第6話 仕事は決まってる
目が覚めるともうすっかり日は高く、外ではセミがさかんに鳴いていた。昨日はどうやら、着替えるのもカーテンを閉めるのも忘れて寝てしまったらしい。
熱いシャワーを浴びていると、ようやく目が醒めてくる。なんだかすごく長い夢を見ていた。そう、誰か怖い人に追いかけられて、逃げ回っていたのだ。
この間、キリちゃんと入ったドラッグストアで買った、ミントフレーバーのシャワージェルで身体を洗ってゆくと、嫌な夢の記憶も流れ去るような気がする。腕、肩、背中とお湯をかけ、足まできた時、花奈子は不思議な事に気がついた。
左の膝に怪我をしている。でも、その傷はもう塞がり、かさぶたをはがした後ののように少しだけ赤くなっていた。
昨日は何ともなかったのに、いつの間に?
指で触れてみると、かすかにちりちりとした感じがする。その時、夢の中で転んだ事を思い出した。転んで、それから、どうしたんだっけ。
リビングではお父さんがソファに座り、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。花奈子は「おはよう」と言ってからキッチンに行くと、冷蔵庫の野菜ジュースを取り出し、立ったままでグラスに一杯飲んだ。それからシリアルをボウルに入れ、上に無糖ヨーグルトを少しのせてから牛乳をかける。
「コーヒー、おかわり飲む?」と声をかけると、「ああ」という返事があったので、コーヒーサーバーを持ち、シリアルのボウルをもう片方の手に持ってリビングに戻る。お父さんはちょうどコーヒーを飲み干したところで、花奈子は空いたマグカップにおかわりを注いであげた。
「ありがとう。昨日はご苦労さんだったな。ママが助かったって言ってたぞ」
「届け物のこと?」
「ああ。遅くに来てもらって、すまなかったって」
「別に大したことじゃないよ」
花奈子はそっけなく言うと、シリアルを食べ始めた。お父さんは読みかけの新聞を畳むと、「今日はこれから病院に行って、ママと交代するから」と言った。
「わかった。ママは帰ってくるの?」
「いや、
「私は、やめとく。ばあちゃんちに行くよ」
咄嗟に、そう答えてしまった。塚本さんち、というのは
花奈子ちゃん、これ食べる?これ持って帰らない?どれが一番好き?塚本さんのおばあちゃんはどんな小さな事でも、そうやって声をかけてくれるけれど、正直いって自分がしたい事とか欲しいものとか、よく判らないので、答えに困るのだ。
ばあちゃんみたいに適当だと楽なんだけど、と思うのは勝手過ぎるだろうか。トイプードルのアズキと遊べないのは残念だけれど、やっぱり塚本さんは遠慮したい。
「そういえば、自転車は駅に置いたままか?」
「え?」
「昨日帰ってきたら、自転車が停まってなかったから、まだ戻ってないのかって一瞬びっくりしたよ。遅くなったからバスで帰ったのか?」
「え?あ、そうかな」
適当に返事をしながら、花奈子は慌てて昨日の事を思い出そうとしていた。幸江ママに忘れ物を届けて、すぐにまた帰りの電車に乗って、それから、それから…
その時、インターホンが鳴った。
「何だろう、宅配便かな?」と言いながら受話器をとり、「はい、どちらさまですか?」と尋ねる。
「あっ、花奈子ちゃん?こんにちは、
大急ぎで玄関のドアを開けると、門のところに美蘭がいて、傍には
「どうしたの?」
花奈子がサンダルをつっかけて出ていくと、美蘭は「はい、これ、この前のお礼」と言って、いきなり小さな紙バッグを差し出した。
「お礼って?どうして?」
「だってお手洗い借りたじゃない。いきなり見ず知らずの人間がそんな事お願いして、OKしてくれる人なんてあんまりいないし。って、馬鹿にしてるわけじゃ全然ないからね。むしろその反対。本当に感謝してるの。これ、最近ちょっと話題のショップで扱ってる、イタリア産の蜂蜜。独断で選んだけど、ヒマワリと、オレンジと、ローズマリー」
相変わらず美蘭ワールド全開という感じで、花奈子は「えっと、ありがとう」と、なし崩し的に受け取ってしまった。
「亜蘭ったらさ、チョコレートなんかどうかなって言うのよ。この暑いのに、チョコ、どうよ?もらったって困るよねえ、ドロドロだよ?」
「うーん」と、言葉を濁しながら、亜蘭をちらりと見たけれど、彼は美蘭の毒舌なんて慣れっこなのか、顔色一つ変えずに立っている。
「今日は、何しに来てるの?」
まさかこの蜂蜜を渡すためだけに、東京から来た筈はないだろうけれど、美蘭ならそんな事でも平気でやりそうな気がした。
「あれよ、見学会。
「え、また古墳?タクシーで?」
「ううん。今日は自分で運転してきたわ。やっぱり夜通しだったけど」
「自分で運転?まだ高校生でしょう?」
「だって、もう十八だもんね。私達五月生まれだし。先週ようやく免許とれたの。まあ、ほとんど亜蘭がハンドル握ってたけど」
まるでアメリカの高校生みたいだなと思いながら、花奈子は「でも、車はどこに停めてるの?」と尋ねた。
「ああ、何とかセンターの市営駐車場。あそこ狭いのね。新車なのにドアこすっちゃったのよ。もちろん亜蘭が」
言っているのはどうやら、すこやか健康センターの事らしい。だったら歩いて十分ほどだ。その時、「花奈子」と後ろから声がした。振り向くと、お父さんが玄関に立っている。
「お友達か?そんなところで立ち話してても暑いから、入ってもらいなさい」
言われて初めて、花奈子は自分の気の利かなさに呆れた。日差しはまるで刺すようにきついというのに。
しかし花奈子が何か言う前に、美蘭は「お構いなく。私たち、もう行きますから。お邪魔しましたあ!」と叫んでいた。そして小声で「ねえ、古墳の見学会、一緒に行かない?」と誘った。
古墳なんて、誰が興味あるんだろうと思っていたら、意外なことにかなり大勢、五十人程の人が見学会に集まっていた。
一番多いのはお父さんよりも年上の男の人だったけれど、ばあちゃんぐらいのおばさんもけっこういたし、学生らしい人もいれば、日傘をさした若い女の人のグループもいる。大人に連れられた小学生も何人かいたし、みんなけっこう遠くから来ているみたいだった。
見学会に参加するには、事前にネットで予約をする必要があるらしかった。受付で一人ずつ確認しているのを見て、「やっぱり無理なんじゃない?」と聞いてみたけれど、美蘭は「何とかなるって」と自信満々で、係の人に「今朝、ちゃんと人数変更の連絡したんですけど」とか何とか言って、うまくごまかしてしまった。
受付があったのは、それまで一番外側の通行止めのロープがはられていた場所で、今日は中に入れるようになっていた。崩れた山の裾を廻るようにして道が続いているけれど、少し整備したみたいで、大雨の翌朝に通った時よりもずいぶん広く、車一台通れるほどの幅がある。他の人に続いて緩やかなカーブを曲がると、見覚えのある光景、崩れたサンドイッチのように土の中から顔を覗かせている、幾つもの大きな石が目に入った。
みんな口々に「すごいね」と声を上げていたけれど、花奈子は二度目だからそうも驚かない。美蘭はどうだろうと横目で見上げると、じっと腕組みをして石を睨んでいる。亜蘭はやっぱりどこか、心ここにあらずな感じで立っていた。
参加者全員が石の見える場所まで来たのを確かめて、市のなんとか課の人が、ハンドマイク片手に説明を始めた。
「今、見ていただいている古墳は、先日の集中豪雨による赤牛山の土砂崩れが原因で発見されたものです。これまでにも、わが市の
赤牛山は航空写真その他の調査から、古墳である可能性が極めて高いと指摘されていましたが、予算不足により発掘調査が保留になったままでした。しかしこの度、豪雨被害という不測の事態の結果ではありますが、内部構造が露出し、古墳である事が確認されましたので、市としては急遽予算を申請し、埋蔵物の調査と保護を進めることになりました。
今後、この一帯は調査が終了するまで立ち入り禁止となりますので、本日は皆さんが直接この古墳をご覧になる、貴重な機会と言えます。
尚、造営された年代と被埋葬者については詳細な調査を待つ必要がありますが、他の古墳と同じであれば四世紀後半ごろのものと思われます。また、現時点で確認されている副葬品その他の状況から、埋葬されたのは女性の可能性が大きいと見られています」
判るような判らないような。花奈子はぼんやりとその説明を聞きながら、風に飛ばされそうになった帽子を押さえた。美蘭は相変わらず仁王立ちだし、亜蘭はというと、もう飽きたのか、リュックサックに入れていたペットボトルの水を飲んでいる。彼は花奈子の視線に気づくと、こちらに近づいてきた。
急に、なんだか怖いような気がして、花奈子は後ずさりした。どうしてだろう、亜蘭が、というか、男の人が近寄って来るのがすごく嫌な感じ。そしてもう一歩後ろに下がったら、地面はまるでゴムみたいに、ぐにゃりと沈んだ。
「花奈子ちゃん、花奈子ちゃんってば」
気がつくと、美蘭が上からのぞきこんでいる。なんでそんな変な場所にいるの?と思ったら、変なのは自分の方で、どうしたわけか地面に寝転がっているのだった。
「ああよかった。いきなり倒れちゃったから心配したよ。熱中症かな」
「大丈夫」と言ってはみるものの、頭がぼんやりして、うまく言葉が出ない。何だか首が痛いと思ったら、枕の代わりに冷たいペットボトルが置いてあった。見上げると梢が風に揺れていて、その向こうに澄んだ夏の青空が広がっている。
「氷、もらってきたわよ」
知らない女の人が、ポリ袋を片手に走ってきた。美蘭は「すみません」と、それを受け取ると、バッグからハンカチを出して氷をいくつか包み、花奈子の首元にのせた。途端にすーっと意識が冴えてくる。
「具合どう?救急車呼ぼうかって言ってたんだけど」
「ううん、大丈夫だから。ちょっとふらっとしただけ」
花奈子は氷を包んだハンカチを片手で押さえて身体を起こした。どうやらここは、赤牛山の公園にあった、桜並木の下らしい。知らない女の人は手にした扇子で風を送ってくれた。
「今、亜蘭が車とりに行ってるから、家まで送るわ。でも、先にお父さんに電話しようか」
美蘭は花奈子が枕にしていたスポーツドリンクのボトルを手にすると、キャップを取って差し出した。素直にそれを飲んで初めて、花奈子は自分の喉が乾いていたのに気がついた。
「お父さんは多分、もう出かけてる。ママも用があるし」
「でも、一人で家にいて、また具合が悪くなったら大変じゃない」
「まあまあ、すっかりお世話になっちゃって」
ばあちゃんは切り分けた西瓜の入った鉢をお膳に置くと、皆に小皿を配った。
「ちょうどお隣に西瓜をもらったところで、こんなにいっぱいどうしようかと思ってたのよ。遠慮なく召し上がれ」
「じゃあ、いただきます」
美蘭は本当に遠慮なんて全くせずに、一番大きなのを選ぶと白い歯を見せて齧った。亜蘭も小さな声で「いただきます」と食べている。それを見ていると花奈子は自分も欲しくなって、ゆっくり起き上がった。
「あら花奈子、大丈夫なの?」
「うん。もう平気みたい」
お腹にかけていたタオルケットをたたみ、長い脚で横座りしている美蘭の隣に座る。
「じゃあちょっと、塩を持ってこようか。熱中症予防は塩分が大事って言うから」
ばあちゃんはそう言って立ち上がると台所に行って、小さな焼き物の壺を持ってきた。
「これね、アンデスの岩塩らしくて、お友達のおみやげなのよ。飛行機に乗って、ナスカの地上絵見たんだって」
「へーえ。すごいですね。ペルーまで行ったんだ」
「そうそう、あなたよくご存知ね。私、ナスカを飛鳥だと思ってて、奈良なのにどうしてアンデスなのって、あっはっは」
どうやらばあちゃんは美蘭と気が合うみたいだった。家に一人でいるのも何だか不安で、こっちに連れてきてもらったのは正解のようだ。
「あなたたち、お昼ごはんまだでしょう?よかったら食べて行かない?といっても冷麦ぐらいしか出せないけど」
「わあ、冷麦大好きです。でもいいんですか?」
「一人も四人も、手間は大して変わらないもの。ちょっと待っててね」
ばあちゃんはよっこらしょ、と立ち上がって台所に姿を消した。美蘭は「かなり図々しいねえ、私達」と言いながら、ほんのりピンク色をしたアンデスの岩塩を西瓜にぱらりとかけた。
「ばあちゃんはお客様が大好きだから、大丈夫だよ」
花奈子も真似をして岩塩を西瓜にふると、一口齧ってみた。西瓜だけの時とは違う、輪郭のある甘味が喉に広がる。
「よかった、花奈子ちゃん、元気になったみたい。さっきはちょっと目の焦点が合ってなかったから心配したよ」
「そう?」
「寝不足とかだった?ごめんね。暑いのに無理やり引っ張り出しちゃって」
「ううん。それより、古墳の見学会、途中で抜けちゃったんでしょう?こっちこそごめんね」
「ああ、そんなの問題ないって。別に私たち、説明が聞きたかったわけじゃないから」
「え?そうなの?」
「ただ、あそこに入って、傍でよく見たかっただけ」
「それは、古墳について、もう色々と知ってるってこと?」
「まあね」と悪戯っぽく笑うと、美蘭は脇に置いていたキャンバス地のショルダーバッグからタブレットを取り出すと電源を入れた。
「この街って本当に古墳が多いのよねえ。まあ、三津川という水源があって、土が肥えてて、海からもそう遠くないし、気候は比較的温暖。要するに昔から住みよい土地ってわけね。ほら、これが、空から計測したこの辺りの地勢図。ここが赤牛山で、ここ、ここ、それからこっちでしょ」
美蘭がタブレットの画面に出した地図にはたしかに、似た特徴を持った地形が幾つもちらばっていた。
「これを現在の地名に合わせてみると、
「ふーん」と頷きならが、花奈子は美蘭の白い指が次々と呼び出す画像を見ていた。
「まあ大体、古墳といえば銅鏡とかさ、うまくいけば刀や馬具でしょ?後は翡翠とか瑪瑙とか」
画面には、教科書で見たことのある、深い緑色の勾玉が現れた。
「あと、管玉とか、水晶の玉ね」
次に出てきたのは、青みを帯びた透明な玉だった。花奈子は突然、あの大雨の翌朝に拾ったレモンイエローの玉の事を思い出した。やっぱり、あれは古墳に埋められていたものだったのだ。いい加減どうにかして元の場所に戻さないと、本当に泥棒になってしまう。
ハンカチを取るふりをして、そろそろと自分のショルダーバッグに手を伸ばし、あのガラス玉を入れた巾着を探る。あった。けれど、中味がない。この間、
「どしたの?探し物?」
「あ、ちょっと携帯が見つからなくて。大丈夫、あったから」
花奈子はそうごまかして、バッグを探るのを止めたけれど、その指先に自転車の鍵が触れた。あれ?やっぱり自転車は預けたままなんだ。だとしたら、昨日はどうやって家に帰ったんだろう。
「失くして困ってるものがあったら、言ってね。見つけるおまじない知ってるから」
「え、そんなのあるんだ」
「まあね。あと、迷子になった猫を見つけたりもできるよ」
そう言う間にも、美蘭は次々と画像を呼び出してゆく。錆びついた刀みたいなもの、腕輪、首飾り、壺かお椀の欠片らしいもの。お墓にこういうものを埋めるのは確か、死んだ後の世界で使うためじゃなかったっけ。
「ねえ、美蘭さんはどうして古墳のこと、そんなに調べてるの?クラブ活動とか?」
「美蘭、でいいから。古墳はさあ、生活かかってるのよ」
「生活がかかってる?」
「まあ、詳しくは言えないけど、私、大人になってからの仕事はもう決まってるの。今はその準備をしてるわけ。古墳もその一環」
「何の仕事?モデルじゃないんだよね?」
しかし美蘭はそれには答えず、ただその色の薄い瞳で花奈子を見つめた。吸い込まれてしまいそうな、切れ長の涼しい目。少しだけ、笑っているようにも思える。
「はあい、お待たせ!ちょっとお膳片づけてくれる?」
冷麦の入った深鉢を持って、婆ちゃんが戻ってきた。花奈子は慌てて立ち上がると、お箸やお椀を取りに台所へ向かう。その後から婆ちゃんの「あんた、今日はいいから座ってなさい」という声が追いかけてきた。
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