02 小さな幸せ―マトリョーシカ―
『なにか希望があったなら、そのお人形に願いをかけなさい。きっとお前の望みを叶えてくれるだろう。その時に、小さな幸せに気づくはずだ』
そう言い残して、ニナのお父さんは永い永い眠りにつきました。幼かったニナには、最後の言葉の意味はよく分かりませんでした。
お父さんが最期に話していたのは、出張で外国へ行った際にお土産で買ってきてくれた、両手くらいの大きさの異国のお人形。
二年前、五歳の誕生日にもらった、ニナの宝物です。
可愛らしい女の子の絵が描かれていて、中には一回り小さいお人形が入っていました。その中にはさらに小さなお人形が入れ子になっていました。
全部で五つからなるこのお人形は、マトリョーシカといいました――。
お父さんを亡くしたニナは、今はお母さんとおばあさんと三人で住んでいます。
おじいさんはニナが生まれる前に、戦争で亡くなっているとおばあさんから聞きました。
「おばあちゃんは、おじいちゃんがいなくなって悲しい?」
ニナはうんと小さかった頃に、一度だけそう訊いたことがありました。
お父さんを亡くした今のニナになら、その気持ちがよく分かります。
「そうさね、確かに悲しいねぇ。けど、今はお前がいてくれるから大丈夫だよ」
けど、おばあさんは笑いながらそう言って、ニナの頭を撫でてくれました。
でもきっと、おじいさんがいなくなって寂しかったに決まっている。
ニナは確かめたくて、大切なお父さんを亡くしたお母さんにも同じことを聞きました。
「――そうね。ニナがいてくれるから大丈夫よ。けど……やっぱり、寂しいわね」
お母さんの泣く姿を見て、ニナはなんてことを聞いてしまったんだろうと、後になって後悔しました。
先に立たないから後悔なんだって、いつかお父さんに教えてもらったのに。
「ママは、パパに会いたい?」
「会えるものなら、また、会いたいわ」
わんわんと声をあげるお母さんは、目を腫らしてとうとう泣き寝入ってしまいました。
ニナはお父さんの言葉を思い返します。
自分の部屋に急いで戻って、タンスの上に飾っているマトリョーシカを手に、ベッドに腰掛けました。
そうして一番大きなお人形を見つめて、言葉を投げかけます。
「わたしのお願いを聞いて欲しいの。どうかママに、もう一度パパと会わせてあげて」
大好きなお母さんが困っている。悲しい涙は見たくなかったから。ニナはお母さんのためにお願いをすることにしました。
一つのお人形につき、お願い事は一つだけ。お父さんはそう言っていました。だから、お願い事をしたら、大きなお人形は外さなければなりません。
上下に引っ張ると、ポンッと音を立てて大きなお人形が外れました。中から出てきたのは、一回り小さな二番目のお人形。
大きなお人形と二つ並べてタンスに飾ると、大きなお人形がどこか悲しそうに見えました。
でも、ニナはお母さんに笑ってほしいから。お父さんも、許してくれるよね。そう思いながら、ニナは眠りにつきました。
次の日。
朝起きてリビングへ行ってみると、お母さんが泣きながら笑っていました。
「どうしたの、ママ?」
「パパがね、夢に出てきてくれたの。僕と結婚してくれてありがとうって言ってくれたの。ニナをよろしくって、二人で幸せになるんだよって言ってくれたの」
お母さんは確かに泣いているけれど、とても嬉しそうでした。まるで小さな女の子を見ているみたい。無邪気っていうのかな。ニナはそんなことを思いました。
マトリョーシカがお願いを聞いてくれたのね。ママが元気になってくれて、本当に嬉しい。ニナはお人形さんに感謝をしました。
今日はお天気がいいから、お散歩に出かけよう。だって、そうしたい気分なんだもの。
ニナは靴に履き替え、勢いよく玄関から飛び出しました。
「――ニナ、ずいぶん機嫌がよさそうだけど、なにか楽しいことでもあった?」
「あ、ジャン」
街へ向かって歩いていると、幼馴染のジャンが話しかけてきました。
近所に住んでいて、よく二人で遊びに出かけたりするお友達。ちょっぴり意地悪で、やんちゃだけど、なんだか少し気になる男の子。
「ママがね、元気になってくれたみたいでよかったなー、って思ってたの」
「そっか。ニナはお母さんが大好きなんだもんな」
「ジャンは違うの?」
そう訊くと、
「いつもいつも、勉強しろとか嫌いなものも食べろとかうるさいんだ」
「それはジャンがちゃんとやらないから、叱られてるだけだと思うけど」
「まあ、分かってるんだけどさ」
そう言って、頭の後ろで手を組んだジャンは空を見上げました。
「雲は自由でいいよなー」
「雲になりたいの?」
「いや、どちらかというと、僕は飛行士になりたいな。ジャン・ピエールみたいに」
前に聞いたことがありました。ジャンという名前は、有名な飛行士の人から取った名前だって。
だからか、ジャンはいつからか飛行士になりたいという夢を、ニナに話すようになったのです。
「でも危ないよ? 落ちたら死んじゃうもん」
「ジャンは言ってた。『空で死ぬのなら本望だ』って」
「ほんもう? なにそれ?」
「悔いはないってことだよ」
「ジャンも?」
「まあ、そうかな」
なぜか腕組して得意げなジャンの顔を見ていたら、なんだか笑えてきました。
「飛行機に乗ってもないのに、変なの」
「これから乗るんだよ! いつか絶対乗るからな!」
「うん、がんばってね」
「……そうしたら、ニナも乗せてやるよ」
「え、うん、ありがとう」
「友達だからな!」
「うん、友達だからね」
照れながら夢を話してくれるジャンは、少し子供っぽい。あ、まだ子供なんだけどね。と、ニナは心の中で付け加えました。
そんな風に楽しくおしゃべりしていると、向こうの方から歩いてくる異国の男の人が、ふと立ち止まって話しかけてきました。
「君は誰だい? ごめん、僕には分からない。君の事を知らないんだ」
ニナにそう言って、歩き去っていきました。
「ニナ、知り合い?」
「ううん、ぜんぜん知らない人」
「知らないんだったら分からないのは当たり前なのに。外国には変な人もいるもんだな」
「……そうだね」
この時のニナには、まだこれが何を意味するのか分かりませんでした。
◆
ジャンと遊ぶと、いつの間にかお空の話になっていることが多いのです。
ジャン・ピエールはどれだけすごいことをしただとか、アクロバット飛行が素晴らしいだとか、この前ジャンの乗る飛行機のおもちゃを買ってもらっただとか。
「あー、一度でいいからジャンに会ってみたいなー。ていうかサイン欲しい」
「そんなに好きなんだ?」
「男ならみんな一度は憧れるよ。男が惚れる男って感じ」
「わたしは女だから、分かんないけど」
最近はなんだかジャン熱が熱いくらい上がってきてるみたいとニナは思いました。
男の子って、みんなこうなのかな?
「ジャンは、もしサインもらえたら嬉しい?」
「そりゃあもう。たぶん泣いて喜ぶね!」
「そうなんだ」
そこまでなら、お願い、してあげようかな?
ニナは二番目のお人形を思い浮かべました。
「きっと近いうちに会えるかもね」
「え、どうして分かるんだ?」
「そんな感じがしたってだけ」
「そんな簡単に会えるわけないだろ」
お家に帰ってから、ニナは二番目のお人形にお願いをしました。
「ジャンに、ジャン・ピエールさんと会わせてあげて」
以前のように、お人形を上下に外し、中からまた一回り小さなお人形を取り出して三つ並べます。
嬉しい報告は、そう日にちもかからずに聞くことになりました。
「――ニナ! ジャンに会えたよ!」
街へお散歩に出かけた先で、ジャンが満面の笑顔を浮かべて走ってきてそんなことを言いました。
「そうなんだ」
「たまたま街に買い物に来てたみたいでさ。歩いてたらぶつかっちゃって、その人がジャンだったんだ! ほら!」
そう言って、ジャンはおもちゃの飛行機を見せてくれました。その表面に『ジャン・ピエール』とサインが書かれていました。
「出会えた記念にって、新しいおもちゃ買ってくれて、それにサインをくれたんだ! ニナの言ったとおりだったよ」
「よかったね、ジャン」
「ああ!」
嬉しそうにおもちゃを抱きしめるジャン。そんな様子を見ていたら、なんだかニナまで嬉しくなってきました。
なんだかいいことをした気分です。
にこにこ笑ってジャンを見ていたら――、
「あなた、誰なの?」
「えっ?」
後ろからいきなり女の人に声をかけられました。
また、ニナの知らない人です。
「ごめんなさい、あなたのことが分からないの」
そう言い残して、女の人は前の外国人みたいに歩き去っていきました。
「ニナ、また知らない人かい?」
「……うん」
なんだろう。なんだか気持ちが悪い感じ。
他人のためにお願いするとダメだよってことなのかな?
不安を胸に抱きながら、ニナはお家に帰りました。
◆
その後。
ニナはお人形のお願いを、自分のためだけに使うことを決めました。
三つ目のお人形さんには、お小遣いじゃ高くて買えなかった、前から欲しかった服をお願いしました。
そうしたら、お母さんが「普段いい子にしてるから」といって買ってきてくれました。
パステルカラーのワンピース。ジャンも似合ってると言ってくれて、ニナは嬉しくなりました。
けれど、それはまた決まっているかのようにやってきたのです。
お気に入りのワンピースを着て道を歩いていると、
「お前さんはどこの誰なんだい? わしには分からないな、お前さんが誰なのか……」
おじいさんはそういって、荷車を押して歩き去っていきました。
おじいさんは知らないと言っていましたが、ニナはこのおじいさんを知っていました。街外れの牧場の人。話したことはないけれど、よく通りを荷車を押して歩いていたから知っていたのです。
「話したことないんだもん。そんなの、分かるわけないよね」
きっと気のせいだ。
頭を過ぎったもしもを振り払うように、ニナは頭を振りました。
◆
四番目のお人形。
ニナは、ジャンが憧れの人と出会えたことが羨ましくて、自分も女優さんと出会えますようにとお人形さんにお願いをしました。
そして、ジャンみたいに街を歩いていると、急に声をかけられたのです。
「可愛らしいお嬢さんね」
テレビでよく聞いていた声だったから、すぐに誰か分かりました。
「アイリーンさん? 本物なんですか?」
「ええ、正真正銘、ね」
そう言ってウインクする姿は、テレビで見たままでした。綺麗な金髪に透き通る青い瞳。やっぱり有名人は違うなと思いました。
その後、彼女とお茶をして、短い間だけど夢みたいに楽しい時間を過ごしました。
別れ際。
「これ、今日の記念にもらってくれるニナ?」
渡されたのは、アイリーンが被っていた高そうな帽子でした。
それにサインを入れてくれたのです。
「もう少し大きくなったら、きっと似合う時が来ると思うから。それまで大事にしていてね」
「ありがとう、アイリーンさん」
手を振る彼女に手を振り返し、ニナは幸せな気持ちで胸いっぱいにして、お家に向かって歩き出しました。
少しして。ジャンの家の前でジャンが壁に向かってボール遊びをしているのが見えたので、「ジャーン!」そう声をかけると――
「……お前、誰だよ?」
「え?」
思いもよらない言葉が返ってきたのです。
ご近所さんなのに、幼馴染なのに。ジャンはこんなひどいこと、言わないはずなのに。
「わたし、ニナだよ? どうしたの、ジャン?」
「勝手に人の名前を呼ぶなよ、気持ち悪いヤツだな」
それだけ言い残すと、ジャンは振り返ることもなく家へ帰っていきました。
「なんで、どうして……?」
◆
自分のことが分からないなんて、そんなこと、そんなおかしなことってない。ニナは涙ぐみながら自分の部屋で立ち尽くしていました。
昨日会ったばかりなのに。二人でお空の話をしたばかりなのに。
胸が苦しくなりました。ジャンに赤の他人みたいな態度をとられて、気持ち悪いヤツって言われて。
こんなにも息苦しい気持ちになるなんて。
「わたし、ジャンのことが好きだったのね」
いまさらそんなことに気がついたのです。
ベッドに腰掛け、ニナは五番目のお人形を手にしていました。
今までのお人形と見比べてみると、その大きさが一際小さく見えました。
五つで一つのお人形。これが最後の、お人形。
手の平くらいの大きさの、一番小さなお人形……。
「お願い。ジャンと、仲直りをさせてほしい。ジャンと一緒にいられなくなるのは、嫌だから」
お願いし、五つ目のお人形をタンスに飾って、ニナは家を飛び出しました。
スープの冷めない距離にあるジャンのお家。
門の陰からそっとお庭を覗いてみると、ベンチに座って飛行機のおもちゃで遊ぶジャンを見つけました。
普段と変わらなさそうに見えます。けれど、ニナはなかなか声をかけられずにいました。
またさっきみたいに嫌なことを言われたらどうしよう。
声をかけようかかけまいか迷っていると――
「ニナ? そんなところでなにしてるんだよ?」
「……ジャン。わたしのこと、分かるの?」
「はぁ? なに言ってるんだよ。ニナはニナだろ、幼馴染のさ。違うのか?」
「そう、だけど」
ニナは恐る恐る門からお庭に入りました。
ジャンの隣に座ってその顔を見ていたら、なぜだか少し気まずい気持ちになりました。
「それより聞いてくれよ、ニナ。ジャンからもらったおもちゃ、翼が折れちゃってさ」
見せてくれたおもちゃは、片方の翼が半分で折れてしまっています。
サインはなんとか無事みたいでした。
「大切にしてたんだけどなぁ」
ジャンは本当に残念そうに肩を落としました。
そんなジャンを見ていて、ニナはすごく安心している自分に気が付きました。いつも通りに戻ってくれて、よかったと。
「ん? どうしたんだよ」
「ううん。ジャンと話してると、楽しいなって思って」
「なんだそれ」
その後はいつも通り。
やっぱりジャンは飛行士への憧れを語って、一緒に空を眺めました。
当たり前だと思っていたことに、いまはとても安心したニナでした。
もうすぐお夕飯の時間。
ジャンと別れたニナは、軽い足取りでお家へと帰りました。
「ただいまー」
いつもならお母さんが「おかえり」と言ってくれるのですが、今日は違っていました。
廊下の角を曲がってきたお母さんは、どこか不信そうな顔をして言いました。
「あなた、誰?」
「えっ?」
「ただいまって、あなたのお家はここじゃないでしょう? 早くお家に帰りなさい」
お母さんは信じられないくらい冷たい目をして、リビングへ入っていきました。
ニナは訳が分からず、呆然として立ち尽くすことしか出来ませんでした。
家族なのに、まるで他人みたいに言われて、悲しくて……次第に目頭が熱くなってきて、涙が自然に零れ落ちました。
心の拠り所を求めて、ニナは自分の部屋に戻るために廊下を静かに歩きました。
けれどその途中。おばあさんの部屋の扉が開いていて、おばあさんに見つかってしまったのです。
「おやおや、迷子かい? 早くお家に帰るんだよ」
おばあさんも自分のことが分からないみたい。
わたしの居場所がなくなってしまったと、ニナは悲しくてまた涙を流しました。
ニナは怖くなって、勢い駆け出しました。自分の部屋に入ると、タンスの上の一番小さなマトリョーシカを手にして家を飛び出したのです。
こんなもの、持ち出したところで、もうなんにもならないのに。
外へ出たはいいけれど、行くところもありません。ニナは玄関の階段に座って、人形をぎゅっと両手で握り締めました。
家の中からは、テレビの音と、楽しそうに話すお母さんとおばあさんの声がもれてきます。
本当なら、自分もあの輪の中にいるはずなのに。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
ひざを抱えて俯くと、
「――ニナ?」
名前を呼ぶ声に顔を上げます。視線の先には、ジャンの姿がありました。
「どうして、こんなところにいるの、ジャン?」
「さっき、なんだか様子がおかしかったから、心配になって見に来たんだよ。なにかあったの?」
隣に座ったジャンに、ニナは今までのことを全部打ち明けました。
願いが叶うマトリョーシカのこと。願いを叶えると、決まって知らない人から「わたしのことが分からない」と言われたこと。
ジャンにもそう言われて、お人形に願い元に戻してもらったこと。そうしたら、今度は家族に他人みたいな顔をされたこと。
「そっか。ジャン・ピエールに会えたのは、そういうことだったのか……」
「ごめんね、ジャン」
「いや、謝んなくていいよ。ニナが僕のことを思ってしてくれたことだろ。それよりニナ、どうするんだ? 行くところがないなら、とりあえずうちに来る?」
「でも、迷惑なんじゃ――」
「母さんに頼めば、きっと大丈夫だと思う。近所付き合いもあるんだしさ。僕に任せなよ」
「……ジャン、ありがとう」
ジャンに手を引かれ、ニナはジャンのお家に向かいました。
繋がった手の温もりが、これほど心強いと思ったことはありませんでした。
けれど――
「知らない子を泊めることなんて、出来るわけがないでしょ」
「知らない子って、母さん、なに言ってるんだよ。ニナだよ、近所に住んでるニナだ、母さんもよく知ってるだろ?」
「母さんは知らないね。帰ってもらいなさい」
ジャンのお母さんは厳しくそう言うと、玄関の扉を閉めました。
「どうなってるんだよ、なんで分からないんだ……」
それから二人は、近所の公園のベンチに座って途方にくれました。
途中、ジャンは一旦家に戻って、お腹が空くだろうからといってお菓子を持ってきてくれました。
見上げた空には、お星さまがきらきらと瞬いています。
すると、クッキーを頬張りながらジャンは言いました。
「なんだか、ニナの世界が小さくなったみたいだ」
「わたしの世界が、小さく……?」
そういえば、と思い出してみる。
お人形にお願いをして、最初は異国の人に知らないと言われたっけ。
その次の女性も、たぶんそう。
三番目は見知っている街の人だった。
そして四番目はジャン。
最後の五つ目は、家族……。
ニナは手のひらのお人形を見つめました。
「お願いするたびに、わたしの世界が小さくなっていく……お人形のように」
「まさか、そんなことがあるわけ――」
「でも、実際そうなんだもん」
「だとしても、それが最後の人形なんだろう? お願いが出来ないってことは、もう元には戻れないんじゃ……」
そこまで言って、ジャンは口をつぐみました。言ってはいけないことを言ってしまった、という顔をして俯きます。
ニナは手のひらでお人形を転がしました。
もうどうにもならないのかな、と諦めかけていました。
でも、また泣いてしまうほど悲しくはありませんでした。独りじゃない、ジャンがいてくれる。それがただ嬉しかったのです。
ころころと、お人形を玩んでいると――
「ん?」
ふと、指先に引っかかりを覚えました。
お人形をよく見てみると、うっすらと線になっているのが見えました。
もしかしてと、お人形を上下に引っ張ってみると……、
「あっ、外れた」
「えっ」
ジャンも驚いた顔をして、手のひらを覗き込んできました。
手の平サイズの五番目のお人形の中には、親指サイズのお人形が下蓋にくっつくようにして入っていました。
「ニナ、まだ終わりじゃない!」
「……うん」
「どうしたんだ? あんまり嬉しくなさそうだけど」
「ううん、そんなことない。でも、元通りになることをお願いしたら、今までのこと全部、なかったことになっちゃうかもって思って……」
ジャンの憧れている人からもらったおもちゃの飛行機とかも、ないことに。
申し訳なく思っていると――、
「なんだ、そんなことか」
とジャンは言いました。
「気にすることなんかないよ。たしかに残念だけどさ、大きくなって飛行士になったら、ジャンに直接もらいに行くよ。僕、がんばるからさ! だからニナ、ニナは当たり前にあった幸せを取り戻しなよ」
「当たり前の、幸せ……」
「そうさ! 僕もニナの話を聞いていて、いま思った。嫌なこと、悲しいこともたくさんある。もちろん夢とか憧れもたくさんね。でも、それを不思議な力でどうにかしようっていうのは、やっぱり間違ってると思うんだ」
ジャンは晴れやかな顔をして続けます。
「たしかに、目標や夢を叶えるために、なにかを犠牲にしなくちゃならないこともあるかもしれないけど。今まで持ってたはずの当たり前の幸せを、犠牲にすることはないんだよな。って、無くして初めて大切だと解るんだなって、ニナを見ていて思ったよ」
「当たり前だと思っていたものこそが、幸せ……」
ニナの呟きにジャンはうなずいて、
「きっとそうさ。幸せは身近なところにあるんだよ。何かを得るだけじゃない、無くすことでもない、ささやかだけど確かな幸せがね」
「小さな幸せに、気づく」
亡くなる前に、お父さんが言っていたことはこのことだったのかもしれない。ニナは一番小さな六番目のお人形を大切に握りしめ、思いを馳せました。
お父さんは、願いを叶えるとどうなるのかを教えてはくれませんでした。こうなるだろうことは分かっていたはずなのに。
けどそれは、悲しみの底に沈んだ時に、当たり前の日常こそが幸せなんだと、それを気づかせてくれるためにそうしたのだと今なら思えました。
「ニナ」
ジャンがポンと肩を叩き、そうするように促してきます。
ニナは一つ大きくうなずくと、一握りのお人形に願いを込めました。
今までの全てをなかったことにしていいから、小さな幸せを返してください、と――。
◆
「ニナー、ジャンが来てるわよー、早く起きなさーい」
ニナにしては珍しく、その日は少しお寝坊をしてしまったようです。
眠たい目をこすりながら目を覚ますと、軽やかな鳥の鳴き声が窓の外から聞こえてきました。
薄ぼんやりとした視界の中、ニナはとても心地よい気持ちになっていました。
いつもは少し煩く聞こえていたお母さんの朝起こす呼び声が、今はどこか安心するのです。
ニナはベッドから身体を起こすと、タンスに飾られたマトリョーシカを見ました。
右から順に小さくなっていく六つのお人形。初めは寂しく見えた一番大きなお人形も、今では幸せそうに笑っているように見えるから不思議です。
みんなと並んでいるからか、それとも――
「小さな幸せ」
それに自分が気づけたからかも。ニナは朝日に目を細めながら呟きました。
「はーい、いま行くよー」
お母さんに返事をし、ニナは勢いよく部屋を飛び出しました。
階段をかけ下りると、玄関でジャンが待っていました。
まだパジャマ姿で髪に寝癖もついており少し恥ずかしくなりましたが、「ニナ、おはよう!」そう言ってジャンが笑ってくれたので、ニナもつられて笑いかけました。
「おはよう、ジャン。今日もいい天気ね」
「そうだね、いい飛行日和だ」
相変わらずお空の話で返すジャンがおかしくて、ニナはお腹を抱えて笑いました。
こんな当たり前の日常こそが大切なんだと気づけたことが、本当に幸せとニナは『いま』を噛みしめました。
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