5-2

 あの場所から遠ざかりたい。その一心で、鈴護は夕刻の下り坂を歩き続けていた。

 魂が抜けた骸の様にズルズルと足を引きずる。学校がどんどん遠ざかっていくのに後ろめたさを覚えながら。

 結局自分は、逃げてしまったのだ。辛い現実からも、少女の失った信頼からも、全て。

 海が近づくにつれ、潮騒がだんだんと大きくなっていく。

 始まりの海。新しい道の門出になる筈だった仕事。その全てを自分は放り出してしまった。


「結局振り出し、だなあ。あはは……」


 沈みゆく夕日を眺めながら、鈴護は呟く。ここに来た時よりも失った物が増えたと言うのにそれでも振り出しと言えるのだろうか。そう思うと、目から無性に涙が溢れだした。


(おかしいな。なんで、泣いてるんだろう。全部、私が悪いのに。自業自得なのに)


 もう、あの少女と元の関係に戻れる事は無いんだなあと、辛い現実が心に刺さる。


(駄目。ここで泣くなんて、卑怯だよ、私)


 そんな結果を作ってしまったのは、他ならぬ鈴護自身なのだから。

 親身に思い過ぎてしまった事が、結果的に彼女との距離を遠ざけてしまった。

 少女の事を本当の子供の様になんて思ってしまったから、また罰が下ったのだと謂れの無い罪悪感が溢れて募る。自分の暗部があの少女の思いをも裏切ってしまったのだと。

 悪いのは全部自分。こんな不安定な人間である自分が悪い。あんな言葉を向けてくれる程に慕っていてくれた少女。それを一つの嘘と、たった一度の言葉で失ってしまった。

 やはり自分は子供と触れ合ってはいけない人間なのだ。子供に嫌な思いをさせるばかりか、己も不幸になってばかりだったから。


「もう、忘れよう……」


 忘れる。学校に居た一人の少女。少女との生活。少女と培った物。そして少女への過ち。

 彼女の描いた絵から読み取った、少女の本当の想い。――その全てを、忘れる。

 あの場所に居たのは用務員としての自分だけ。それだけなのだと考えて。


(何もかも忘れて、振出からスタートしよう。そうすればきっと……)


 だが何故だろう。未だ涙が止まる事がないのは何故なのだろう。忘れれば良いのに。逃避する事で全てが楽になるのに。頭では解っていても簡単に捨てる事ができないのは何故なのか。

 まるで壊れた蛇口を塞き止める手段がないかの様に鈴護の眼から涙が枯れ果てる事はない。


「――私」


 大人になっても涙はこんなに溢れる物なのかと言う事を知った。

 顔を覆っていた手の平に、雫が残っている。


「私だって、本当はふーちゃんともっと一緒にいたかったよ。大好き、なんだよ」


 涙と嗚咽が入り混じる、鈴護の苦痛の主張。本当の気持ち。偽りではない、それが少女に対する自分の全てだった。少女との生活によって得られた物は鈴護にとっても大きな物だったとあの場から離れて、改めて気付いてしまったから。

 離れたくない。もっと一緒にいたい。だが、それはもう叶わぬ願いなのだと。全ては後の祭なのだと知る。


「私、こんなにもふーちゃんの事を。……ホント、馬鹿だよなあ、私」


 己の気持ちに素直になった結果、あんな出来事が起こってしまった。安易に本当の子供の様だと少女に対して感じてしまったから。

 やはり子供に近づくべきではなかったのだろう。今回の事でよりはっきりした。

 仕事をすれば何かが変わると思っていたのに、結局得た物よりも失った物の方が目立つ。

 潮風が心なしか眼にしみる。海はもう間近。ここで帰りの船に乗ってしまえば、少女とは二度と会う事もないだろう。だが、本当にそれでいいのか。木下鈴護。少女に謝る事もせず、自分の気持ちを偽ったまま帰宅しても良いのか。


「仕方ないよ。また発作が起きたら、嫌な思いをするのはあの子だもの」


 自分が立ち去る事。少女にはもう近づかない事。それがきっと、最良の選択なのだから。

 全てに別れを告げる事を決心する。正直な所、後悔はある。後ろめたさだってある。

 だが、少女の心を傷つける事と少女から離れる事を天秤にかければ、答えは一つしかありそうになかった。日常へと回帰する事でこの生活は終わりを迎える。


「さようなら、ふーちゃん」


 そうして鈴護は、始まりの浜辺へと足を踏み入れる。


 ――だが、そこには鈴護を迎え入れてくれる筈の船の存在はどこにもなかった。


「おかしいな。迎えの船が、来ている筈なのに……」


 予定ならば確かに今日が就任期間の終了日の筈なのだが、どこにも迎えの姿がない。

 これでは少女の下から立ち去る事もできない。一体何がどうなっているのだろうか。


「失礼」


 その時、突然戸惑う鈴護の背中に、何者かの声が向けられた。

 男性の声。己の後方から響くその声は、無人島である筈のこの島に、鈴護と少女以外の人間が存在している事を示している。

 声を発した人間の姿を確認しようと、鈴護は頭を後方へと振り向かせた。

 スーツを着込んだ男性が一人、黄昏を背にして浜辺に立っている。

 初老の男性。最近、どこかで見た事がある人物だった。


「貴方は確か、学校への誘い人の……?」


 男性は、就任初日の鈴護をこの島へと誘った案内人だと思い出す。


「どうして。何故、ここに貴方が?」

「いえ。本日が貴方の任期終了日でしたもので。お迎えに参上つかまつった、と言う訳です」


 迎えはこの通りちゃんと来ていた。どうやら島に放置された訳ではなかった様だ。


「二ヶ月間のお勤め、ご苦労さまでした。木下鈴護さん」


 人の良さそうな笑みを顔に浮かべ、大仰にお辞儀して見せる男性。紳士めいた外見からは想像通りのアクションではあるが、男性の行動や言葉にはどこか胡散臭さを感じさせる。


「ご苦労も何もないです。私、あそこから逃げ出して来てしまいましたから……」

「はて、逃げ出した? いえいえ、貴方はあの場所で実に良く業務を遂行して下さいました」

「そ、それは皮肉ですか。私は今、あの場所から逃げ出してきたと言ったんですよ?」

「皮肉などと。その様な事はありませんとも。ハイ」


 どうにも掴みどころが無い相手の態度に、鈴護の中の悲しみは成りを潜め、今度は苛立ちが膨れ上がってくる。


「それから、以前は名乗っていませんでしたな。私、こう言う者です」


 そんな鈴護の感情の変化を知ったか知らずか、老人は大して気に留めた様子も無く、スーツのポケットから名詞を取り出し、鈴護に差し出してきた。

 鈴護は差し出された紙切れを不審物でも見るかの様に見つめた後、受け取り眺める。


「国家航空宇宙局・異星間交流推進特別委員会、会長?」


 何やら長ったらしい名前が記されたその名刺を睨みつける。この様な機関が日本に存在するなんて事を一般人代表であるところの鈴護が知る筈も無かったが、それにしても何故そんな所の会長様がこんな無人島にいるのであろうかと、疑問に感じた。


「はい。地球とその他の星を繋ぐ役割を持った、宇宙の外交官とでも思っていただければ」


 この人も『宇宙』なんて言葉を発する。その言葉はもう聞きたくないと言うのに。


「そして私は、あの学校の支配人。そして、ジュライ――貴方が文月と呼んでいたあの娘の保護責任者でもあります」


 その一言に反応する。学校の支配人。そして少女の保護者と言う老人の一言に。


「貴方がふーちゃんの、保護者……!」


 鈴護は怒りを隠す事も無く、敵意を剥き出しにして老人を睨みつける。

 この老人が少女をあんな場所に置き、彼女の人格を蔑ろにした張本人なのだ。

 現実に、理不尽さに。鈴護は並々ならぬ怒りを覚えていた。


「そうです」


 抑揚も無しに老人は肯定する。その言葉からは何も特別な意思は感じられない。

 何故そこまで淡々と話せるのだろう。少女をあんな状態に陥れた元凶の癖に。


「……どうして」


 身体の奥底から怒りが満ち溢れてくる。老人へ対する不満と憤りが止まりそうにない。


「どうしてあの子をあんな訳の解らない環境に一人で! あの子が、ふーちゃんがどんな状態になっていたか、貴方は分かっているんですか!?」


 許せなかった。今頃のこのこと現れ少女の一番大切な時期に傍に居なかったこの保護者が。

 少女の状況を知ってか知らずか、こんなに冷静に事を語るこの老人が。


「貴方はあの子の保護者失格です! 貴方、は」



 ――ふーちゃんは宇宙人だから、解らない!



 先立って、己が少女に向けて発した一言がズシリと心に重くのしかかる。


(私も、保護者失格なのは変わらないじゃない)


 少女に言った無慈悲な言葉。あんな事を言ってしまった自分も、この保護者と大差はない。

 そんな想いが鈴護の怒りを霧散させ、一気に彼女を消沈させた。

 ヒモが無くなった操り人形のように、鈴護は力なく浜辺の砂上に崩れ落ちる。

 雨も降っていないのに、鈴護の影が生み出す暗い場所に水滴がぽたりぽたりと音をたて、砂浜に広がっていった。

 もう枯れたと思ったのに、涙が止まる事は無い。頬を流れる冷たさが心に痛い。

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