奪われて泣いて抗って

井草結城

第一章「遠ざけて泣いて守られて」

第1話

――私は、あなたから大切なものを奪った。


 それだけが、私をこの世につなぎとめる絆。


 ――その呪いだけを残して、どうか、あなたの未来に……。





§






 東の空が白みだした。

 春の夜明けは底冷えから脱し、辺りにぬるま湯をまいたかのような無味湿潤の心地がした。


 新学期を迎えてひと月。高校の学年も二年生へと上がり、永野鏡(ナガノカガミ)という人間も、本来なら新しいクラスに慣れてきて良い頃合いだっただろう。


「どうしてヒトは朝起きるのか……」


 それまでシンと静まり返っていた自室に、声変わりを済ませた男の掠れた声が反響する。昨晩も寝付けなかったために、その響きは現実で散逸してもなお、頭の中でぐわんぐわんと響いているのだった。

 ――不眠症と軽度のコミュニケーション障害。

 これらは先天的なものではなく、今年の年初あたりまでは俺にとって全く無縁の代物だったはずのもの。いくつもの理不尽な暴力とともに、体に植え付けられた呪縛。


「…………っ」


 根源的な恐怖を感じて、俺は思わず両腕で肩を抱く。すると散々痛めつけられた右肩がみしりと痛み出し、思わず声が漏れる。

 そして少しの間、フラッシュバックが脳裏をかすめ、爪を肩へ深々とと食い込ませてしまう。


 ……。


「はぁ」



 その後、ひとしきりの後遺症の発現を終えると、そんな行動を取ってしまうわが身に思わずため息が出た。

 このような異常な行動をとっておきながら、俺はその実、自身の状態をさして悲観していなかった。

 もとより厭世的な性格なのだ。遠慮とかできない質だし、常識とかに束縛されるのも苦痛に思っていた。

 そういう、生きづらさの奔流の中でもがきながら呼吸を続け今まで生を永らえてきたので、ほんの数か月地獄を味わったくらいでは世界の見え方が変わったりはしない。

 だから学校に行きたくないという気持ちが人一倍強かったとしても、それこそ先天的なものなので誰も心配してくれなくていい。

 俺はそういう、在り方からして辛さが混在する特殊な人間なのだ。


「学校、行くか」


 窓の外からは近所のおばさんがゴミ袋を集積所にどさりと置く光景と、向かいの外科医院の屋根から差し込む朝陽がクロスして何ともシュールな人類の夜明けを演出していた。



§



 家族に気遣われながら玄関の扉を開け、一応簡単に周囲を見渡してから自転車にまたがる。好奇の目線と、その対象を食い扶持に生きる生業の人々が張り込んでいないかの確認である。

 まあ、一応事件から一か月は経ったわけだし、最近は下校途中でもあまり声をかけられなくなってきた。そろそろ気にしなくてもいいのかもしれない。条件反射のようなものだから慣らさないとな。


 都心から少し外れたところにある都立生洲(イクス)高校は、俺の家から自転車で約20分。東京の田舎に片足つっこんだ土地柄のため、通学途中で大根畑と片側三車線の大通りの両方を体感できる多彩なエリアだ。ちなみに特にメリットはない。

 ボーダー辺りをうろつく偏差値のほかに、恋愛が盛んとかいうもはや蔑称かと疑う評判がついてまわる業の深い高校である。起源も不明だし実態も不明だ。比較のしようがない。


「恋愛……」


 自然と、声に出ていた。

 しかし上の空でつぶやくようにではなく、例えればサッカーW杯の初戦がどこか判明したとき、思わず「オランダ……」と発した後に息を呑んでしまうような、そんなニュアンスだ。

 言うまでもなく、恋愛は苦手だし嫌悪感もある。多分恋愛好きならそんなに世界に悲観することもないと思うし。


「そっか。ある意味希望に満ち溢れているということか」


 他校がどんな感じで愛に溢れているのか定かではないが、俺はさておき、少なくとも今この学校には愛が必要だ。

 先ほども少し述べたが、人生を謳歌するにはラブ&ピースしかないのだと人格破綻者でも理解している。解釈は人それぞれかもしないがな。

 必要な理由はいずれ分かると思う……。



 そんなことを考えながらいつものように校門に滑り込もうとしたところ、右後方から凄いスピードで自転車が突進してきて、荒々しいブレーキと共に俺の真横で急停止した。

 周囲の通学中の生徒の視線を一身に受け、心底困り顔で相手を見る。よく見ればこちらの後輪とあちらの前輪に少し足が挟まれていたりもした。痛い。


「おはよう鏡くん。ごめんね轢いちゃった」


 薄ら笑いを浮かべながら、彼女、一条月夜(イチジョウツキヨ)は変わらない図々しさで俺にあいさつしてきた。

 同学年で隣のクラス。目鼻立ちの整った顔に腰まで伸びた黒髪をなびかせ、顎に手でも当てて歩いていれば似合いそうな美少女。人望も厚く性格も淑やか。


「ギリギリまで視界に入らなかったの。興味って大事ね」


 ……というのがこの春までの、俺や周りの奴らにとっての一条月夜の普遍的イメージだった。

 彼女は変わった。変わってしまった。

 今年になるまでほとんど関わりもなかった存在。地獄の三か月を共に過ごした唯一の存在。そして今一番この学校で愛を必要としている存在。


 それが彼女、一条月夜なのだ。






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