第7話 黒い蝶と黒い猫

 駅前のロータリーでバスから降りると、外の熱気が絡みついてくる。まだ九時過ぎなのに、日差しは真昼のようだ。花奈子かなこは小走りで日陰に逃げ込むと、自転車置き場へ向かった。

 何故だかこの前、病院に行った帰りに、預けっぱなしにしたせいで、また自転車を取りにくる事になってしまった。でもまあ、自分のせいだと諦めて、通路を歩く。

 風通しが悪くて、いつも薄暗いこの通路。目の前を幸江ゆきえママぐらいの女の人が、小さな子を連れている。その向こうからは、大学生ぐらいの女の子が二人並んで歩いてくる。この前は誰もいなかったのに、今日は人が多いな。そう思ってから、花奈子は急に立ち止まった。

 この前。

 誰もいない夜の通路を、確かに自分は歩いていた。なのに何故か自転車を出さずに、家へ帰ったのだ。

 そうする間にも、後ろからきた男の人が追い抜いて行く。そのサンダルの足音にどきりとして、花奈子は壁際に身を除けた。どうしたわけか、心臓が早く打つ。何だろう、昨日も外で倒れてしまったし、ばあちゃんが心配した通り、貧血なのかもしれない。

 何人かやり過ごして、花奈子はようやく息を整えると、また歩き出した。そして「第二駐輪場」の表示のある角を曲がった。その瞬間、全身が凍りついたような気がした。男が一人、行く手を遮るようにして立っている。

 怖さのあまり、ぎゅっと目を閉じて、それからゆっくりと開く。そこには誰もいなくて、ただ、もやっと生ぬるい風が漂っているだけだった。

 そうなのだ、自分は確かにここに来たし、この角も曲がった。でも自転車は出さなかった。それは。

 花奈子は身体の向きを変え、「西出口」と矢印のある方に向かって、ゆっくりと進んだ。通路を突き当たり、右の出口に向かう。その段差を踏みしめ、高架下の駐車場に出て行く。

 そう、夢なんかじゃない、私は確かにこの場所にいたのだ。あの男に、後を追いかけられて。

 それから、ここで、こうして。リュックに手を入れると、ばあちゃんと縫った巾着袋に触れる。そこに入っていたレモンイエローの玉。力いっぱい投げつけて、柱にぶつかって割れてしまった。あの破片はどこにいったんだろう。

 ごうごうと、高架の上を列車が通り過ぎて行く。花奈子はアスファルトの地面に何か、光るものが落ちていないかと目をこらしながら、俯いて辺りを歩いた。やがて列車の走る音は遠のき、どこからか涼しい風が吹いた。やっぱり、何も落ちてない。顔を上げると、目の前の白い軽自動車のサイドミラーに、黒い大きな蝶がとまっていた。

 どうしてこんな場所に飛んできたんだろう。不思議に思いながらも、目は自然と惹きつけられる。まだ蛹からかえったばかりなのか、傷ひとつない羽根の鱗粉がきらきらと輝いている。よく見るとそれは、普通のクロアゲハより一回り大きいような気がするし、模様も違っている。もしかしたら、知らない種類の蝶かもしれないと思って、花奈子は目をこらした。

 黒一色のように見えて、実は細かい、幾何学模様にも似た濃淡があって、しかもその模様は、流れる川の水面のように移ろってゆく。でもそんな事ってあるだろうか。光の角度でそう見えるだけ?じっと見つめていると、何かを思い出しそうな、ぼんやりとした気持ちになってくる。蝶はそれに応えるように、ゆっくりと羽を上下させた。

「きれい」

 その言葉を口にして、花奈子は何かをつかまえたと感じた。今とそっくり同じ事が、この場所で…

 いきなり携帯が鳴りだして、はっと我に返る。慌ててディスプレイを見ると、美蘭みらんだった。


 かどや旅館、という看板をたしかめて、花奈子は自転車を降りた。とりあえず道路脇の、邪魔にならない場所に自転車を停めると、門の中を覗き込み、そろそろと敷石を踏んで前庭を抜け、玄関の引き戸を開ける。ごめんください、と声をかける前に、廊下の籐椅子に座って新聞を読んでいる美蘭と目が合った。

「おはよう!暑いのに呼び出しちゃってごめんね」

「ううん」と言いながら、花奈子はその、古い旅館の玄関を見回した。

「なんでこんなとこ泊まってるの?って顔してるね」

 いきなり指摘されて、花奈子は「うん。あ、そうじゃないけど」と、あたふたしてしまった。

「まあ好みの問題。中途半端なホテルより、風呂トイレ共同のレトロな旅館の方が落ち着くのよ。まあとにかく上がって」

 美蘭の後について黒光りする廊下を進み、奥の階段を上がってすぐの部屋に入る。そこはこぢんまりとした和室で、座卓にはノートパソコンと本が何冊か置かれていた。襖を開けて入った正面が出窓になっていて、簾がかかっている。風が吹くと軒下の風鈴が軽やかな音で鳴った。

「なんか昭和っぽくていい部屋でしょ?エアコンなくても風が通るからけっこう涼しいし」

「ここに、弟さんと泊まってるの?」

「やむを得ず」

「でも、今日は別行動なんだ」

「そう。気分爽快」と答えて、美蘭はにこっと笑った。昨日、東京から車を飛ばして古墳の説明会を聞きにきて、一週間ほどここに泊まるから、という話だったけれど、亜蘭あらんは急に仕事が入ったとかで、東京に帰っているらしい。

「電車は面倒くさいから車使わせて、なんて勝手な事言っちゃって。レンタカー使えばいいのに。こっちは足がなくて動けないわけ。だからちょっと、花奈子ちゃんにつきあってもらおうって思ったの」

「花奈子、でいいってば」

「ふふ、可愛いからついつい、ちゃんづけしちゃう」

「可愛くなんかないよ」

 そういう事を言われると本気で居心地が悪くて、花奈子は美蘭の傍を離れ、出窓に腰掛けた。簾の隙間から、狭いけれどきちんと手入れされた庭が見える。

「あいたあ!」

 不意に美蘭が叫び声を上げる。思わずそちらを見ると、明かりの笠が揺れていて、美蘭が額を押さえていた。

「ここさあ、レトロなのはいいけど天井低いのよね。私も亜蘭も、頭ぶつけっぱなしよ」と言いながら、花奈子の隣に腰を下ろす。

「ほら見て、ここ、赤いでしょう」と指さした眉間の少し上は、確かにほんのり赤くなっている。

「部屋の真ん中、通らないようにしたらいいんじゃない?」

「それが正論よね。ま、花奈子が舐めてくれたら、治るかもしれない」

「えっ?舐めるの?」

 思わず聞き返すと、美蘭の眼は糸のように細くなり、「冗談!」と笑った。そこで初めて花奈子もからかわれた事に気がつく。なのに何故か胸がざわめき、左膝の傷痕に目が引き寄せられる。

「ここ、転んだの?」と、美蘭は冷たい指先でそっと触れた。

「あ、やっぱり目立つかな」

 キュロットの裾を引っ張って隠そうとすると、美蘭は「そうじゃなくて、花奈子が見たから気づいただけ」と言った。

「心配しなくてもこんな傷は、すぐに消えちゃうよ。心の傷やなんかと違って」

 美蘭は歌うようにそう言って、出窓の手摺に肘をかけると頬杖をついた。心の傷って、どういう意味?聞こうかどうしようか迷っていると、ふくらはぎに何かが触れた。

「きゃあ!」

 反射的に立ち上がると、黒い猫がびっくりしたようにこちらを見ている。美蘭は驚きもせずに「あーら、豆炭まめたん、おはよう」と手を伸ばし、その黒猫を抱き上げた。

「ここの飼い猫なのよ。好奇心旺盛なんだよね。知らない声がするから見に来たんでしょ?」

 言われて豆炭はニャ、と鳴き、美蘭の腕をすり抜けて畳の上に飛び降りた。金色に光る瞳。少し前まで子猫だったような、華奢な身体に艶々と黒く光る毛並。その表面に、さざ波のように流れる模様が浮かんでいる気がして、花奈子はじっと目をこらした。

「ねーえ、花奈子ってば」

 気がつくと、美蘭は座卓においたノートパソコンを開いて、何やら検索している。

「この街ってレンタサイクルが存在しないのね。まあ、観光メインの街じゃないから仕方ないか」

「美蘭、自転車借りたいの?」

「だって亜蘭の奴、あさってしか帰ってこないし。図書館とか資料館を回るのに、タクシーいちいち使うのも面倒。いっそ自転車一台買って、ここに寄付してこうかな」

「あのさ、だったら、うち、一台余ってるんだけど」


 ついつい余ってる、なんて言ってしまったけれど、それは要するにお兄ちゃんの自転車。でもまあ、亜蘭が東京から戻るより早く、お兄ちゃんが帰ってくる可能性はかなり低いから、美蘭が借りたところで問題ない筈だった。

「パンクはしてないと思うけど、まず空気入れないと」

 ガレージ脇の自転車置き場の一番奥に、ずっと停めたきりだった自転車。高校のステッカーが貼りっぱなしで、サドルが少しひび割れしている。花奈子が物置から空気入れを取ってくると、美蘭は先に渡しておいた雑巾で、ひととおり拭き終っていた。

「完璧だわ。本当にありがとう」と、美蘭は早速空気を入れ始める。

「サドル、高くない?」

「大丈夫よ。先に自転車屋さん回って、ブレーキの点検だけしてもらうわ。それにしても、やっぱり持つべきものは年の離れた兄弟よね。双子なんてさ、同時に同じものが必要になるだけで、常に奪い合いなんだから」

 その言葉に、花奈子は曖昧に笑うことしかできなかった。自分としては双子の方がいつも一緒で楽しそうに思えるんだけれど。

「よし、これで準備完了。で、花奈子はこれから塾に行くわけね」

「うん。二時からだけど。お昼、うちで食べてく?」

「私はこのまま出かけるから大丈夫。でもさ、よければ夕食おごらせて。今日も一人なんでしょ?それとも弟ちゃんの病院に行くの?」

「ううん、一人だよ」

「じゃあ決まった。塾が終わったら電話して!」

 それだけ言うと、美蘭はお兄ちゃんの自転車にひらりとまたがり、真上に近い太陽をものともせずに走り去った。

 置きっぱなしだった自転車の消えた空間は、そこだけ時間が止まったように浮き上がって見える。お兄ちゃんは進学校を卒業して、東京の有名な大学の法学部に進んで、「秀才」という呼び名がぴったりだった。

 お兄ちゃんはどうしてあんなに頑張れるんだろう。

 夜遅くまで勉強している彼の部屋からかすかに聞こえてくる音楽を追いかけながら、花奈子はベッドの中で時々不思議に思った。リビングに置き忘れてあった問題集を手に取って、これをいつか自分が勉強する日がくるなんて、絶対ない、と確信した事もある。はっきり言って、叔父さんであるひろしちゃんの方がずっと、子供っぽいというか、遊び好きで、適当だと思っていた。

 なのに、大学一年の秋、お兄ちゃんは突然東京から戻ってきた。最初は学園祭で休みだから、とかいう話だったのが、なぜかどんどん休みが伸びて、ずっと家にいるようになった。朝と夜が逆になって、みんなが寝静まった頃にシャワーを浴びたり、食事をしたり、家にいるはずなのに、姿が見えなくなってしまった。

 時々、夜遅くに、お父さんがドア越しに話をしているのが聞こえてきた。何か返事が聞こえる時もあれば、壁に何かを激しくぶつける音が響くこともあった。その頃は拓夢たくむが最初の入院をしていて、家の中は何もかもがうまくいかずに軋んでいて、中一だった花奈子はいつも枕の下に頭を突っ込んで、何も聞こえないようにしていた。

 年明けに一度、お兄ちゃんは東京に戻って、それから半月もしないうちにまた帰ってきて、それからはずっと部屋にこもりっきり。

 そしてあの、大雨の夜。

 あれがなくても、いつかは誰かがあの部屋のドアを開けていただろう。でも、あの大雨がもう、花奈子に待っている事を許さなかったのだ。

 

 自転車の空気入れを物置に片づけ、勝手口から家に入る。先に塾に行く用意をしてから昼ごはんを食べることにして、階段を上がる。手前にある自分の部屋に入りかけて、足が止まる。そしてまっすぐ進むと、お兄ちゃんの部屋のドアを開けた。

 あの夜と何一つ変わらない、すっきりと片付いた空間。


たぶんお兄ちゃんは計画的にこの部屋を出て行った。でも、何のために?どこへ?そして何故?

 携帯の電源は切れたままで、ばあちゃんが口座にお小遣いを振り込んでも、何の連絡もなかった。一体、皆のこと、どう思ってるんだろう。思い出したりするのか、すっかり忘れているのか、憎んだり、嫌ったりしているのか。

 花奈子は溜息をつくと、勉強机の椅子を引いて腰を下ろした。この机に向かって、お兄ちゃんはいつも何を考えていたのだろう。目の前には静かに時を刻んでいる目ざまし時計と、オーディオプレーヤーのスピーカーと、ゲームのマニュアル本が何冊か。 

 優等生やめて、ゲーマーになったのかな、と思いながら、花奈子はその中の一冊を手に取る。その時、本と本の間に入っていた、一枚のメモがはらりと舞った。

「おっと」

 床に落ちたそのメモを拾い上げ、そこに書かれた字を読む。

 東京都人並区

 雲母

 その二つ以外、何も書いてない。小さくて角張った、懐かしくすらあるお兄ちゃんの字。よく見るとその下に、坂、八千、という字もあった。ゲームの裏技か、パスワードだろうか。マニュアル本をぱらぱらとめくり、それからメモと一緒に元の場所に戻して、花奈子は頬杖をついた。

 お兄ちゃんが急に大学に行かなくなったのは、もしかすると何か、嫌な事があったせいかもしれない。沙緒美と自分の間にあったような、もう学校に行きたくなくなるような事が。

 しかし、だからといって、自分も塾に行かなくていいというわけではない。

 お昼ごはんはハムときゅうりとチーズを胚芽パンでサンドイッチにすることに決めて、花奈子は立ち上がった。ドアを閉めようと振り返ると、窓の外をクロアゲハが飛んでいるのが見えた。


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