第8話 火遊びしたくない?
ちょっと油断すると涙がこぼれそうな気がして、何か別の、とびきり馬鹿げた事でも考えようと首を振ってみる。そんな
そこはずっと前、お兄ちゃんの大学合格祝いに来たことのあるレストランだった。美蘭は「旅館の人が薦めてくれたの」と言ったけれど、近くの人なら一度は来たことがある、少し贅沢な気分になれる店だ。
テーブルには赤と白のギンガムチェックのクロスがかけられ、クリーム色の土壁とよく合っている。まだ早い時間なせいか、店には他にもう一組、会社帰りらしい三人連れの女の人だけだった。
「飲み物とかも頼んでね。私は炭酸水にしようかな」
「じゃあ私もそうする」
「真似する気?だったらお料理は、花奈子が決めるまで黙っとこう」
美蘭はいたずらっぽく笑った。正直いってあんまり食欲がない感じだけれど、せっかくご馳走してくれるんだから、ちゃんと食べようと思い直す。そして、前に
「なるほど、そう来るか」と、美蘭は腕組みをして、それから「サーロインステーキ!三百グラム!」と宣言した。
色が白くてほっそりしているから、野菜と果物しか食べないようなイメージがあるけれど、美蘭はまるで猛獣みたいに勢いよくステーキを食べた。
付け合せのサラダはシャリシャリと音をたてて噛み砕き、バゲットをちぎっては、お皿の肉汁に浸して頬張る。出されたものは何一つ残さずに食べようという、気迫のようなものがあって、そういえば、ばあちゃんの家で出された冷麦も、わんこそばみたいな気合で食べてたなあ、と花奈子は思い出していた。
「やっぱ夏は肉だね。生き返るわ。花奈子もちょっと、どう?」
そして返事も待たずに、オムレツのそばにステーキを一切れ載せてくれる。花奈子もあわてて「オムレツ食べる?」と訊いたけれど、「いや別に、交換しようってつもりじゃないの。食べたいならちゃんと注文するから、気にしないで」と、あっさり断られた。
「花奈子はどっちかっていうと、暑いと食欲がない方なの?」
「うーん、まあ、そうかな」と、はぐらかしてみたけれど、美蘭に比べると自分のお皿は半分も進んでいなくて、差は歴然としている。オムレツはふわふわで、きのこソースはほんのりガーリック風味だし、ライスコロッケは中からとろけたチーズが流れ出す。おいしいのは確かだけれど、その事とは無関係に、花奈子の胃袋はまるで石みたいに縮こまっていた。
今日の午後、遅刻ぎりぎりで塾の教室に駆け込むと、
授業が始まるから、といえばそれまでなんだけれど、どうしたって自分と無関係とは思えない。それが確信に変わったのは休憩時間だった。うっかり水筒を忘れてきたので、自販機でペットボトルのお茶を買っていたら、ちょうど自販機の影になった場所から話し声が聞こえたのだ。
「あのさ、うちのクラスに二人だけ東中の子がいるじゃない。キレイめな子と地味めな子」
「へえ、彼女たち東中なんだ」
「それがさ、地味めな子ってかなり性格悪いらしいから、関わんない方がいいよ」
「えー!なんでなんで?真面目っぽいのに?」
「なんかさ、こないだ電車で痴漢にあってたらしくて、沙緒美ちゃんが、ってキレイめな方なんだけど、声かけて助けてあげたのに、シカトして逃げちゃったって」
「ひゃ~、感じわるぅ!」
「でしょ?後ろからスカートに手、突っ込まれて、ずっーと触られてたらしいよ」
「やだ!気持ち悪い、それ最低じゃん!私だったら一瞬でも我慢できない、絶対その場で怒る!」
「だよね?だからさ、もしかしたらあの子、かなりの変態で、喜んじゃってたのに、邪魔されたって逆切れ?みたいな」
そこで悲鳴のような笑い声や歓声が沸き上がり、それは少しずつ遠ざかっていった。辺りが静かになってようやく、花奈子は痛いほど握りしめていた拳を開き、震える手で自販機からペットボトルを取り出した。頭の中は真っ白で、何をどう考えていいのか判らない。それでも、授業の始まりを知らせる音楽が流れると、自動操縦のロボットみたいに教室に戻り、自分の席についた。
でも、花奈子はただそこに座っているだけで、先生が何を話しても耳には入らず、頭の中ではさっきの会話が回り続けていた。
あの日、勇気を振り絞って沙緒美を助けたつもりだったのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。気がつくとワークブックの上に涙がぽとりと落ち、消しゴムをかけるふりをして、掌でこすり続けるしかなかった。
あれからずっと、胸の窮屈な感じが消えない。だからどんなにおいしい料理も、すんなり入って行かないのだった。
花奈子はとうとう手にしていたフォークを置くと、「おいしいんだけど、何だかお腹いっぱいになっちゃった」と言った。美蘭はきっと、せっかくご馳走してあげたのに、とがっかりしているだろう。怒っているかもしれない。でもとにかく、もう無理だった。
「そっか、じゃあ、あとはもらっていい?」
あっさりそう答えた美蘭に、花奈子は慌てて「でも、食べかけだよ?」と言った。
「うん。でもおいしそうだから」
そう言われて駄目という理由はない。呆気にとられる花奈子を前に、美蘭は自分の空いたお皿を脇に寄せ、オムレツとライスコロッケのお皿を引き取ると、あっという間に平らげてしまった。
「この、きのこソースがいい感じね。生のマッシュルーム使ってるんだ」
「あの…美蘭っていつもそんなにいっぱい食べるの?」
「そうね。
「でも、全然太ってないね」
「燃費悪いのよ。生き埋めとかになったら、すぐ死ぬタイプかな」
そして彼女はグラスの炭酸水を飲み干すと、「デザート食べる?」と尋ねた。
「ごめん、もうお腹いっぱい」
「別に謝ることじゃないって」
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。少し離れた駐車場のすみに停めた自転車のところまで歩いていると、美蘭はいきなり花奈子の背中からおぶさるように両腕を回してきた。ほんのりと、甘い花のような匂いがするのは香水だろうか。
彼女の柔らかい髪が花奈子の髪に触れ、滑らかな腕が頬を撫でる。彼女はそして耳元で「ねえ、火遊び、したくない?」と囁いた。
「美蘭、ちょっと待ってってば!」
花奈子の叫ぶ声なんかまるで気にしないで、美蘭は「ほら次っ!」と言うなり、ライターをカチリと鳴らした。一瞬の間があって、それからロケット花火は鋭い口笛のような音をあげて夜空に向かっていく。
これが美蘭の言うところ、正真正銘の「火遊び」。たくさん花火を買い込んで、
花奈子にとっては、手に持って火をつけて遊ぶものなのに、美蘭にとっては空に打ち上げて、音と光の両方を楽しむものらしい。
でもまあ、花火を買うお金を出したのは美蘭なので、花奈子は彼女の見解に従うことにして、三津川までついてきた。でも実際やってみると、なかなかハードな遊びだった。
「今度は五連発」と、美蘭が次の花火を地面に突き刺しているのを見ると、慌てて耳を塞ぎ、できるだけ遠くまで避難しなくてはいけない。
「花奈子ってば、なに逃げてるのよ」
「だって怖いんだもん。きれいだけど」
そう、赤や金、紫や銀色の火花をまき散らしながら闇を切り裂く花火は確かに美しいし、暗い川面に反射する光の粒はまるで万華鏡のようだ。それでもやっぱり、耳を刺す爆音には足がすくんでしまう。
「まあそのうち慣れるって」
そしてまた、乾いた音を盛大に弾けさせながら、五連発の花火が空中で炸裂し、閃光の余韻を残して溶けるように消えてゆく。
少し離れた場所では、大学生ぐらいのグループが、こちらは花奈子の考えるところの花火を楽しんでいた。しかし美蘭の花火の迫力のせいか、その手を休めてこちらをずっと見ているのだった。
「ねえ、私たち、ちょっとやり過ぎかもよ」
恐る恐るそう言ってみたけれど、美蘭は「大丈夫、今のが最後だから」と答えた。
「ま、打ち上げは最後、って意味だけどね」
「どういう事?」
「これよ、これ」と。美蘭が取り出して見せたのは、ねずみ花火だった。しかも、軽く十個以上ある。
「えっ!これ全部やるの?」
「当たり前でしょ。持って帰って夜食にするわけないし」と言うなり、美蘭はもう最初の一つに火をつけていた。
花奈子は悲鳴をあげて駆け出したけれど、そこを狙うように「ほら逃げて逃げて!」と投げてくる。しゅるしゅる、ぱーん、という音と、自分の声と、煙と、火薬の匂い。
「次、そっち行くよ!」
何度も繰り返すうち、怖いんだか楽しいんだか判らなくなってきて、気がつくと花奈子は肩で息をしながら笑っていた。煙のせいか、喉がいがらっぽくて、咳も出る。
「これで、下らないものも吹き飛んだね」
「下らないもの?」
花奈子の質問には答えず、美蘭は花火の燃えかすを拾い集めると、家の物置から持ってきたバケツに放り込んだ。急いで花奈子もそれを手伝う。大学生たちのグループは、夢から覚めたような感じで、また自分たちの花火を始めていた。
辺りには気持ちいい夜風が吹いていて、美蘭が盛大に打ち上げた花火の煙もすっかりどこかへ運び去られたようだ。
「本当にゴミ、置いて帰って大丈夫?」
「うん。明日ちゃんと捨てとくから」
家の前まで来ると、花奈子は自転車を降りて、美蘭からバケツを受け取った。
「もうお父さん、帰ってるんだ。ご挨拶していこうかな」
美蘭は長い首をさらに伸ばして、家の様子をうかがった。
「まだ帰ってないよ。タイマーで明かりがついてるだけ」
お父さんは十時まで夜の授業だし、幸江ママは拓夢のところ。そう思うと花奈子は何だか美蘭と別れるのが寂しくなってきて、「ジュースとか、飲んでく?」と尋ねた。
もちろんそれを遠慮するような美蘭ではない。彼女をリビングに案内して、花奈子は冷蔵庫を開けてみたけれど、残念ながら飲み物は牛乳と麦茶しか入っていなかった。
「ジュースって言ったけど、これしかなくって。ごめんね」
とりあえず量だけはいっぱい、と思って、大きなグラスにたくさん氷を入れて、麦茶を注いだ。ソファに座って携帯を見ていた美蘭は「のど渇いてたから、麦茶が一番いいわ」と、すぐに半分ほど飲む。
「亜蘭ってば、撮影って何の仕事かと思ったら、ホラー映画だってよ。主役が遅刻したから明日に伸びた、だって。迷惑な」
「モデルだけじゃなくて、俳優もやってるの?」
「んなもん、エキストラに決まってるじゃない。蝋人形にされた人の役らしいけど、本物の蝋人形の方がまだ演技力あるわ。たぶん事務所が、売れてる子とセットにして無理やりブッキングしたのよ」
「それでもすごいと思うけど。映画の主役って誰なの?」
「
「マジで?」
森羅ゆみくは癒し系のアイドルで、人気がある。大きくて少し眠そうな目が印象的で、ちょっと舌足らずなところが可愛いくて、真似している子もけっこういる。
「でも彼女、けっこうヤンキーらしいよ。普段はすっごい滑舌よくて、監督にタメ口だし。おまけに男癖が悪いって。遅刻したのは二日酔いらしいし」
「えっ、でも、ゆみくちゃんまだ高校生でしょ」
「でも、ゆみくちゃん芸能人だし。っていうか、まあ見た目のイメージと現実って違うものよね。可愛いから優しい性格だなんて、そんな単純なもんじゃないし」
それはそうだ、と花奈子にはうなずけるものがあった。花火やなんかで忘れかけていた、今日の塾での出来事。
沙緒美だってあんなに可愛いのに、信じられないほど攻撃的だ。思い出すと途端に、周りの全てが憂鬱な色に染まっていくような気がする。お腹のあたりがすっと冷たくなって、それが全身に広がっていくような感じ。
「って、花奈子、聞いてる?」
「えっ?」
どうやら美蘭は何か話していたらしい。「ごめん、少しぼんやりしてた」と謝ると、美蘭は携帯で時間を確かめ、「もう遅いね。謝るのはこっちだわ。ごめんね」と言って、麦茶の残りを飲み干し、「じゃあ」と立ち上がろうとした。
「待って」
咄嗟にそう言ってしまってから、花奈子は自分で自分に驚いていた。でも、多分私は、この話を誰かに言わずにはいられないのだ。
全てを話し終えると、花奈子はまた一枚新しいティッシュを取って洟をかんだ。美蘭はもう氷もほとんど残っていないグラスを口に運ぶと、「それは辛かったね」と低い声で言った。
「助けたつもりだったんだけど、私のこと、怒ってるんだよね。どうしてなんだろう」
「たぶん、だけどさ、その沙緒美って子が怒ってるのは、自分自身なんだよ」
「自分?」
「痴漢にあって、何もできずに我慢してた、自分が嫌いなの。弱くてみじめな自分が嫌いなの。そんな自分のこと、人に知られたくなかったのに、花奈子に助けられたせいで、知られてしまった。だから、誰かに言いふらされる前に、その嫌いな自分を全部、花奈子に押し付けることにしたのかな」
「でも、私、誰かに言ったりしないよ。あんな事、人に言うわけない」
「それは花奈子の場合でしょ?沙緒美はたぶん、言っちゃう子なのよね。だから、花奈子が黙ってる可能性なんて、思いつかなかったのよ」
「じゃあ、やっぱり、私はあの時、何もせずに知らん顔していた方がよかったの?」
「難しいよね」と言って、美蘭は長い溜息をついた。
「私も似たような事あったな。五年生の時だけどさ、友達がある人に虐められて、すごく追いつめられてたの。だから助けるつもりで、その相手をひどい目に遭わせてやったの。きっと友達は喜んでくれる、そう思ったんだけど、大間違いよ。まるでお化けか何かの、恐ろしい物を見るような目を向けられて、二度と口をきいてもらえなかった。私も馬鹿だよね、やり過ぎって事、判らなかったの」
楽しかったパーティーを思い出すような感じで、あははと笑ってから、美蘭は花奈子の目をまっすぐに見た。
「私は花奈子のした事は、それでよかったと思う。でも、沙緒美って子はさ、ありがとうって言えるほど、強くないのよ。もし助けてくれたのが花奈子じゃなくて、知らない人だったら、素直にお礼が言えたかもしれないけど」
「私これからどうしたらいい?あんな事言いふらされて、平気な顔して塾に行くなんて無理。でもお父さんにどう説明していいか判らないし、幸江ママに心配もしてほしくない」
ようやく涙が止まったような気がして、花奈子はもう一度だけ洟をかんだ。もう十時を少し過ぎていて、そろそろお父さんが帰ってくる。そう思うと泣いている場合ではなかった。
花奈子が時計を見たのに気づいたのか、美蘭は「さて、じゃあ私、そろそろおいとまするね」と背筋を伸ばした。そして花奈子の顔を覗き込むと、「大丈夫だよ。今夜ぐっすり眠って、そうしたら全てうまく行くから」と微笑んだ。忘れかけていた火薬の匂いが、ほんの一瞬戻った気がした。
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