織の精鋭を集めたほうがよっぽど高まるに違いない。
――いや、それよりもさっきの八神が言った話……何かが引っ掛かる。なんだ?
蝋燭のようにぽっと灯る疑問に俺は眉を寄せた。けれど、この短時間に手に余るほど疑問と不安を持たされた俺には雲を掴むような話だった。ただ漠然と悩み続けるしかなかった。
「ご納得していただけなければ、私も困るのですが」
そんな俺の気持ちを察したのか、八神がその丸々とした瞳で見つめた。咄嗟に言葉を返す。
「あ、いや……だったら俺抜きでやったほうがいい。外の俺がどうだったか知らないが、今の俺は人殺しのための戦力にはならない」
むしろわざわざ俺を雇用しなければならない理由を教えてほしい。
「私たちがあなたを欲する理由。それはあなたも薄々気付いているのではないですか?」
「気付いてる? 何に?」
「あなたにはこの世界を破壊する強力な力がある」
自分の頬が痙攣したのがわかった。強力な力?
そろそろ疑問符の使い過ぎで飽和状態間近だろう。
だが、それもしばらくは大目に見たい。つい数分前まで一般人だった俺にはわからないことが多すぎる。今となってはウソでしかないが、俺はごく平凡などこにでもいる元高校生で、八神が食いつくような魅力的な力を持ち合わせた覚えはこれっぽっちも存在しな――
「…………あ」
――いや、ある。
一度、厳密に言えば二度。俺はその破壊の力の片鱗らしきものに遭遇している。
一度目は旧校舎の扉をがんじがらめにしていた鎖。二度目は――
「お気付きになりましたか?」
俺の表情を八神は目敏く見抜いた。
「あなたはあの
ああ、覚えている。あの電流が全身を駆け巡った奇妙な感覚。触れた花を粉々に砕き、跡形もなく消しさったあの時を。
「あれが、破壊の力……なのか」
何気なく変哲もない両手を見つめた。驚愕を隠せない。
「あの瞬間からあなたの力は目覚め始めた。その力はこの世界を終わらせるのに欠くことの出来ない重要な、唯一無二の力なのです。もう後戻りはない。進むしか道はありません」
するとどこから出現させたのか、彼女はその小さな両手の上に、綺麗に折り畳んだ真っ黒のコート――彼女のものと同一のものを出現させた。
「こちらに着替えてください。これを着ることで相手の索敵を回避することが出来ます」
そして彼女はコートを俺に寄せた。
「……で、でも、これは……」
ためらった。俺はそれを素直に受け取ることが出来なかった。
差し出されたコートの上にはあろうことか小型の銃が載っていたからだ。屋上で鞍馬に向けた奴だ。この空間においても存在感を放つ銃は、その存在感に比べあまりにも小さかった。黒く矩形に歪む銃を目に焼き付くほど見つめた俺は、やがて視線を八神に戻した。
「護身用です。あなたにはまだこれが必要なはずです。ルーインの環境設定に合わせ、あなたにも見慣れて使いやすいこの時代のものを用意しました」
「……いや」
ちょっと待て、と叫びたかった。俺にはまだ銃を持つだけの決心は当然ながら出来ていなかった。そもそも見慣れてるとか、使いやすいとかそんな配慮の端にすら乗らない。
一刻も早くこの世界から脱出しなくちゃならないのはわかる。それは間違いない。そのためにこの銃を握る必要があるのもわかる。今後も遭遇するであろうあのロボットのことを考えれば、持たざるを得ない。握らざるを得ない。単純な方程式だ。
しかし銃を握るということは、ノアを殺すという結論を安直に想像してしまうのが道理。そもそも殺さなければ、この世界から出られないという現実を知ってしまっている以上、それを想像してしまうのが必然だ。
――こんな話、迷わないわけがない。
「持たなきゃならないのか?」
その気持ちは言葉になって現れた。ショートの髪が縦に揺れる。
「あるのとないのとでは大きな違いがあります。ご安心を、使う機会は与えません。私がお守りします」
「……ああ……わかった。わかったよ」
同意するしかなかった。ここで決断を迷っていたって解決策が向こうからやって来ることはない。俺が引き下がらなければ、この問答は終わらない。もう仕方ないんだ。悩み過ぎて遅きに失するなら、おいおい答えを見つけ出す方がいいに決まってる。
「ありがとうございます」
八神は深々とお辞儀した。
コートとともにその凶器を受け取り、着替えを始める。受け取ってみて本物――仮想ではあるが――の重さに戸惑った。銃はその重厚な見た目に反して、何倍も軽かった。
そういえば、とブラックホールのような漆黒のそれを眺めるうちに、あることを思い出した。
「鞍馬は……親父や母さんたちは何者なんだ?」
屋上に現れた鞍馬。野戦服で不慣れに銃を構えていた彼。
家のリビングで不可解な会話をする両親。俺に恐怖を抱いた二人。
ゴーストタウンと化したあの街の中で、依然として存在していた三人。親父に関しては何かしらの権限を持っていた気さえするし、鞍馬に関してはこの世界をよく理解しているようだった。彼らはこの世界でどういう存在なのか。知りたい。
俺の問いに腕を組みしばらく思案した八神は、打って変わって冷ややかな態度で語り始めた。
「忌憚なく申し上げますと、あなたのご両親は政府直属のエキストラです。通常、この世界の住人の約九割はAIによって管理されていますが、囚人の近親や友人、必要な人間は実物の人間が身分を偽って行動しています。AIにはどうしても情動に限界がありますから」
「エキストラ……ああ、だからか……」
彼女の説明に、俺の頭は思いのほか素直だった。内心でそう考えていたからかもしれない。みんなの行動を考えればおのずと答えは見えてくる。八神の言葉を聞いて確信を得た感じだ。
「ただ――」
そう得心する俺を前に、ところが八神は奇妙なことを言い出した。
「鞍馬総一郎と雨宮雫の両名に関しては、少々事情が違います。彼らは、他のエキストラと同じではない。彼らは――特別です」
「え?」
その後の八神が語ったことは、きっと一生懸かっても忘れられないだろう――
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