5-23 海神ダゴン その4

 月のない夜空は星の輝きが美しければ美しいほど果てのない落下感に襲われる。凪の海にひとり浮かぶ小舟は水面みなもを彩る星々のヴェールに包まれて、かろうじて宇宙に投げだされるのを耐えているようであった。

 この世界が偽りで、あの白銀の星屑のひとつひとつが幻想であるならば、自分のなかにある魔石という幻想もやがて打ち砕かれて、いっしょに底なしのそらへと吸いこまれてしまうのではないかという恐怖。キリヒトは寝転んでいた船底から身を起こすと、悪夢と戦慄を振り払うようにわざとおどけた調子で両手をおおきくひろげた。


「あーあ、結局、一からやり直しじゃないか。あれだけ苦労して準備したのにさ。

 聞いてる? 先生が遊びすぎたせいだよ。勇者なんて不死身の化物なんだからさ、適当に遊んだ後はうっちゃって、深きものを全部軍船に積みこんで出航しちゃえばよかったんだよ。それからゲリラ的に街の人間をさらってさ、生贄でもなんでも数をそろえてダゴンを完全な状態で目覚めさせてたら、いまごろ竜宮城も余裕で陥落させられてたんじゃないの?」


 さざなみが白い泡を小舟に擦りつけて行き過ぎていく。手漕ぎボート程度のおおきさしかない小舟が岸から離れた外洋に浮かぶ姿は、異界で寄る辺なくさまよう自分自身そのものではないか、とキリヒトは自重気味に唇の端を吊りあげた。


「いいじゃないですか、どちらに転ぼうとも。何度も言ってますが、結果ではなく過程が重要なのですよ。定められたシナリオから逸脱する。それがこの完璧で退屈な世界にきずをつける唯一の方法なのですから」


 炎のように燃えたつ短髪を揺らして、ザザ・フェンリルが振りかえった。重力を無視したかのように細い舳先につまさき立ち、マリオネットを操る人形遣いのごとく高く掲げた両腕の指先をせわしなく動かしつづけている。


「僕はこの世界の法則をぶち壊して、戦略ゲームをやりたかったんだよ。せっかく初めての領地を獲得できるとおもったのにさ。ほとんどの手駒がやられちゃって。ホント、魔物の増殖て、地味に肉体労働なんだから」

「キリヒトの苦労は理解しているつもりですよ。だから、次は魔力供給の抜本的な解決を図ろうと、ん? かかった!」


 当たりを引いた釣り師のようにザザが両手を一挙に後ろに振りかぶった。

 パシャッ、と音をたてて飛沫が舞い散り、「深きもの」の魚人顔が星空を映した海面を破ってあらわれる。


「神サマ……見ツケタ」


 元は人間だったものがたどたどしく言葉をつむぐ姿は哀れだ、とキリヒトは顔をそむけた。自分も同じ魔物であるという事実が忌々しい。

 魔物の中にはホネタのように愛着を感じる例外もいるが、たいがいは外観から生理的な嫌悪に結びつきやすい。それでも勇者一行に対する苛立ちよりはマシで、自分の軍隊の一員ともなれば道具としての利便性にいちおう感謝の念らしきものは湧く。


「おお! よくやりました。えらいですよ。約束どおり海神ダゴンの聖魔結晶を捜しあてたあなたには特別に魔力を注入してあげましょう。運よく進化できれば、深きものを統べる族長になることもできるかもしれません」

「オレ、泳グノ一番速イ。族長、俺」


 小舟の横まで立ち泳ぎで近づいてきた深きものが宝玉をうやうやしく差しだした。ザザは軽業師のような柔軟さで腰から体躯を直角に折り曲げると、青い聖魔結晶をすくいとり、すっと背筋を伸ばして天上の星明かりにかざす。

 キラキラと輝く聖魔結晶の美しさに、キリヒトもおもわず見惚れてしまう。わずかな星の明かりにも深い群青の奥底から白い星彩が鮮やかに浮きあがり、宝玉はまだ命を宿しているかのように神秘的な蒼と藍の鼓動を振りまいた。


「カオスドラゴンは血が滴るような深紅のルビーでしたが、ダゴンは深い海を連想させる群青のスターサファイアですね。四悪の残り2つがどんな輝きをもっているのか興味が尽きません」


 こぶしほどもある聖魔結晶を自身のアイテムボックスに収納すると、ザザはまだ陶然としているキリヒトに視線を落とした。


「計画はままならないものですよ。たとえ私が勇者を見逃していたとしても、ナイラ・ベルゼブルが素直に私たちの命令に従ったとはおもえませんね。人を魔物に変えても自我が残っていれば制御することは難しい。すでにプタマラーザで学んだことでしょう?」

「ああ、そうだよ。だから、今回は1個体じゃなくて、騎士団まるごと魔物化することにしたんじゃないか。トップだけ引きこんでも、組織から切り離されたらそこでおしまいだからな。

 あー、クソ! うまく誘導できたとおもったんだけどなー。ここがゲーム世界なら『忠誠心』とかステータス画面に表示されてもいいのにさ。他人の心理を読むなんて僕には遺伝的に無理ゲーだよ」


 前の世界の記憶が頭の奥底からにじみだしてきて、キリヒトは船縁を叩いた。非力な自分がそんなことをしても手が痛いだけなのに。

 ザザは酷薄な笑みを顔に貼りつけて、悪魔のようにささやきかけた。


「この世界ではあなたは完全に自由です。何を壊し、誰を殺そうとも、魔人であるあなたを罰するのはさらなる暴力でしかない。何を為して、何も為さなくとも、私はあなたを受け入れます。あなたは存在するだけで価値があるのですから」


 キリヒトが紅い瞳で見上げると、ザザは見えざるはてを見はるかすように星空の先をながめた。


「二人目の勇者というきずがこの世界の亀裂を深めていく。過程を愉しみましょう、キリヒト。時間はまだ十分に残されているのですから」


 海面に浮かびあがってきた半魚人たちの鱗のついた手に押されて、小舟が静寂しじまの海を滑っていく。星々が天上にも海面にも輝き、合わせ鏡が織りなす万華鏡のように美しい無間地獄がどこまでも続いていた。



 ◇



 グランイマジニカではついぞ見かけたことのない奇妙なフード付きの上着を羽織り、同じ素材のゆったりとしたズボンを履いた旅人が蒼白な顔に恐怖をたたえて、長身の男を見上げていた。


「こっち、来るな」

「私は味方ですよ? 助けてあげたでしょう? いま」


 炎のように燃えたつ赤い短髪を掻いて、男が苦笑を浮かべる。


「ひ、ひと、人殺し」


 腰が抜けて力のはいらない足を引きずって、わずか数センチずつだが、田んぼのあぜ道の土を掻いてにじりさがる。スウェットのズボンが泥と自分の小便にまみれてぐちゃぐちゃになっているが、なにもかもが混乱したままの頭では現状把握すらおぼつかない。

 丸眼鏡の奥の紅い眼がすうっと細くなり、いましがた胸に穴をあけたばかりの兵士の死体を旅人のすぐ隣りに投げ捨てた。鈍色の兜がはずれて田んぼに埋もれ、裏返った眼球がフードの中をのぞきこむ。

 旅人が鋭く悲鳴をあげて、


「ぼ、僕は、じゃなかった、わたしはこんなこと望んでない、ですから」

「私が割ってはいらなければ、あなたは射殺されていましたよ」

「ぼ、わたしは何も悪いことしてないから、きっとなにかの間違いで」

「魔物は人間ノーマの敵です。特に今は魔王軍と聖王軍の戦争の最中ですから、街の近くで魔物を見かけたら、矢くらい射かけるでしょうよ」


 フードをかぶったまま、旅人はおろおろと泥にまみれた自分の手をながめた。


「僕が魔物?」

「そうですよ。魔物の中でも特に忌避される『魔人』と呼ばれる存在です。紅い瞳は魔人の特徴ですから、人にまぎれるなら目を隠す必要があります」

「で、でも、鏡なんて持ってないから、そんなの、僕、気づかないし」

「自覚症状がないということは『魔人』に堕ちたばかりということでしょうか。胸に手をあててごらんなさい。もう鼓動が聞こえないから。魔物はすべからく体内に宿した魔石が魔力を循環させることで動いているのです」


 ニヤニヤ笑いを浮かべる目の前の男の言葉に、急に胸が苦しくなって、スウェットシャツの胸もとを押さえつけた。鼓動。鼓動が聞こえない。そんなはずがないと過呼吸になりそうなのを抑えて、もっときつく手を胸に押しつけても「ドクン、ドクン」という見知ったリズムをとらえることができず、代わりに電子モーターのような「ジジー」という無機質な低音だけが響いてきた。


「あとは、そうですね、王都や主要な街道には魔物除けのラペラントという魔法がかかっていますから、嫌でも自分が魔物であることを意識させられますよ」


 新米魔人は混乱したままの頭で、だから街に入ろうとしただけでスタンガンを浴びせられたような痛みがはしったのかとようやく理解した。


「異世界転移したんだ、て喜んだのに。魔物かよ。僕にはあつらえむきかもしれないけど。腐ってんな、あっちも、こっちも」


 ぶつぶつと悪態をつきながらうなだれる新米魔人に近寄ると、赤髪の男が右手を差しだした。


「私の名前はザザ・フェンリル。火属性の魔法を得意とするせいか煉獄れんごくの魔人と呼ぶものもいます。いやあ、私の研究ノートにない波長の魔力を見つけたので調査に来てみたら、大正解でしたね。まさか私と同じ魔人とは」

「えーと、僕、いや、わたしはまだ心の準備ができていなくて」


 しばらく逡巡したものの、「目の前の不気味な男から逃げる」という選択肢をとる勇気もなく、しかたなく手をつかんだ。


「私たちは同志です。これからいっしょにがんばりましょう」


 おもいがけない力強さで引きあげられ、同時に手から伝わってくる奇妙な波動が全身を駆けめぐり、冷えた身体の奥底からぬくもりが湧きあがってくる。なぜか空腹感まで癒されてしまって、自然と安堵の吐息がこぼれた。

 ザザ・フェンリルの口がおおきく左右に裂けて、獰猛な笑みを浮かべる。


「魔力が枯渇しかかっていたので、私の魔力をすこし分け与えました」

「魔力?」

「おや、そこからですか。そうですね、異世界転移とつぶやいていましたから、もしかして異界から渡ってきた口ですか。いいでしょう。そういうことであれば、このグランイマジニカについて私の知り得るかぎりのことを教えましょう。まずは魔力についてですが」


 学者のように滔々と語りはじめるザザ。魔力と魔物の関係、魔力と魔法の仕組み、理路整然とこの世界のことわりを解き明かしていく。たとえ話やジョークを交えた講義は心地よく耳に馴染み、隣りにまだ兵士の死体が転がったままだというのに昼前ののどかな陽気に当てられて、新米魔人の不安と焦燥は幻覚に魅せられているかのように和らいでいった。


「――と、まあ、ざっとこんなところです。魔物の生態や魔法の属性については別途解説することにして、重要なことをまだ聞いていませんでしたね。そう、あなたの名前を」


 自分がまだ名乗っていないことに気づいて赤面し、たどたどしく答える。


「あ、あの、きり 仁美ひとみです。植物の桐に、仁義の仁に美しいと書いて。いや、ぼ、わたしは美しくはないから、この名前が好きじゃなくて」

「キリヒト・ミですか。変わった名前ですね。異界では普通なのでしょうか。では、私はこれから親愛をこめて『キリヒト』と呼ばせてもらいましょう」

「い、いえ、そうじゃなくて、苗字が桐で、名前が仁美」

「だから、キリヒト・ミでしょ? ミというのは言いにくいから、やはり、キリヒトのほうがいいですよね」


 何度も訂正したものの、わざとやっているのかザザは頑なに「キリヒト・ミ」の綴りでしか理解しようとしなかった。

 キリヒトはおおきくため息をついて、


「もうキリヒトでいいよ。僕も『正しい言葉遣い』てやつがずっと苦手でさ、女だから『わたし』を使いなさいとか、もういいよね? そういうの」

「ええ。あなたは唯一無二の異界から来た魔人、キリヒトですから。誰かに合わせる必要も、こうあらねばならないという指標もありません。ここでは完全に自由です」

「僕が自由?」


 ザザの言葉に、キリヒトは生まれて初めて、本当の自分を肯定されたような気がした。人間であったときには、ついに得ることができなかった精神の自由。

 心臓の代わりとなった魔石が熱く冷たく確かに身体の中心にあって、魔力という新しい血流を全身へと巡らせていく。青い魔力が白い肌に浮きあがり、いままでの桐仁美という「普通の女の子」のお仕着せの窮屈な檻を壊していく。

 魔人。いいじゃないか。悪役ならば悪役らしく、自分を魔物として敵視するこの世界の善玉をすべて打ち砕いてやる。元の世界でずっと抱いていた破壊衝動をもう隠すことなく振るうことができる。


「良い顔になりましたね。では、魔力の基礎理論は先ほど説明しましたから、ここからは実践といきましょう。理論と実践の両輪が知識を深めるためには重要ですから。

 いいですか、まずはそこの人間の死体から魔力を吸いあげ、魔物を増殖させる実験からはじめましょう。この近くであれば、やはりスライムですかね。F級の獣魔ですから手始めにはもってこいです」


 二人の魔人、ザザとキリヒトが運命の邂逅を果たしたその日、リンカーン王都の西の城門の先にひろがる田園地帯では大量のスライムが発生したものの、結成したばかりの勇者カガトのパーティーによって掃討された。

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