女騎士のためのオークマニュアル

柳人人人(やなぎ・ひとみ)

第1話

 私を見るその目は、狡猾こうかつ醜悪しゅうあくの塊だった。

 瞼の隙間から覗くそれは、白目が存在しない。ただただドス黒くこちらを真っ直ぐに見据える。


 距離にしてたったの五メートルほど。


 奴は見間違えることがないほど特徴的な風貌をしていた。二メートルは優に超える背丈、甲冑も身に纏えないほどに大きく肥えた腹、知性の欠片も感じさせない弛緩しかんしきった口元、そこから見える雄々しく尖った牙、……そしていびつなブタ顔。


 ───オーク。


 童話か侮蔑のときにしか使われない、その言葉が脳裏に過る。

 絶滅したはずの伝説の生物。巨漢で狡猾で繁殖能力が高い、忌み嫌われた生物。その昔、暴虐のかぎりを尽くしたと伝承には残されている。

 その醜悪な姿が、地獄の淵から地上に這いあがって、目の前に存在しているのだ。

 思わず身が震えた。


「私にそれ以上近寄るでない!」


 凛とした声が、暗い森の中を幾重にも木霊する。

 奴は動かない。舐めるような視線でこちらを視姦する。

 首から下げている銀の飾りをぎゅっと握り締める。その銀のプレートには交える二つの剣が掘り刻まれている。誉れ高きヒュルン王国の騎士団の証だ。


「このナイティス、一生の不覚……!」


 私は誇り高き女騎士・ナイティスだ。ここで屈するわけにはいかない。

 しかし、この瞬間が相手にこれ以上ないほど絶好な状況だった。

 私が手にしているのはたった一本にも満たない折れた剣。

 そして───。

 私は自分の足を確認する。

 具足ぐそくを纏ってはいるが、正常な関節と違えた方向に曲がって、ぐったりとしている。指先を動かそうとしても全く反応しない。それどころか感覚すらない。


 ……、と小枝が割れる音が静寂の森に響く。オークが一歩こちらに近づいた音だった。


「こ、言葉が分からぬか! 低脳の強姦魔ごうかんまめ!」


 私の言葉は、相手に悟られるであろうほど狼狽ろうばいの色で震えていた。

 しかし、オークはそれにぴくり、と反応した。拳をわなわなと握り締めている。


「わ、私を陵辱りょうぞくのかぎりを尽くして犯すつもりであろう、下衆ゲスが!」


 その言葉に奴はさらにわなわなと震え、激昂の色を示す。こめかみには青筋が浮かび上がっていた。

 その反応を見て確信する。

 奴は人の言葉が分かるのだ。言葉が通じるのであればまだ交渉のしようがある。


 しかし。


 一度、舌の上に乗った言葉はもう引っ込ませることはできない。オークははち切れんばかりの怒りを体全体で表している。

 その姿を見て、なぜか二十数年の人生を反芻はんすうしていた。

 騎士団に来るまえに所属していた聖クコロセ女学院、その付属した図書館にあった一冊の本。


『女騎士のためのオークマニュアル』


 大昔から伝わる古文書を現代でも分かりやすく解読と翻訳しなおした貴重な書物だ。

 その内容は童話に出てくるオークと同じ……狡猾で凶暴であることが記されている。しかし、目を見張るのは他種族であろうと子を孕ませる、その繁殖能力の高さだ。

 学園の図書館に相応しくないその詳細が挿絵付きでことこまかに記されていた。一部のマニアからは『性の教本』として親しまれていた。

 こんな状況になると分かっていたのなら、あの時ちゃんと内容を読んでおけばよかった。走馬灯の中で、紅潮こうちょうしながら読みふける自分の姿がよぎる。そんなシーンばかり読んでいるんじゃないバカモノ! ……と、思春期ごろの自分を恥じた。

 奴は一歩一歩こちらに近付いてくる。


「わ、私はどんな陵辱に受けようが絶対に屈したりはしない!」

 かすかに記憶するその内容マニュアルを口にする。


「私に手を出すと国が黙っていないぞ!」

 奴はもう目の前まで来ていた。


「私には大切な人が……!」

 頭を乱暴に掴まれる。


「お、お前なぞひと捻りだ、豚野郎!」

 鷲掴みにされた頭蓋はその強い力によって持ち上げられる。


「くっ殺せ……!」

 ぎゅっと目をつむる。死よりも恐ろしい状況を覚悟する。思わず目が熱くなる。


「あ、あへぇ……!」


「オイ、ヨク聞ケ!」


 怒号にも似た、ドスの効いた声───真に迫る勢いだった。


「私ハ、……私ハ女ダ!!」


「んほぉおおおっ…………、ほ?」

 …………。

 恐る恐る目を開けると、その豚面の彼、いや彼女は……目の端に涙を溜めていた。


「あ、え、その、それは、………すみませんでした」

「分カレバイイ……フン!」


 閉ざされた静寂の森で女性が二人、微妙な空気が流れた。

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