小説の1行目

彩葉 二歩

髪が黒く、白い上衣を着ているのが正子だった。

髪が黒く、白い上衣を着ているのが正子だった。


 この店に入った瞬間に、彼女が正子である事は、明白だった。彼女を目にした瞬間、心臓が止まっかのように胸が締め付けられ、込み上げてくる感情で、目頭が熱くなった。息をするのを忘れ、思い出したかのように私は深く息を吸い込み、ゆっくりとふーっと吐き出した。本当は今すぐ、正子の目の前に立ち抱きしめたい気持ちで一杯だった。でも今の私に出来る事は、正子に気づかれずに正子の姿を目で追い、心に焼きつける事だけだった。

 正子は、色が白く化粧なんかする必要もない綺麗な肌をしていた。頬が少し赤らみ子供っぽさが残っていたが、小さな唇に真っ赤な口紅を差している姿は、ドキッとさせられた。精一杯大人になろうと装った笑顔は、少し寂しそうに見えた。


  『渉さん、何飲みますか?』と声をかけられ、私は、少し正子から目を離し、手渡されたメニューを流し見をした。目に入ってきたコロナビールの文字を声にした。暫くして、彼は、コロナビールを瓶で2本持ってきた。高い椅子に軽く腰掛け一口、二口と飲んでみたものの、私の知っているコロナビールの味はせず、ただ液体が喉を通り過ぎていく事だけが感じられた。

 『正子さん、ここでたまに歌を歌っている様ですよ。今日もこれから、歌を歌うみたいです。さっき、バーテンさんに確認してきたんです。』

 『そうか。』と答えるのがやっとだった。

この世にはいないと確信した神という存在に、少し感謝したくなった。






重兼芳子著『やまあいの煙』より、最初の一行目のみ拝借


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