第3話 お礼も言わないで

 もうすっかり最短ルートを憶えてしまった、長い廊下を何度も曲がり、花奈子かなこは小児科と表示の出ているナースステーションを覗くと、「こんにちは、山辺やまべです」と声をかけた。

「あら花奈子ちゃん、今日は学校お休み?」と、顔見知りの看護師さんが応対してくれる。

「一昨日の大雨で校庭が水に浸かっちゃったから、明日終業式だけやって、あとはもう夏休みです」

「そっか、何か得した気分?」

 看護師さんは花奈子の心の内を見透かしたように悪戯っぽく笑うと、「お母さん呼ぶね」と内線の受話器を手にとった。

 病室には何人も子供がいるはずなのに、学校に比べると静まり返っている。それでも、壁に貼られたキャラクターの絵だとか、折り紙で飾られた「みんなのやくそく」といった貼り紙を見ていると、ここはやっぱり子供のいる場所だという気がしてくる。

「花奈子ちゃん、忙しいのにごめんね」

 呼び出しを聞いた幸江ゆきえママが、廊下を足早に歩いてくる。肩まである髪を後ろで一つにまとめて、化粧っ気のない顔はいつもより白く見えた。

「テストも終わったし、もう忙しくないよ」と言って、花奈子は病室に向かおうとした、ところが、幸江ママはそれを押しとどめるようなしぐさをした。

拓夢たくむね、午前中の検査がとっても痛くて、ずっとご機嫌ななめで、さっきようやくお昼寝したところなの」

 そういう幸江ママの目元にもくまがあって、花奈子は何だか胸がしめつけられるような気持ちで「じゃあ、拓夢にはまた今度会うね」と、できるだけ明るく答えた。

「わざわざ来てくれたのにごめんね。せっかくだから、下でお茶でも飲みましょう」と、幸江ママは花奈子が肩にかけていた、洗濯物の入った大きなバッグを受け取った。


 病院の外来は午前中で終わるから、昼下がりになると喫茶コーナーはがらがらで、窓際の特等席にも余裕で座れる。花奈子はすっかりここのメニューを憶えているので、迷わずキャラメルサンデーを選んだ。幸江ママはツナのホットサンドとコーヒーだ。

「お昼食べそびれちゃって」と、笑うけれど、それはつまり、ずっと拓夢が駄々をこねていたという事だ。花奈子がひいき目なのかもしれないけれど、拓夢は聞き分けのいい子だし、その拓夢がそんなにぐずったというのは、よっぽど辛い検査だったに違いない。

「家の後片づけはもう終わった?お父さんは昨日も予備校に出てたんでしょう?」

 幸江ママはわざと拓夢の話を避けているみたいで、水害の事をきいた。

「大丈夫だよ。昨日はひろしちゃんが来てくれて、家の周りとか玄関とか、全部きれいにしたから。今日は保健所の人が消毒して回るらしいけど、隣のおばさんが見といてあげるって」

「そう。本当に助かるわ。何から何までお願いして、ごめんね」

 そんな風に幸江ママが申し訳なさそうなのが嫌で、花奈子はキャラメルサンデーをどんどん食べながら、まるで気にしてない感じで話題を変えようとした。

「そういえばさ、赤牛山が崩れたんだよ。うちの辺まで、地震みたいな感じで揺れたんだけど、おかげで床上浸水しなかったの。実はあそこ、ただの山じゃなくて古墳だったらしくて、土の中から大きな石がたくさんのぞいてたよ。今は立ち入り禁止になってて、見られないけどね」

「古墳?それって、お墓だったってこと?」

「ええと、そうか、そうだよね」

 言われてようやく気がついたけれど、古墳というのは要するに、大昔のお墓だった。

「嫌だわ、何だか気持ち悪いわね。家のあんな近くにお墓があったなんて」

 幸江ママの不安そうな表情を目にして、花奈子は自分の間違いを悟った。お墓の話だなんて、言うべきじゃなかったのだ。

「でも本当かどうか判んない。そういえばお父さんがさ、来週の時間割がうまくいったから、幸江ママと交代できそうって言ってたよ、だからさ、塚本つかもとさんでゆっくりしてくればいじゃない」

 塚本さん、というのは幸江ママの実家だ。病院からは車で二十分程の距離で、花奈子たちの家よりもずっと近いのだった。花奈子も何度か行ったことがあるけれど、広いマンションで、花奈子ママの両親と、トイプードルのアズキが住んでいる。

「それより、帰って家のことをしなきゃ」

「でもさあ、家の事ならお父さんと花奈子でちゃんとやってるからいいじゃない。花奈子が幸江ママなら、久しぶりにお母さんのところで、寝たいだけ寝て、好きなもの食べて、アズキと遊んで、あとはゴロゴロするけど」

 幸江ママは少し困ったような笑顔で、黙って聞いていた。けれどふと思い出したように「孝之たかゆきくんから、何か連絡とかあった?」と心配そうに尋ねた。

「ない、かな。携帯は持ってるはずだけど、電源切ってるみたい」

「お金とか、どうしてるのかしら」

「うーん。貯めてたお年玉とか、あるんじゃないかな」

「お友達とか、連絡してみたの?」

「一応、お父さんが連絡したけど、わかんないって」

 適当にごまかしたけれど、本当の事を言えば、お兄ちゃんに友達といえる存在は二人しかいなくて、そのうちの一人、モリオくんはアメリカの大学に留学している。そしてもう一人のワッパくんは、半年ほど前に亡くなっていた。急性白血病だって聞いたけれど、部屋にこもったきりのお兄ちゃんはお葬式にも行こうとしなかったのだ。

 ああ、何だか悲しい事が多いな。花奈子は溜息をつきそうになって、慌ててあくびみたいにしてごまかした。幸江ママの前で、これ以上心配を増やすような事は絶対にしちゃいけない。

「多分さあ、外に出てみたら、以外と楽しいんで、そのままうろうろしてるんじゃないかな。めちゃくちゃワイルドな感じで帰ってきたりしたら、笑っちゃうけど」

 本当にそうだったらどんなにいいだろう。

 正直いって、花奈子は段々とお兄ちゃんの顔や声を忘れていくように感じていた。もしかしたら、道でばったり会っても判らないかもしれない。


 電車の窓の向こうを、青々とした田んぼが流れてゆく。太陽は傾きながらもまだ西の空に白く輝き、その日差しに炙られながら小学生ぐらいの男の子が三人、力いっぱい自転車をこいでいるのが見えた。

 病院から駅まで歩いて十分、そこから電車で三十分、駅から家まで自転車で十五分、合わせてほとんど一時間が、病院から家までの所要時間だった。雨が降ったり、電車に乗り遅れたりすると三十分ほど余計にかかってしまう事もある。

 それでも、花奈子は電車に乗るのが嫌いではなかった。田んぼがあったり、大きな川を渡ったり、高級そうな住宅地を眺めたり。そして電車に乗っている人たちを観察して、どこへ何をしに行くのか想像するのも楽しかった。

 電車はけっこう混んでいて座れなかったけれど、その方があちこち見られて気がまぎれた。吊り広告は遊園地のプールだとか、家族旅行だとか、夏休み気分を盛り上げるようなものばっかりだ。

 でもうちは、無理だな。

 途端に何だか、他の人たちに比べて自分だけつまらないような気がしてきて、花奈子は目を伏せた。つり革につかまって揺れながら、こんな状態がいつまで続くんだろうかと考える。

 別に頑張れないわけじゃないけれど、拓夢はこれからもずっと病院で、幸江ママもずっと付き添いで、お父さんはずっと忙しくて、お兄ちゃんはずっと帰ってこないのかと思うと、重たい石を背負ったような感じになる。

 まあいいか、それでも夏休みが始まるんだし。

 休みの間も美術部は週二回のペースで活動するけれど、授業に比べれば楽なものだ。

 そうやってなるべく、いい事だけ選んで考えようと思いながら、花奈子はいつの間にか団地に変わってしまった外の景色を眺めていた。ベランダに干した布団、西日よけの簾、立ち話しているおばさん達、伸び放題の雑草。こういう場所に住むのはどんな気分だろう。

 実を言えば、お父さんは今住んでいる家を売って、病院の近くに引っ越す事を考えている。そうすれば幸江ママももっと簡単に病院と家を行き来できるし、お父さんの勤めている予備校はあちこちに教室があるから、転勤もできるらしかった。

 花奈子は転校するくらいなら、通学時間が伸びるのを我慢するもりだけれど、問題はお兄ちゃんだった。お父さんが引っ越しの話をしていたのかどうかは知らないけれど、時々ドア越しに聞こえてきた言い争いは、もしかしたらその事だったかもしれない。

 とりあえず、お兄ちゃんと連絡がつくまでこの問題は棚上げで、それは少しほっとする事でもある。病院の近く、ということは、ばあちゃんの家から遠い、という事でもあるからだ。

 でもやっぱり、拓夢の事を考えると早く引越した方がいい。ただそれは、拓夢がこれからもずっと病気と闘わなければならないという事を意味していた。でも、明日にでも新しい薬ができるかもしれない。

 もう心配ばっかりするのはよそう。そう思って花奈子はまた顔を上げた。そうして何気なくドアの方を向くと、知った顔が目に入った。

 同じクラスの沙緒美さおみだ。

 制服ではなく、白いカットソーにピンクのスカート。素足にウェッジソールの赤いサンダル。買い物に行ってきたみたいで、ショップの紙バッグを二つも手にしていた。声をかけようかな、と一瞬思ったけれど、やっぱり気が進まない。

 彼女は去年の秋に転校してきて、最初の頃は花奈子たちのグループに何かとくっついてきたのに、体育祭で瑠理たちと仲良くなってからは、あっちにべったりだ。別にそれが悪いとは思わないけれど、転校したての時の親しげな笑顔と、最近の「は?だから?」みたいに、馬鹿にしたような態度の落差が大きすぎて、何だか苦手になってしまった。

 でもまあ、沙緒美はそういう、上から目線が似合うような美人だから仕方ない。色白で少し頬骨が高くて、つんとした感じの鼻に大きな瞳。少し茶色がかった髪はいつもポニーテールで、白いうなじはどんなに暑い日でも涼しげだ。

 花奈子はいつの間にか、ドアのそばに立つ沙緒美の姿に見とれていた。けれど、よく見ると何かがおかしい。沙緒美が、ではなくて、彼女の後ろにいる男の人だ。何というか、電車がそんなに混雑していないのに、不必要に沙緒美に近づいている感じ。気のせいだろうか、と首を伸ばした花奈子は次の瞬間、声をあげそうになっていた。

 沙緒美の後ろに立つ男の人の手は、彼女のスカートの下に伸びていた。沙緒美が持っている紙バッグに隠れる角度ではあるけれど、花奈子のいる場所からははっきりと見てとれる。これって、痴漢?

 痴漢なんてラッシュアワーの満員電車にしかいないと思っていた花奈子には、目の前の光景が信じられなかった。周囲の誰も気がついていない様子で、男は平然としてその場から動く気配もない。そして沙緒美はというと、怒ったような目をしてじっと窓の外を睨んでいた。その口元はきつく引き結んだままだ。

 どうしよう。

 花奈子は自分が沙緒美になったかのように感じていた。心臓はバクバクして、足が震えてくる。大変だ、何とかしなきゃ。でもいきなり「この人痴漢です!」なんて叫ぶ勇気はないし、第一それでは沙緒美が可哀想だ。そうして迷っている間にも、男は電車が揺れたのに合わせるふりをして更に沙緒美に身体を寄せた。

 駄目だ、もう我慢できない。花奈子は大きく息を吸い込んで、沙緒美の方へ近づくと「やーだ!ここにいたんだ!」とできる限りの大声で叫んだ。

「みんなあっちの車両にいるんだよ。早くおいでよ!」

 花奈子が傍に行くと、男は何もなかったように沙緒美から離れた。驚いた顔でこちらを見ている彼女の腕をつかむと、花奈子はそのままぐいぐい引っ張って隣の車両まで移動した。そして男がついて来ていないのを確かめてから、ようやく手を離した。

 気がつくと全身が震えていて、喉がからからだ。花奈子はドアにもたれて、ふう、と息をついた。しばらくすると胸の動悸が少しずつ収まってきて、沙緒美の顔を見るだけの余裕もできた。

「はあ、怖かったね」

 そう声をかけたものの、沙緒美は花奈子から目を逸らして、じっと窓の外を見つめている。その横顔は何だか怒っているようだった。

「沙緒美、ちゃん?」

 まさか人違いだったりする?と一瞬思ったけれど、やっぱり彼女だ。その時、電車がゆっくりと停まったので、花奈子はあわててドアから離れた。そしてドアが開いた途端、沙緒美は何も言わずに飛び出していった。

「沙緒美ちゃん!」

 まだ自分たちが降りる駅まで三つもあるのに。花奈子は何が何だか分からなくて、空いたばかりの座席にへたり込むようにして座った。


 もうすっかり真夏の日差しの下、大雨で校庭に流れ込んだ泥は、作りかけのチョコレートケーキみたいな感じで固まっている。

「父兄で土建屋さんやってる人が、重機で泥をどけてくれるらしいんだけど、ボランティアだから来週まで待つんだってよ。別に再来週でもいいけどね。練習が休みになるから」

 陸上部のキリちゃんはそう言って窓の手摺にもたれると、「あ、菜穂ちゃん、バイバーイ」と、校舎から出てきたばかりの友達に手を振った。

「彼女さ、夏休みにカナダでホームステイするんだってよ」

「へえ、すごいね」

 キリちゃんと並んで、三階の窓から外を眺めながら、花奈子は菜穂の後ろ姿を目で追った。

「やっぱお金持ちは違うよね。まあ、うちもホームステイするけど」

「え?どこ行くの?」

「高知の婆ちゃんち」と答え、キリちゃんは「一応、海外」と笑った。

「たしかに、海は渡るね」と、花奈子も同意する。やっぱりみんな、夏休みは楽しいイベントがあるのだ。

「あ、沙緒美だ。ほら、北沢君と歩いてる」

 キリちゃんが小声でそう言って、目立たないように指先でプールの方をさした。

「あの二人、付き合ってるって噂だけど、やっぱそれっぽいよね」

 バスケ部の北沢君といえば、背も高くて成績もよくて、しかも何だか不良っぽいのが人気だけれど、楽しそうに笑っている。そして沙緒美はというと、こちらも普段見せないような笑顔だ。

「はーあ、美男美女のカップルって奴かなあ」と言うと、キリちゃんは窓の手摺に両腕をのせ、その上に顎をついた。

「あのさ花奈子、噂っていえば、だけど、昨日電車で痴漢されたり、した?」

「えっ?」

 キリちゃんの日に焼けた横顔は、並んで歩く沙緒美と北沢君を見たままだ。花奈子は「どういう事?」と聞き返した。

「なんかさあ、沙緒美が言ってるらしいんだよね。昨日、買い物帰りに電車に乗ってたら、花奈子が痴漢に触られてて、それを偶然のふりして助けてあげたのに、お礼も言わずに先に降りてっちゃったって」

 それは沙緒美の事だよ!

 そう言いたいのに、ちゃんと説明したいのに、花奈子の口からは何一つ言葉が出てこなかった。キリちゃんはじっと前を向いたまま、黙って花奈子の答えを待っている。ブラウスの襟に結ばれた、緑のボウタイが風に揺れる。

「違うよ」

 ようやく、本当に小さな声で、花奈子はそう答えた。

「昨日、拓夢の病院に行ったから電車には乗ったけど、そんな事、なかった」

「だよね!」

 キリちゃんは駄目押しするようにそう言って、なんだか泣きそうな笑顔で花奈子を見た。

「沙緒美って時々変な事言うからさ、これもきっとそうなんだって」

「…でも、それ、みんなに言ってるの?」

「言ってないと思うよ。私はたまたま聞いただけだし。さ、もう帰ろっか。ユニショップで夕張メロンパフェ食べようよ」

 その、キリちゃんのやけに元気な感じが、却って花奈子の心を重くした。たぶん、知らずにいたのは自分だけで、この嫌な噂は皆に、女子だけじゃなくて、男子にも伝わっているに違いない。

「夏休み四十日もあるしさあ、変な噂だってみんなすぐ忘れちゃうよね」

 キリちゃんの優しい言葉は聞こえはしたけれど、花奈子は頭から泥をかけられたような気持ちで、茫然としていた。




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