9.御手紙

 日曜日、紘登は部屋のベッドの上で頭を抱えていた。目を閉じて同じ記憶を再生する。何十回、何百回と再生しすぎて脳が焼けそうだ。でも、胸の中はふわふわしていて心地良い。心地良い空間の中で、戸惑いや恥ずかしさや喜びが込み上げて、せめぎ合う。喜びに軍配が上がる度に心臓が破裂して、紘登は枕に顔を埋めて足をバタバタと動かした。行き場のない感情を発散する術を他に知らない。どうして麗哉はキスなんてしたんだろう。もしかして、僕のことが……と考えて、紘登は冷静になった。


 紘登にとっては初めてのキスだったけど、麗哉にとってはそうではない。きっと、気まぐれで行えてしまうこと。

 そう思うと乙女のようにときめきに身を任していることがなんだか恥ずかしくなった。それでも気持ちに変わりはない。キスはキスだし、麗哉は田中や安藤には絶対にキスなんてしないだろう。自分は麗哉と誰よりもお近づきになれたのだ。自己肯定感。優越感。嬉しくて笑いが止まらない。


 紘登はそれからの日曜の午後を読書に費やし、麗哉に借りた作品の例のキスシーンの描写を暗唱できるほど繰り返し読んだ。何も憂鬱なことなどない。紘登の世界は麗哉に彩られた。明日が待ち遠しい。麗哉に早く会いたい。学校に行きたいと思うなんて、どうかしちゃったみたいだ。

 夕飯の時、小学生の妹にまで「最近楽しそうだね」と言われてしまった。「楽しいよ」と答えると、母親が嬉しそうに微笑んだ。風呂を済ませて布団に入る。一番に思い浮かんだのは麗哉の顔だった。いい夢が見られそうだ。大きく深呼吸して、紘登は眠りの世界に身を沈めた。



 ◎



 翌日、もしかしたらバッタリ会えるのではないかと淡い期待を持って登校すると、昇降口で校門を抜けた麗哉の姿を捉えた。わざと緩慢に靴を履き替え、彼に話しかけるタイミングを整える。


「おはよう!」

「ああ」


 挨拶に対して「ああ」と返す。麗哉らしい。


 麗哉は気怠そうに靴を履き替え、爪先を床に打って鳴らすと、紘登を待たずに階段を上って行った。


 あれ?


 普段よりも素っ気ない麗哉の振る舞いに戸惑って、紘登はその場に立ち尽くした。なんというか、思い描いていた感じと違う。


 勝手に踏み込んでおいて、あの態度。やはりあのキスは彼にとっては気まぐれで、何の意味もないことだったのだろうか。 果てしなく虚しい気持ちになった。


 麗哉は僕の気持ちをこんなにも掴んでいる。なのに、麗哉は僕に摑みどころを与えてくれない。

 やりきれない気持ちになり、紘登は勢いよくロッカーの扉を閉めた。



 ◎



 紘登は席に着くと同時に、深いため息を吐いた。


 今日の麗哉はいつにも増して近寄りがたい。麗哉はいつも通り自分の席で本を読んでいるのだが、彼の前後左右の席のクラスメイトは授業が終わる度に席を立ち、居心地悪そうに散り散りになって時間を潰していた。皆、不機嫌な麗哉の様子を話題にしている。こんなに注目されていては、麗哉に話しかけられない。


 安藤と田中の退屈な話を上の空で聞き流していると、とうとう「お前、最近付き合い悪いよな」と言われてしまった。二人は口汚い捨て台詞を吐いて紘登から離れていった。

 はいはいどうぞご自由に。君たちなんてどうでもいいよ。紘登は二人の背中に小さく手を振って、ぼんやりと虚空を見つめた。教室の喧騒は紘登の耳には届かない。頭の中は麗哉のことでいっぱいだった。


「沢田くん。……沢田くん? ………ねえ、……沢田くんっ!」


 名前を呼ばれて肩が跳ねる。声がした方を向くと、小町が紘登の机の脇にしゃがみ込んでいた。上目遣いにこちらをうかがう小町が可愛らしくて、少しの間見惚れた。


「もう、何度も呼んだんだよ? ぼんやりさんだなあ」

「へっ!? あ、ああ、ごめん」


 警戒して辺りを見回したが、日山ひやまはいない。今回は小町一人のようだ。なんとなく安心したが、同じくらい緊張する。何か気の利いたことを言いたくて頭をフル回転させたが、田中と安藤の与太話に匹敵するどうでもいい話題しか思いつかなかった。やはり、当意即妙なんて自分には難題すぎる。己のコミュニケーション能力の低さに辟易していると、小町が紘登の目の前に白い紙を差し出した。何重にも折りたたまれていて、握ると手のひらに収まってしまうほどコンパクトで小さい手紙だ。

 紘登が受け取ると、小町は何も言わずにそそくさと自分の席に戻った。着席して、口元を両手で覆い、紘登のことを見ている。


 ああ、これを読むところを見届けるつもりなんだな。


 この中に用件が書かれているのだろう。小町の意図を察して、紘登は複雑に折り畳まれている紙を手間取りながら開いた。中には丸くて可愛らしい文字が並んでいた。


『楠くんと何かありましたか?

 わたしでよければ、お話聞かせてください』


 再び小町に目をやると、照れ隠しだろうか、彼女は顔全体を両の手で覆っていた。


 そういうことか、と紘登は悟った。


 小町は今でも麗哉に気があって、紘登をパイプにして麗哉に近づこうとしているのだ。騎手を射る前に馬を狙う方が効率がいいに違いない。小町の魂胆を見抜きながらも、紘登はその手法に感心した。


 手紙、か。


 何を伝えるかきちんと考えることができるし、直接面と向かって言いにくいことも、手紙なら言えるかもしれない。


「……小町さん、お前に何の用だったの?」


 小町につられた田中と安藤が紘登に歩み寄ってきたとき、ちょうどチャイムが鳴った。慌てて席に戻って行ったが、なんて現金な奴らだろう。紘登は音が鳴らないように、小さく舌打ちをした。小町の手紙を雑に折りたたみ、ナイロン製の青いペンケースに乱暴に突っ込む。ノートの後ろのページを破り、端を綺麗に整えて、ペンを持つ。


 口下手な僕の想いをこれに託す。


 紘登は麗哉に宛てた手紙を書いた。

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