7-2 魔神城陥落 その2

 魔王は玉座にひとり。広大な魔王の間には重厚なドーリア式石柱が立ちならび、天井は暗がりの中にかすむほど高く、重苦しい空気は凍てついたように動かない。

 背筋をピンと伸ばしたまま、白い仮面をかぶった魔王はじっと正面の深紅の扉を見すえている。玉座の背後にある縦長の楕円型の窓は3つそれぞれに別の夜空を映しだし、白、赤、青の異なる月が冷え冷えと冴えた光のすじを広間に落としていた。


「……まだ来ぬか」


 玉座の両脇に置かれた燭台に灯火はない。暗視のできる魔王にはそもそも不要なものだから、あくまでも外敵がたどりついたときの演出のためのもの。


「終わりはまだ、来ぬか」


 外界と隔絶された異界にひとり、魔王はまどろみのなかに夢を見る。



 ◇



 物心をついたときから身体のいたるところに見えない鎖がついていた。そのことに最初に気がついたのが3歳の夏。肌をつらぬきとおすような真っ白な太陽が照りつける昼中ひるなか、雨雲の去っていった蒼天にむかって「虹だ!」と駆けだす姉の揺れる黄金色こがねいろの髪を追いかけていたときだった。

 庭に生いしげる草木におかれた雨粒の残滓ざんしを跳ねあげ、転びそうになりながらも鉄の門扉にむかって駆けだしたとき。まだ内と外との境界もわからず、ただただ大好きな姉に置いていかれまいと懸命に短い脚を回転させて地を蹴って、開け放たれたままの鉄格子の扉を、これまでに幾度も「ここから先には決して出てはなりません」と教えさとされたはずの門扉を抜けて、街路樹の影が刻まれた石畳へと飛びだそうとしたときのこと。

 不意に鎖があらわれたのだ。白い木綿のワンピースの襟首をつかまれて、咽喉がギュッと締めあげられ、自分の口から悲鳴とも嗚咽ともつかないうめき声が漏れた。


「アリシア?」


 振りむいた姉の瞳には、あきらかな動揺が浮かんでいた。陽の光に透かした若葉のように萌えたつエメラルドグリーンの瞳。その美しい瞳に涙のしずくが静かにたたえられ、自分の背後の何者かを見つめて身をすくませていた。

 恐い。恐い。恐い。

 幼心にも、外に抜けだしてはならないという誓いを破った罪に対して、罰を与える番人が登場したのだと理解した。自分の首には犬の首輪のような鉄の鎖が巻かれているにちがいない。どうあがいても、ほどけぬ頑丈な鎖。恐ろしさのあまり目をつむったまま振り払おうとしたが、大木に縫いとめられたようにビクともしない。


「姉さまは悪くないの」


 もうダメだ。大好きな姉だけでも逃げられるよう、自ら進んで罰せられよう。

 意を決して振りあおぐと、いかめしい養父の顔があった。常日頃から笑みを見せない養父であったが、これほど真剣に唇を引き結んで自分をにらみつけている恐ろしい表情は見たことがなかった。誓約の番人が、養父の姿で現れたのではないかと考えたほどだ。

 だが、聖騎士でもある養父は動きを止めた小さな娘の襟首から手を離すと、すぐにいつもの寡黙な表情にもどり、庭の外に出ていた姉を招きよせて、畏縮して震える2人にゆっくりと言い聞かせた。


「セシア、よく聞きなさい。お前はアリシア様の遊び相手というだけでなく、もっとも身近にお仕えする最初の騎士でもあるのだ。家族の情愛をもって接遇することは聖王陛下も望まれたことだが、そのご厚情に臣下としての分を忘れてはならない。

 騎士として常にアリシア様に寄り添い、父の手が間に合わぬときには、おまえが自分の身を呈して、アリシア姫をお守りするのだ。

 姫を守護する騎士たるおまえが、率先してアリシア様を外に連れだしてはいけないだろう」


 長身をかがめてから「いいね」と養父は姉を諭し、姉はあふれでる涙を両手で繰りかえし拭いとりながら、何度も何度もうなずいていた。

 養父は姉の黄金色こがねいろの髪を優しく撫でると、こちらの銀色の髪には触れることなく、低い頭をさらに下げて、


「アリシア様にはご不便をおかけしますが、私は聖王陛下よりアリシア様の警護を仰せつかっております。狭い家で窮屈だとは存じますが、無用の事故に遭われぬよう、外に出るときは必ず私を供としてください」


 養父は幼子に対しても、いつも真面目で堅苦しい言葉遣いをした。当時はその言葉のすべてを理解したわけではなかったけれど、姉の涙を見て、門の外には決して出てはならないということだけは胸に深く刻まれた。同時に、優しい姉と厳しい養父の本当の家族には決してなれないのだとも。

 そこでようやく自分の首に巻かれた鎖がこの小さな屋敷に繋ぎとめるものではなく、王家という巨大な怪物に紐づいているものなのだと気がついた。幼い身に余るほど重く、高貴さを誇るよりも孤独が冷たいかせとなって心を縛りつける鋼鉄の鎖。

 はらはらと涙をこぼす本当の理由を見抜いたわけではないだろうが、寒さに身を震わせる幼い主君を、自分の小さな胸に抱きとめ、ぽんぽんと背中を撫でてくれた姉の優しさが余計に涙を湧きだたせた。

 ひとつしか違わないのに、毅然と美しく、いつも自分に無償の愛を注いでくれる姉。本当の家族になれなくとも、ずっとこのまま共にいられるのなら、幾重にも巻きついた鎖をすべて引きずってでも生きていける。

 そんな気持ちにもなった。

 けれど、年を経るにつれ、そんなささやかな望みすら圧しつぶすほど鎖はおおきく重くなっていった。王宮に召しだされて、聖王陛下から母が死んだと告げられたときも、どのような表情をすればよいのかわからなかった。数えるほどにしか会ったことのない産みの母にどのような感情をこめれば王族として正解なのだろうか。王家の血という鎖にがんじがらめにされた心は素直な感情表現すら許さなくなっていた。

 ようやく、かたわらで姉が泣きくずれているのを見て、ああ、悲しいことなのだ、泣くのが正しいのだ、と他人事ひとごとのように気がついた。


「アリシアよ。これは王家に生まれた者のつとめなのだ」


 聖王陛下のおごそかな宣言は、しかし、何の感傷も与えてはくれなかった。わざわざ人払いをし、たった二人きりの冷えた大広間で孤独な玉座に身を浸した老人は勝手に「龍王」としての自身の罪業を語りはじめた。

 始まりは、大地を流れる魔力の奔流「龍脈」から魔力を吸いだすすべをもつカオスドラゴンを使役することにより無限の魔力を手に入れたこと。力は野心を産み育て、人間とのいさかいでささくれだっていた竜人ドラグーンたちの熱を浴びて、「龍王」として世界の覇権を夢見た愚かしさ。ついには時空魔法をつかって禁断の扉を開き、異界から召喚した「魔物」をつかって世界に恐怖を撒き散らした。

 竜人と同様、人間たちによる差別と圧制に苦しんでいた亜人たちを懐柔し、「六族同盟」を立ちあげると、戦禍せんかは全世界を呑みこみ、人間ノーマたちの国との熾烈な大戦へと突き進んでいった。あらゆる種族が延々と戦いつづけ、平和を望む者、戦乱から逃げまどう者、どちらの陣営にもくみせぬ者、賢者も愚者も、卑怯者も英雄も、等しく死につづけた。

 戦局は泥沼と化し、いつしか「龍王」は「魔王」と呼ばれ、人間ノーマが世代を重ねるにしたがって戦いのみなもとが何であったのかも忘れさられ、あとはもう復讐が復讐を呼ぶだけだった。

 そこに勇者リクが登場する。争いを厭い、聖典教会へと身を投じた龍王の娘によって異界から召喚された異才の少年。魔王と対峙たいじすることを宿命づけられたリク少年はこころざしを等しくした仲間と共に魔王へと立ちむかい、戦乱に飽いた彼我の良心を取りこみながら魔王軍に辛勝し、奇跡的な勝利に至る。

 だが、長大な戦いの後に残されたのは、魔力を吸いあげられ荒廃した大地と、半分以下にまで激減し、貧困にあえぐ民の姿であった。世界の再生を願う勇者リクの言葉を享けて、龍王はまだしも恵みの多いグランイマジニカ大陸に土・水・火・風の大精霊の力による四神封印の結界をほどこし、閉ざされた世界を築く。以来、自らの罪業を深く悔悟し改心した「龍王」ウルス・ペンドラゴンは、定命の勇者リクからグランイマジニカの統治を委ねられ、竜人、エルフ、ドワーフ、猫人、人魚、巨人、人間の七族の協和と繁栄のため、文字どおりすべてを捧げてきた。

 聖王陛下は何度もうなずきながら、言葉のひとつひとつを噛みしめ、「争いは滅びしかもたらさぬ」とつぶやいた。


「むごい仕打ちだと理解している。本当ならば、わしひとりが背負うべき罪だ。

 だが、わしにはもはや時間が残されてはおらぬ。この役目を誰かが引き継がねば、いまのグランイマジニカは再び戦乱にまみれよう。

 若いおぬしの自由を、後継の巫女みこが現れるまで何年も奪うことになる。許されることではないが、他に方法もない。これも龍王の血のことわりとこらえてほしい」


 切々と訴える老醜。正直なところ、まったく理解できなかった。

 どうして自分が生まれるずっとずっと前に終わった戦争の後始末を。

 どうして自分が見も知らぬ人々の怠惰のために。

 どうして自分だけがすべてを捨てさって奉仕しなければならないのか。

 聖王陛下は祖父の祖父、つまり高祖父にあたり、言葉を交わしたことも記憶に数えるほどしかない。リンカーン王国のすべての人が「聖王」と敬慕する生ける伝説。大戦の後は私心なく、本当に自分のすべてを投げうって七族の協和のために尽くしてきた聖者。それが自分の小さな手をおしいだき、涙も枯れた頬をすりよせて許しを請うている。


「カオスドラゴンとの盟約を刻んだ龍王の血脈にしか務まらぬ仕事なのだ。誰かが引き受けなければ魔力の循環はよどみ、この不安定な大地は裂け、すべてが海に没するであろう」


 だからその役割を自分に果たせ、というのか。

 他の全員が死ぬことを回避するために。自分ひとりが人柱になれというのか。なんと身勝手な理由だろう。けれど、この世界が滅びてしまえば、自身がたったひとつだけこの世界で惜しむ、いとしい姉も等しく死ぬことになる。それだけが嫌だった。

 だから、うなずいた。

 いや、それ以外の選択肢など、はじめから鎖に覆われた身には用意されていなかったのだろう。心のなかで渦巻いた声を外に出すすべも知らず、己が身にからみついた鎖に引きずられるだけの人生なのだから。

 母という見知らぬ人が死んだ純白のやしろで、ひとり、龍穴からあふれだす魔力を魔石へと変える。それが白鷺湖の聖宮せいぐうの巫女の仕事だった。

 湯水のようにあふれる魔石が、リンカーン王国を支える魔道具の動力源となり、自然の力だけでは養えるはずのなかった数の人間と亜人を生かしている。田んぼに水を引くための水車にも、米を炊くための釜の火種にも、夜をいろどる明かりにも、すべてに魔石がつかわれていた。

 リンカーン王国は安価な魔石を市中に供給することで社会を安定へと導き、エルフやドワーフ、人魚との交易にも好条件を提示することでグランイマジニカ全体を平和裏に主導していた。まさに万人にとって優しい理想郷。白鷺湖の聖宮の巫女ひとりを除いては。

 ただひとり、天空を支えつづける責務を与えられた苦痛は想像を絶していた。グランイマジニカの大地をはしるすべての龍脈がつどう最大の龍穴。その大龍穴からほとばしる魔力を己が身にとりこみ、魔石として結晶化するのである。

 それは魔力を喰らう龍、カオスドラゴンを使役することのできる龍王の血脈にのみ許された禁断の力。神にも等しい偉業の対価として与えられたのは、足の先から幾百匹もの蛇が侵入し、臓腑を這いまわるような耐えがたい苦痛と悪寒のみであった。指先から魔石が転がり落ちるのにあわせて涙が絶え間なくしたたり、水も食べ物もすぐに吐きだしてしまう。

 どうして自分だけが。何も悪いことはしていないのに。人並みの望みすら何も持ちあわせていないというのに。ただ昔のように姉と一緒に暮らしたいだけなのに。

 警護役として常に側近くにいてくれる姉の前では気丈に振る舞い、大好きな姉と他愛ない日常をおしゃべりすることで辛うじて精神の均衡を保てていたものの、姉が聖騎士の叙勲の儀式のために去ってしまうと、もう駄目だった。

 死にたい。生まれてこなければよかった。こんな世界など初めから無ければよかったのに。

 膨大な魔力が針のように全身を突き刺し、巻きついた鎖は火であぶられたように心を焼いた。

 ごめんなさい。許してください。もう死なせてください。

 苦しみに耐えきれず、真夜中、自分の頭を聖宮の冷たい大理石の床に叩きつけていたとき、目の前に誰かが立っていることに気がついた。

 聖宮の龍脈の泉は神聖不可侵の場所。昼夜を問わず厳重な警備がされていて、巫女以外は決して踏みいることのできない聖域のはずであった。

 額から血をしたたらせて見上げると、ひょろりとした長身の男。炎のような赤い短髪を逆立て、丸眼鏡をかけていた。


「いいですね。実にいい。あなたのような巫女を待っていたのですよ!」


 後から知ったこの男の名は、煉獄の魔人ザザ・フェンリル。ザザはこれ以上ないというくらいの笑顔で巫女の細くやつれた腕を手にとると、


「絶望が真理の扉を開けるのです。たったひとりで世界を背負う必要はありません。たったひとりで世界を背負うほどの力をもつのですから、その力をつかって、あなたが世界を創り変えればよいのです」


 苦痛にさいなまれつづけた頭は思考を拒絶していた。赤髪の男がなぜこの場所にいるのか、誰なのか、何の目的なのか。疑問におもう気持ちも壊れていた。


「私がお教えしましょう! あなたは自分のしたいことをすればいい。

 死にたい。結構! すぐに死にましょう。アリシア・ペンドラゴンという竜人はいまここで死に、別の大いなる存在、そう、『魔王』として生まれ変わるのです!

 こんな世界など無ければよかった。結構! 壊してしまいましょう。つまらない世界なんて、粉々に砕いてしまえばいい! あなたにはその力がある。

 ほら、無尽蔵の魔力を使えば、どんな魔物も望みのままに動かすことができる」


 周囲を赤い霧がおおっていく。胸にさげたままの「魔神の心臓」が輝きを増し、中のカオスドラゴンが魔力を得て、どんどん重くなっていく。


(死にたい)


 本当?


(殺したい)


 本当?

 胸の奥底から響く声。

 自分は誰なのか。アリシア・ペンドラゴンとは誰なのか。

 わからない。何もかもわからなくなってしまった。

 魔人ザザの誘惑のままに我が身を黒衣で染めて、魔王マーラとして世界を壊した。無数の人命を奪い、あまつさえ養父の生命すら断ち切った。もはや龍王の血筋とも、人の倫理とも切り離されたというのに、身体のいたるところにはまだ見えない鎖がついていた。


(悲しい)


 あんなに人の命を奪っておいて?


(苦しい)


 自分で悲しみを世界に撒き散らしておいて?

 龍王の罪の鎖から、いつしか自分自身の罪の鎖へと、身体を縛る鎖はそのままに、どんどん重く、身動きがとれなくなっていく。



 ◇



 悪夢から覚めて、魔王はふと目をあげる。

 外界から切り離されたはずの魔神城内部。その最奥の魔王の間が揺れている。玉座の背後の楕円の窓が割れて、異界の夜空が粉々に砕け散った。


 ――ギギガガガガッガガガッガガガガ!!!!


 頭がおかしくなりそうな轟音と共に壁が崩れ落ちる。

 割れた空間から黒い鋼板に鎧われた巨大な構造物があらわれ、魔王の間の床石をめくりあげながら突進してきた。生と死が交錯する刹那の時間。

 玉座から飛びのいた魔王の前面には鈍色の「アイアンウォール」が即座に展開されて、圧倒的な物量による破壊から魔王を守っていた。けれど、そのまま恐るべき速度で魔王の間の後ろの壁へと叩きつけられ、こちらも背後に展開したもう1枚のアイアンウォールで破壊される。

 最上階が粉々に砕け散った魔神城の内部には初めて天上の陽光が降りそそぎ、空中を落下しながらも魔王は愉悦を含んだ声音でつぶやいていた。


「……とうとう来たか」

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