東京都人並区
双峰祥子
第1話 雨と開かないドア
いつまで降るんだろう。
夕暮れ時から降り始めた雨は、次第に激しくなっていく。普段はめったに見ない天気予報にテレビのチャンネルを合わせてみたけれど、ところにより大雨のおそれ、ぐらいしか判らない。
電子レンジで温めた冷凍のグラタンと、昨日の残りの野菜炒め、冷凍の食パン一枚。
もう中三だし、一人で食事するのなんて慣れているはずなのに、こんな日はやっぱり誰かいてほしいと思ったりする。お父さんは予備校で教えているから、いつも帰りは十一時を回る。
でも、本当の事を言えば花奈子はこの家にたった一人というわけじゃない。二階の突き当たりの部屋に、お兄ちゃんの
冷蔵庫の食べ物が減っていたり、ごみ箱にコンビニの袋が捨ててあったり、シャワーやトイレに行ってる気配はあるけれど、その姿を見た事はない。
お兄ちゃんがどういう理由で部屋から出ないのか、花奈子には判らない。それなりに問題かもしれないけれど、家族にはもっと大きな問題がある。弟の拓夢だ。
拓夢はまだ四つなのに、重い病気でずっと入退院の繰り返し。花奈子たちとかなり年が離れているのは、幸江ママがいわゆる「継母」だからだ。
花奈子を生んだお母さんは、花奈子が拓夢より小さい頃に病気で亡くなった。そして四年生の時に、お父さんは幸江ママと再婚したのだ。それからすぐに拓夢が生まれて、家族五人で普通に暮らしていたのに、拓夢が病気になった頃から、何もかもぎくしゃくしている。
幸江ママは拓夢につきっきりで、お父さんも付き添いの時間を増やすために、高校の先生を辞めた。そしてお兄ちゃんは部屋にこもったまま。
とはいえ、花奈子はもう中三だし、身の回りの事は一通り自分でできる。料理だって今みたいにテストじゃなければ、カレーやスパゲティぐらい作れるし、手抜きだけれど掃除もする。
一人の食事は本当にあっという間に終わってしまう。
だからあんまり、時間をかけて準備する気になれないのだ。流しに食器を下げて、冷蔵庫のドアに入れていた野菜ジュースのペットボトルを出す。どうもお兄ちゃんが飲んだらしくて、朝よりずっと減っていた。
「んもう、自分で買ってくればいいのに」
つい文句を言って、ボトルから直接、残った分を全部飲む。
雨はどんどん勢いを増し、時おり台所のガラスに、まるで砂粒でも投げつけたような激しい音をたててぶつかってくる。一瞬、明かりが瞬いたような感じがして、それからしばらくすると、低い、地を這うような雷鳴が長く轟いた。
「うっわ!雷!やばい!」
雨はともかく、雷は大嫌い、というか本当に怖い。花奈子は部屋に戻ってベッドに避難しようと、大急ぎで食器を洗い始めた。そこへ居間の電話が鳴る。
「え!どうしよう!」受話器をとったらいきなり感電とかするんじゃないかな、と思うけれど、ディスプレイには「お父さん」とあるから、出ないわけにいかない。
「えーと、もしもし?」と、異様に早口で電話に出る。
「そっちは雨はどうだ?こっちはひどくて、学生が帰れないんだ。近頃はやりの、ゲリラ豪雨って奴だな。学生全員を家の人が迎えに来てから帰るから、お父さんはかなり遅くなると思う」
「そうなの?」
「まあ、それ位の時間には雨も峠を越えてるだろうが、問題は水が引くかどうかだな。三津川の様子次第だけれど、最悪、こっちに泊まることになるかもしれない。うちの辺まで水は来ないと思うけれど、とにかくずっと二階にいなさい。お父さんから
「わ、わかった。まあ、こっちは大丈夫だよ」
そう言って強がってみたものの、受話器を置いた途端に何だか不安になる。何より、お父さんの真剣な感じが、この雨は普通じゃないと物語っていたからだ。とにかく急いで二階に上がろうと、洗い物を終わらせたところへまた電話が鳴った。
「どう?花奈子、雷、怖いだろ?びびってる?」
やたら能天気な寛ちゃんの声。とたんに花奈子は何か反発したくなって「びびるわけないじゃん!」と言い返した。
「あっそ。だったらいいけど。お父さん何だか心配しちゃってたから、今から迎えに行こうかと思ったりして」
「大丈夫だよ。そんな事したら、寛ちゃんの方が途中で遭難するんじゃない?」
「そうなんです、なんつって」
自分のオヤジギャグに自分でうけて喜んでいる、寛ちゃんは亡くなったお母さんの弟だ。三十代だけど結婚する気配もなくて、ばあちゃんと二人暮らしをしている。
「まあとにかく、何かあったら電話してきなよ。それにさあ、こないだ新しいぬいぐるみ買ったんだよ。ダイオウグソクムシ、超リアル」
「それはちょっと見たいな。また土曜日に行くよ」
「来て来て。じゃあねえ」
全く、同じ男の人でも、お父さんに比べて弾け過ぎだけど、お母さんが生きていたら、こんな感じなんだろうかと思ったりもする。
「もう、邪魔ばっかり入るんだから」
ようやく洗い物を済ませ、二階の自分の部屋に行く。外の雨音は台所にいた時よりも更に激しいように思えた。風が逆なのか、こちらに雨は吹き込んでいないようなので、花奈子は思い切って窓を開けてみた。
湿った生暖かい空気と、水の匂いが押し寄せてきて、それと同時に空ぜんたいが薄紫に光った。
「わ!」
悲鳴を上げるのと同時に、雷鳴が天を渡ってゆく。一瞬の明かりに照らされた、普段見慣れた窓の外の景色は、叩きつけるような雨と、風に巻き上げられたしぶきの中で白く霞んで見えた。
再び闇に戻ったのもつかの間、鉛色の空を引き裂くように青白い稲妻が駆け抜け、後を追うように雷鳴が炸裂する。花奈子は慌てて窓を閉め、カーテンを引くとベッドに飛び込んだ。
雷鳴はひっきりなしに四方八方から吼えかかり、激しい風のせいか、家のあちこちがみしみしと音をたてた。その時になって花奈子は、自分の携帯を台所に置き忘れてきた事に気がついた。あれがなくては、いざという時に助けを求めることができない。
仕方なくベッドから出て、それでもやっぱり怖いのでタオルケットを身体に巻きつけて廊下に出る。その短い間にも雷は頭上で荒れ狂い、その度に身をすくめて立ち止まるので、台所までかなりの時間がかかった。
携帯を手にして、それからまた二階へと戻るのに、ふと戸締りが気になる。大丈夫だよね、と思いながら廊下の明かりをつけた途端、花奈子は立ちすくんでしまった。
ドアの下から濁った水が流れ込み、サンダルがぷかぷかと浮いている。水かさはまだほんの数センチだったけれど、この雨の勢いでは床上まで流れ込むのは時間の問題だと思えた。
「嫌だ、どうしよう。どうしよう」
気がつくと膝が、いや、全身が震えていた。花奈子は階段を駆け上り、ベッドにへたり込むと携帯を握りしめた。お父さんの声を聞きたいけれど、今いちばん近くにいるのは寛ちゃんだ。落ち着けと、自分に言い聞かせて発信すると、寛ちゃんはすぐに電話に出た。
「ほら、やっぱり怖くなったんだ」と、相変わらず能天気。
「違うってば、水!玄関に水が入ってきたの!」
「花奈子、今、家のどこにいる?」
寛ちゃんの声は急に低くなって、何だかそれはお父さんの声を思い出させた。
「二階の、自分の部屋」
「絶対に下に降りるな。とにかく二階でもベッドの上とか、机の上とか、高い場所にいるんだ。もし三津川から水がきてるとしても、その辺なら二階までは浸水しないはずだから、落ち着くんだ」
「わ、わかった」
「でももし二階まで水が来たら、天袋に上がるんだ。そこから天窓を開けて屋根に逃げろ。廊下に入口があるだろ?」
「私ひとりじゃ開けられないよ。」
「大丈夫、できるから、それに…孝之がいるだろ?あいつはどうしてる?」
「わかんない」
「わかんない、じゃないよ。緊急事態なんだから、二人で力を合わせないと。花奈子、この電話、孝之に替わって」
「え~?」と情けない声をあげながら、花奈子は渋々廊下に出た。自分はお兄ちゃんに叩かれたりはしてないけど、お父さんにすごい勢いで怒鳴って、壁なんか蹴ったりしていた事もあるから、怖いのだ。
「うーん、と、お、お兄ちゃん?」
ずいぶん長いこと直接話しかけていないので、この呼び方でよかったのか、あやふやだ。その間にも雷は空を暴れ回っている。
「寛ちゃんから電話だよ。雨すごいから、ちょっと替わってって」
そう言いながら、花奈子はドアを軽くノックしてみた。それを嘲笑うように、また雷が吠える。
「ねえ、入るけど、怒らないでね」
返事はないけれど、話をしないわけにいかないので、花奈子はドアノブに手をかけた。ゆっくりと内側に押すと、鍵はかかっていなくて、すんなりと開いた。しかし中は真っ暗で、稲妻に合わせて時々ほんのり明るくなってはまた闇に沈む。まさかお兄ちゃんはこの大雨の中、眠っているんだろうか。
「電気、つけていい?」と言いながら、花奈子の指はもう、壁にある明かりのスイッチを押していた。正直、散らかってると想像していた部屋はすっきりと片付いていて、花奈子の部屋よりもきれいなほどだった。勉強机、パソコン、本棚、ベッド。でも、肝心の人がいない。
「お兄…ちゃん?」
もしかして、自分がいきなり入ってきたから、クローゼットに隠れたんじゃないかと考えながら、花奈子は二歩、三歩と進んだ。その時、部屋が真っ暗になった。そしてひときわ大きな雷鳴が轟いたかと思うと、まるで地震のように家全体が激しく揺れ動いた。
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