5-19 深きもの その5

 すこしだけ時間を巻きもどし、グノスン師匠とナイラ・ベルゼブルとの激闘の続きから。師匠の必殺技「発勁はっけい弧龍こりゅう伏臥ふくが」でもナイラに致命傷を与えることができず両者睨みあいのまま、ちょうど俺が称号を「性愛の神エロース」へと切り替え、レベルアップのためにネネのあられもない姿に全神経を集中させていた時間だ。

 セシアが際限なく増えつづける深きものたちに飛燕マサムネと炎帝マサムネの二刀流で斬撃を浴びせつづけ、精神の高揚、すなわちSPゲージ満タンを自覚したところで、


「秘技! ほむら一閃!」


 グノスン師匠に注意を向けていたナイラ・ベルゼブルのぶよぶよとした脇腹にあざやかな逆袈裟ぎゃくけさを刻みつけた。傷口がひらき、血飛沫が毒霧となって噴きだす寸前で、刀の軌跡を追って這いあがる紅蓮の炎によって分厚い皮膚が熔かされ、出血が止められてしまう。海藻を焼いたような強烈な磯の腐臭と共に、ナイラが地団駄を踏み鳴らした。


「き、貴様! 高貴なる私の肌に醜い火傷痕を残すとは。万死に値する暴挙!」


 巨体を傾けて、倒れている深きものから戦斧をすくいあげると、剛腕をうならせて横薙ぎにセシアに叩きつける。太い指に握られた戦斧は一見オモチャのようなサイズ感だが、体重をのせた一撃は封魔の盾ごとセシアの身体をはじきとばした。

 倉庫の壁にしたたかに背中を打ちつけたセシアが苦悶の表情を浮かべてヨロヨロと立ちあがる。


「おい! ナイラ! 兵を損耗しすぎだ! こいつらは余興だからな。本番はこのアザミを掌握してから、人魚たちの竜宮城を殲滅することだろ。忘れるなよ!

 大陸の東端から点と点を結んで面をつくり、確実に版図をひろげて、聖王でも魔王でもない領土をつくりだすんだからな!」


 路地から出たところで、大勢の深きものたちに護衛されながらキリヒトが叫んでいる。ナイラはグノスン師匠の連打を腹に浴びながらも、けたたましく笑った。


「ブギョギョギョギョ!! 卑賎の身で私に命令するとは片腹痛い。私は王だ! 正統なる人間ノーマの王。おまえたちは私を扶翼する臣下でしかないのだ。分をわきまえよ! 下郎が」


 チッと舌打ちしてキリヒトが毒づく。


「魔物に堕としても、人格が残ってたらぜんぜん言うこと聞かねーし。先生は遊んでるだけだし。僕がいくら戦略を描いても、これって無理ゲーなんじゃね?」


 グノスン師匠の渾身の掌底が三段あごに突きささり、ナイラが「グゲボ!」とのけぞりながら青い血と唾液をまき散らす。すると、グノスン師匠の顔が蒼ざめ、口から血を吐きながら後ずさった。


「ギリびトぉ! べいのことは心配するでない! ヴぉまえたちが『スキルの種』をもっと私によこせば、アザミの街からいくらでも兵を徴収して、精鋭に生まれ変わらせることができるではないか」


 歪んだあごを片手ではめなおし、ナイラが巨体の高みからキリヒトを睥睨へいげいした。


「ケッ、簡単に言ってくれるよ。これだけの聖魔結晶を用意するのに僕たちがどれだけ手間をかけたとおもってるんだが」


 つぶやくキリヒトの言葉に、ナイラはまるい魚の眼球をギョロリと蠢かし、


「ああ!? よく聞こえんな! 我がナイトクラーケンは1000人。人魚マーメイドどもの巣穴、竜宮城を攻め落とすには1万は必要だ。偽りの聖王ウルス・ペンドラゴンに引導をわたすためには5万。もっともっとスキルの種を出せ!」

「ああ、かったりィ。F級の魔物なら人間ひとり分の魔力で10体、E級なら5体、D級なら2体。言っとくけど、深きものはD級だからな。人間ひとり殺しても2体分しか増やせやしない。5万体も用意しようとしたら、2万5千人を血祭にあげないといけない計算だからな。僕、そんな重労働、ごめんだから。

 それより、さっさとダゴンをびだせよ。海神がいれば、人魚も竜宮城も一飲みだろ?」

海神わだつみ様を気安く語るでないわ! 下賤のものめ!」


 ナイラはわきにはさんだままであったスクルドを地面に据えると、ボエエエ、と口から大量のヘドロを吐きかけた。足から腰のあたりまで積みあがった褐色の泥は、すぐに灰色に乾いて石のような色合いとなる。


「な、なにするんや! これ、く、臭! オエエエ!!」

「ブギョギョギョギョ!! 我が胃液で練った泥はすぐに硬化する。おまえはそこで父親の四肢がもぎとられる様を見ているのだな。すぐに祭壇でハラワタを引きずりだし、海神わだつみ様の生け贄第1号としてくれよう」

「ひとの娘に汚いものかけるんじゃねえよ!」


 グノスン師匠の正拳突きはナイラの腹の肉にめりこみ、さらにズボズボと入りこんでいく。ナイラは余裕の表情で戦斧をおおきく振りかぶり、頭上から師匠に叩きつけた。残った左の拳で斧の側面を叩き、軌道をそらせることに成功したものの、ナイラの長い舌が縦横無尽に師匠の顔を殴りつける。


「先ほどまでのキレが無いなあ。身体強化の魔法の効果が切れたのか? 素の状態ではずいぶんと弱いではないか」

「あいにくと、わしは勇者と違って一介の修道士だからな。そんな無茶な成長の仕方はできねえのさ」


 口にたまった血をペッと吐き捨てると、師匠は右腕をとられたままの状態で器用に回し蹴りを放つ。そして足の打撃の反動で腕を引きぬくと、そのままバク転で距離をとった。


「だけどよ、親だからな。責任てぇもんがある。わしは心底惚れぬいたブリュンヒルデとの間に7人の娘を得た。孤児でどうしようもない悪ガキだったわしには、これ以上望めないくらいの出来すぎた家族だ。目の前でその大事なもんを奪われるくらいなら、この命をいくら懸けたって惜しくはねえよ」

「ブギョギョギョギョ!! 小者がずいぶんとイキがりおって。だが、わしの超回復の前では、おまえの打撃など無力。もう悟っただろう? それとも、娘の腹が裂かれるのが見たくないから、先に死なせてほしいということか?

 ならば、慈悲深き王が望みを叶えてやろうではないか!」


 ナイラが手にもった戦斧に、ボエエエと口からヘドロを吐きかける。すると、ヘドロが斧を腕ごと覆いつくし、すぐさま硬化して元の数倍の巨大な石斧が形づくられた。いびつながらも禍々しく、圧倒的な重量ゆえの威圧感をまとわせた凶器。


「私は生まれながらに人の上に立つことを宿命づけられた存在なのだ! 龍王ウルス・ペンドラゴンの力による統治はここに終焉を迎え、新たなる人間ノーマの王ナイラ・ベルゼブルによる新世界、古びた呪縛『聖円の盟約』から解き放たれた真の千年王国がひらかれる!

 七族共和のくびきから脱した私に、もはや四大精霊の加護も呪いも不要。『父なるダゴン』の導きによって、聖王も魔王も、七族も魔物もすべてを平らげ、私がこの世界で最初の統一王となるのだ!」

 

 轟音をたてて、刃渡りが大人の背丈ほどもある石斧が大地を割る。白砂の大通りが陥没し、爆風のような砂ぼこりが周囲にひろがった。


「どうだ! ぺしゃんこになったか!」


 砂塵がおさまり視界がひらけると、最初からその場所にいたという自然体でグノスン師匠が静かに目を閉じていた。石柱のような巨斧はすぐ横に突きたっている。師匠は両腋を締め、拳を腹の前に構えると、低い声で唱えた。


「我、下天の放浪者たるグノスン・グレイホースは、全知無能のアーカイヴに問う。

 我が鼓動は定命の時を刻み、彼岸に至るまで血潮を運ぶ。

 我、ここに万雷の太鼓を打ち鳴らし、千の時を刹那せつな収斂しゅうれんすることかなうか。

 我が身を疾風迅雷と化せ! アクセル!」

「無駄だ! おまえの攻撃は私には通じない!」


 ナイラが斧を引きぬき、再び頭上高くにかかげた。巨大な斧の影がグノスン師匠を呑みこむなか、同じ姿勢のまま同じ詠唱を繰りかえす。


「――我が身を疾風迅雷と化せ! アクセル!」

「バカが! 何度やろうとも――」


 斧がまさに降りおろされようとした瞬間、カッと目を見開いた師匠の姿が掻き消えて、ほとんど同時にナイラの巨体が奇妙な形に折れ曲がった。

 

「ブギョバ!?」


 横に「く」の字になったナイラに、グノスン師匠の拳の乱打が突きささる。ほとんど目で追うことのできない流星のごとき無数の拳。しだいに脂肪が波打ち、ナイラの大木のような足までが宙に浮きあがった。そこへとどめの強烈な回し蹴り。はじきとばされてまりのようにはずむナイラに瞬時に追いつき、逆方向から追い討ちの蹴りの連打を叩きこむ。

 蝦蟇がまがえるのようであったナイラの巨体が左右からの猛攻でひょうたんのように変形している。だが、グノスン師匠の手が止まると、脂肪に埋もれたナイラの顔が怒りに青く染まり、五段腹を揺すりあげて自らの皮膚を両手の爪で掻き切った。青い血が滴り、あたりに毒霧が立ちこめる。


「無駄だ! なぜ、わからん! 貴様ごときの攻撃、すぐに癒えるというのに! だが、痛い! 痛いのだ! バカものが! 下賤の輩が私に痛みを与えるなど万死に値する! 死ぬ! 早く死ね!」


 駆け寄ってきたセシアがスクルドを抱きしめた。毒霧を吸いこまないよう取りだしたタオルを口もとにあてがう。

 グノスン師匠は風をまとってナイラの周囲をぐるぐると回転し、毒霧を吹き散らした。口もとからは血が垂れているが、拭うこともなく三度みたび「アクセル」の詠唱を開始する。


「グノスンどの! 無茶です! アクセルの重ねがけなど、2回でも負荷が過大で禁じられているのです。ましてや、3回など身体がもつわけがありません! 全身の骨が折れ、心臓が破裂しますよ!」

「心配してもらって悪いな。けど、わしは半竜人ハーフドラグーンだからな。人間ノーマよりも頑丈なんだわ。これだけがわしの唯一の取柄かもしれねえがな」


 アクセルが発動し、さらに速度を増して姿の見えなくなった師匠がどこからともなく言葉を投げかける。もはやそこだけが暴風域のように、ナイラの巨体が四方八方から浴びせられる不可避の拳打によって不自然に跳ねまわっている。


「グゲボぁ!! ぶ、無駄ぶだだ!! この皮膚に貯めこんだ脂肪は古今東西の美食のたまもの。そこらへんの脂肪とは弾力性も柔軟性も高貴さも違うのだ! 魔物の超回復スキルまで取りこんだ私に致命傷を与えることはもはや不可能!!」


 顔を変形させながらも、ナイラが哄笑する。

 グノスン師匠は毒霧を浴びて血を吐きながらも「我、下天の放浪者たるグノスン・グレイホースは――」と4度目の呪文を口にした。


「グノスンどの!! それ以上は命が!!」

「聖王の犬どもめ! この街も、領民も、富も、すべて父祖から引き継いだベルゼブル家のものだ! 私から何も奪わせぬ! 魔王の侵攻などとたばかりおって! 偽りの王め! 私こそが勇者リクの血を引く、正統なる支配者なのだ!」


 もはや、赤く、青く、混ざりあった血飛沫しか見えない。音すらも超えて、グノスン師匠は自らの速度によって烈風に肌を切り刻まれながらも、ナイラの脂肪を削ぎ落としていく。洗濯機に放りこまれたぬいぐるみのように勝手に跳ねまわり、どこが手でどこが足かもわからないほどに変形した醜い肉塊。けれど、声だけは響き、


「ヴ、ぶおのれ、げ、下賤の血が!」


 空気を吸引する音が間断なく続き、肉の塊がおおきく膨らんでいく。


「ごうなれば、私が体内に貯めごんだ毒をずべで吐きだし、ヴぁたり一面を毒霧に包みごんでぐれるわ!!」

「うわ! バカ、やめろ! 僕まで巻きこむつもりかよ! 先生は……勇者との遊びに夢中だし、最悪だ!」


 スケルトンウルフにまたがったキリヒトが深きものたちを引きつれて薄暗い路地へと逃げこみ、セシアとスクルドは互いにキュアポイズンをかけあっている。

 すでに2倍くらいに膨らみ、自力で動くこともできない風船と化したナイラ・ベルゼブルの前に、グノスン師匠が姿をあらわした。全身から熱気が立ちのぼり、目から鼻から全身から流れでる赤い血が蒸発して真っ赤なオーラをまとっているようであった。山伏のような白装束もすでに血染めの衣装と化している。

 流れるような所作で、まるい肉塊に両手を押しあて、


発勁はっけい弧龍こりゅう伏臥ふくが!」


 巨大な肉が震えて、顔があるとおぼしき場所から青い血が噴きだした。

 師匠の腕がいつのまにか6本に増えて、師匠自身も8体の残像となって八方から肉塊に拳を叩きこむ。48本の腕による怒涛の乱舞。正拳、掌底、貫手、肘打ち。あらゆる打撃が途切れることなく、48本の腕が連携して、ナイラも毒も打撃の網から逃さないように押しこめる。

 瞬時に溜まるSPゲージを反映して残像が次々に必殺技を叫び、そのたびに肉塊が内部から爆ぜるように青い血が飛び散った。


弧龍こりゅう潜泉せんせん!」

弧龍こりゅう砥礪しれい!」

弧龍こりゅう睨空げいくう!」

弧龍こりゅう掴立かくりゅう!」

弧龍こりゅう蹴水しゅうすい!」

弧龍こりゅう拡翼かくよく!」


 ナイラ・ベルゼブルであったものは、もはや生き物の形を成していない。ただの青黒い巨大な血と肉の塊。

 グノスン師匠の残像が最後のひとりに重なり、


弧龍こりゅう八極拳、最終奥義、弧龍こりゅう天翔てんしょう!!」


 全身のバネをつかったアッパーカットで肉塊を空高く打ちあげた。蓄積された発勁はっけいの衝撃波が肉塊の内部で跳ねまわり、ついに上空でバラバラに四散する。青い血の雨が降るなか、全身血だらけで立ちすくむ師匠。

 ザザ・フェンリルとの戦いに勝った俺が振りむくと、師匠はゆっくりとその場に崩れ落ちた。


「師匠!!」


 ようやくスクルドのヘドロを砕いたセシアが「ヒール」を、まだ自分で歩くこともできないスクルドが「キュアポイズン」を詠唱する。


「お父ちゃん! 死なんといて!!」

「……大声出すなよ……みっともねえ」


 弱々しく上げた手をひらひらと振ってみせる師匠。あのまま絶命してもおかしくない大量出血だが、どうやらまだ意識はあるらしい。けれど、さすがにそれ以上動くことはできず、セシアに助け起こされて大量の血を噴きだした。


「毒を吸いすぎています! このままでは危険です!」

「今度はうちが助ける番やからな。助け逃げはずるいで、お父ちゃん」


 両腕でほふく前進するように近づいてきたスクルドが懸命に「キュアポイズン」「ヒールオール」を続けざまに詠唱する。

 そのとき、すこし離れた場所に落下してきた肉塊から声がした。


「……ば、ばだ終ばらぬ。ばたしが、ぼうたる私がぼのまま朽ち果ててよいはずがない」


 首だけになったナイラがわずかに残った咽喉を牛蛙のように大きく大きく膨らませて絶叫した。


「――ダゴンよ!!!! 父なる神、ダゴンよ!!!! ここに汝の子たる深きものたちのハラワタを捧げる!!!! 我が高貴なる血も、我が魂もかてに世界を浄化せよ!!!! ダゴンよ!!! ダゴンよ!!!」

 

 頭を直接揺さぶられるような大音響。俺はおもわず剣を握る手をゆるめて耳をふさいだ。ナイラの声が埠頭の遥か彼方、海まで響きわたり、ひたひたと静かに、けれど徐々に激しさを増して海鳴りが跳ねかえってきた。

 ――ギイイィイイィイイィ、ゴオオォオオォオオォ――

 これを続けさせるとまずい。何か致命的な事態になる。心に警鐘が鳴り、俺は渾身の一撃をナイラの頭部に叩きこんだ。スイカ割りのように、青い血肉がバシャッと盛大に飛び散る。それでも、口だけになったナイラがゴボゴボと末期の呪いを吐きだした。


「ブギョ、ブギョ、ブギョギョギョ。ぼう手遅れだ。父だるダゴンは降臨じた。アザミは海べと沈む。貴様らもだ」


 そのままドロドロと溶けだし、青い血がひろがった地面におおきな魔石がゴロリと転がる。まだ数十体残っていた深きものたちは一斉に埠頭へと走り、海へとつながる入り江に飛びこんだ。

 軍船がいくつか係留された第一埠頭から海はわずかにしか臨めないが、地平の先、黄金に輝く波間に赤黒い島のようなものが浮上してくるのが目にはいった。まだ相当な距離があるはずだが、肉眼で視認できるほどの大きさ。鯨の比ではない。まさに「島」と呼ぶしかない何かが海に出現した。

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