もみあげは退職しました

もみあげマン

第1話 起床できない男

ピピピピッ、ピピピピッ、ピピッ──


「う、あ……?」


やかましく鳴り続ける騒音によって意識が浮上する。

そこから現状を理解するまでに数十秒を要し、けたたましく鳴り続ける音源を探すのにさらに数秒かかり、ようやく音──携帯電話のアラームを消せたのは、目覚めてから一分以上経過してからのことだった。


……非常に眠い。

できればこのままもう一度意識をシャットダウンしたいところだが、今のアラームが何度目のものなのかだけは確認しなければならない。

この確認一つで、一つの幸福を得られるかもしれないからだ。


(頼むっ、二度寝のチャンスを……っ!)


祈りながら携帯電話の液晶を見つめる──AM09:50。


「遅刻確定か……」


既に二度寝とかそういう次元の問題でないことを思い知らされてしまった。

こんな時間に起きなければならないとは、毎度のことながら社会の厳しさを感じさせられる。


だが、ここで慌てても仕方がない。

今すべきことは出社の準備をして出発することだ。

本当は遅刻メールを送るべきところだが、目的地が家から徒歩5分なので、メールの文面を考えて送信する間にたどり着けてしまう。

だからそんな余計に時間を使う作業をするつもりはない。


「よし、いくか!」


手早く準備を済ませて靴を履く。

通勤時間が短すぎるので、よほどのことがない限りは手ぶらでの出勤だ。

忘れ物があったとしても取りに帰ることができるので特に問題ないのである。


既に一般的な出社時間を過ぎてしまったためか、歩道に人の気配はあまりない。

逆に、大通りなこともあって車の往来はそこそこ激しい。

たまに「今通った車は仕事中か否か」などとどうでも良いことを考えてしまうが、週に5回も同じ光景を見ていてはさすがに馬鹿なことを考えてしまうというものだ。


そうして今日も中身のないことを考えているうちに目的地にたどり着く。

わりと新しめな十数階建てのビルの、7階が僕の目的地……仕事場だ。


いつものようにエレベーターに乗る。

今日は相乗りの人はいない。


「この空間は今、私に支配されている……!」


やる気を奮い起こすためにちょっと馬鹿なことを叫んでみたものの、自分の言葉が反響して虚しくなっただけだった。

誰だよ言い出した奴……まぁ、私なのだが。


そんなことをしているうちに、エレベーターが目的のフロアに到着する。

エレベーターを降り、右へ十歩、左へ三十歩、右へ一歩移動しつつセキュリティカードを手元に準備する。


事を成す前に深呼吸。

この緊張感がたまらない。


「おはようございます」


そして、自然に、あたかも時間前に来たかのように扉を開けて挨拶を──


「おっすもみあげ氏、また遅刻ー?」


したところで、出社直後の一撃をくらった。


”もみあげ”とは私の別称だ。

私の所属するチームにはなぜか、希望制で奇妙なあだ名をつけてもらう習慣がある。

人の名前は覚えにくいから導入された仕組みだと言われているが、入社して数ヶ月の僕に真相を確かめる手段はない。

重要なのは、私が”もみあげ”とよばれているという事実一点のみだ。

まぁ、最近は別チームの人から”もみもみ”という変形ワードで呼ばれたりもしているのだが。


「”また”って、今月はまだ2回目ですよ。

それに、大遅刻でなかっただけまだマシです」


「今月ってまだ2週目……ま、もみあげ氏は今週も平常運転てことか。

いやー平和でよかったよかった」


口ぶりから察するに、どうやら彼にとって私が遅刻するのは既に規定路線らしい。

どうしてこうなったと言いたいが、これも日頃の行いが関係しているのだろうか?

仕方ないじゃない、眠いのだもの。


「ところでマイタケさん、どうしてこんなところに?

入り口でする作業なんてそうそうないと思いますけど……」


話をごまかすために彼──チームメンバーの一人であるマイタケさんに別の話題を振ってみる。


オフィス入り口から社員の席までは若干の距離がある。

給湯器や冷蔵庫、お菓子コーナーからも離れているので、基本的にここを通るのは会議スペースに移動する時かお手洗い、もしくは外出の3パターンに絞られる。

だが、まだチームの朝会が五分ほどしか経過していないし、昨日みた限りではミーティングは入っていなかったはず。

彼の表情からすると他の二つにも該当しない気がするのだが、はて。


そんなことを思案していた私に、マイタケさんは右手に持っている物体を見せることで対応してきた。

それで口に出さず察せよ、ということらしい。


「ああ、なるほど……」


彼が右手に持っていたのは雑巾だ。


この会社には「新卒社員がローテーションを組んで共有スペースを掃除する」という暗黙のルールが存在する。

いつ頃から始まったのか、なぜそのようなルールが出来上がったのかはわからないが、激しく謎な文化である。

こういうものは社員全員でやったほうが良いと思うのだが、社会の上下関係を思い知らせるための誰かの策なのかもしれない……と思っていたほうが、私の精神が病まずにすむのでそう考えている。


本来ならその作業は当社の基本的な業務開始時間であるAM10:00には済んでいるはずだが、私たちの所属するチームの朝会が10時スタートなのもあって洗いに行き損ねたのだろう。


「毎度お疲れ様です」


「明日は当番だから遅刻はほどほどにー」


マイタケ氏に労いの言葉をかけつつ脇に避けると、軽い調子で掃除当番の引き継ぎをされてしまった。

そう言われると遅刻したくなるのだが、言わぬが仏だろう。


気を取り直してオフィスの自席に移動し着席、会社から提供されたノートPCのスリープモードを解除して勤怠管理システムにログイン、出勤打刻を行う。

既に同じ行動を何度も行っているためか、一連の作業はとてもスムーズに行えるのは良いことなのか、悪いことなのか。


「今日も遅刻か〜、もみあげはクソ雑魚か〜?」


そんなことを考えていたら、隣の席に座っている人物からトドメの一撃が放たれた。

マイタケさんの言葉とは異なり煽りの一言が入っている影響か、妙に心にグサッとくる挨拶だ。


「おはようございます額さん、朝からすごい煽りですね……」


額さんと呼ばれる青年は思ったことをストレートに言う性格らしく、その言葉がちょうど今のように傷を抉ってくることもある。

それでも人から嫌われないというのは、彼が特に悪意がないと感じられるからなのだろう……とはいえ、私のライフはもう零なのだが。


『ま、もみあげだしな〜』


そんな額さんの意見にさも同意、と言わんばかりに仕事用のノートPCからデジタル音声が紡がれ、二次元猫耳メイドの姿がディスプレイに現れる。


「相変わらず辛口ですね、ネ子さんも」


この猫耳メイドは”ネ子さん”と呼ばれている。

かつて在籍していたエンジニアの方が会社の余剰スペースに設置したサーバに住んでいる──動作していると言うと怒られるのだ──メイドさんだ。

セミロング茶髪な彼女がメイドなのは、サーバ名が通称”ハウス”なのが主な理由だとか。

専用のアプリケーションを起動しておけば通知機能としても役立ってくれるので、社内では何気に重宝されている。


ちなみにこのネ子さん、会話していると中身が男性のようにしか感じられない。

彼女いわく「私はインフラの代弁者だからな」だそうで、男性十割というインフラ部隊の性質を見事に反映している気がする。

よくできたハウスキーパーさんだことで。


「起きればいいのに」


更に後ろの席から追撃が入る。

もうやめて鉈さん、もみあげのライフは零よ!

これ以上心に傷を負ったら仕事ができなくなってしまうわ!


「だからいつもライフが尽きないように、『SNSでモーニングコールしてあげようか?』って言ってあげてるじゃない」


鉈さんは真面目なので、それはもう丁寧に毎営業日の指定された時間に通知を送ってくれることだろう。


だが考えて欲しい。

毎日追い立てられる恐怖を、二度寝できない苦しみを、起きられなかった時の申し訳なさを……!


「そんな、心に苦しみを味わうようなことをするくらいなら……遅刻を選びます!」


「いや、それ胸を張って言うことじゃないから……」


きっと鉈さんは今あきれ返っているだろう。

チームメンバーの中では珍しい中途入社社員で会社員経験の長い鉈さんにしてみれば、ちょっと理解できない行動なのかもしれない。


だが私は一歩も引きません、それがもみあげなのです!


……まぁ、理由はそれだけではなく、オンラインゲーム開発を主な業務としている当社では裁量労働制を適用しているからというのもあるわけだが。


裁量労働制では、あらかじめ決めた勤務時間働いたとみなし、実際の業務の時間配分や手段等は労働者の裁量に委ねられている。

だから、私の個人的な言い分は「出社時間も裁量の範囲だ」となるわけだ。


だがしかし、それがチームの合意を経た朝会となると事情が変わってくる。

今私が所属しているチームは簡単な進捗報告を兼ねて、朝会と呼ばれる短いミーティングを朝10時に設けている。

朝会はチーム開発を円滑に進めるために用いられる常套手段であり、このチームでも立ち上げ当時にチームメンバーで議論し納得した上で導入されたわけだ。


……が、この取り決めはチームメンバーが少なからず入れ替わり、更に会社の体制が変更になった現在においても変更なく運用されている。

理由は色々あるみたいだが、ここで詳しい理由を語っても意味がないので割愛させてもらう。


そんなこともあって、私は業務上遅刻ではないけれどチームの決め事上遅刻、という微妙な状態となっている。


え、他のチームの朝会は何時だって?

朝十時に決まっているじゃない、勤務時間に制限を設けられたわけじゃなくて、あくまでチームで自主的に決めてさ。


「そんなに起きれないものかね?」


「さあ?」


心底不思議そうに首をかしげる鉈さんと額さん。

この二人は用事や病欠以外で遅刻したことがない側の人類だ。

おそらく遅刻する人間の気持ちなんて全く理解できないだろう。


こちらとしてはむしろ、どうして毎日決まった時間に、規則正しく起床できるのかと問いたい!

仕事から帰宅して、アニメを見たり積んでいたラノベを消化したり作業をしていたら余裕で零時を回ると思うのですよ。

そこで時間を忘れて作業を続けたら「なるほど四時じゃねーの」となる……こんな状況でどうして朝起きることができましょう!?


と真剣に訴えてみたものの、反応はやはり芳しくなく。


「あー若い若ーい……僕はおっさんだからもう夜更かしできんよ」


「ていうか眠くならない?」


『もみあげは不思議な生き物だから違うのかもなー』


最後に至ってはプログラムから人外判定を受けてしまった。

だから私はいつも思うのだ。

人は、分かり合えない生き物なのだな、と──

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