モノクローム童話集

黒猫時計

白の章

01 マリア様の御腕に抱かれて

 昔、ある貧しい村に、一人の少年が住んでいました。

 村は領主からの激しい税の取立てで貧困にあえいでいましたが、それでも村人たちは一生懸命に生きていました。

 早くにお父さんを亡くした少年は、お母さんと二人暮らし。村人たちから見ても、それはとても仲のいい親子でした。

 どんな時でも笑顔でいるお母さんのことが、少年はとても大好きだったのです。

 貧しくても、お母さんと二人ならこれからも頑張って生きていける。少年はそう思っていました。


 そんなある日のこと。

 お母さんが病気になってしまったのです。

 朝から晩まで畑仕事をし、家に帰ってからは機織に裁縫と、無理をしてしまったためでした。

 村はとても貧しく、お互いに助け合う余裕すらありません。少年の家にも、お医者さんに診てもらうお金などありませんでした。

 少年は「お母さんが早くよくなりますように」と、森の小径を通って教会へ毎日お祈りに行きました。

 しかし、お母さんの容体は日に日に悪くなる一方でした。

 自分の命がもうすぐなくなってしまう。そう思ったお母さんは最期、枕元に少年を呼んで言いました。


「どんなに辛くても悲しくても、マリア様へのお祈りは忘れないように。わたしもマリア様のお側で、ずっとあなたのことを見守っているからね」

「お母さん……お母さん、死なないで……」


 涙をこぼす少年の頬をひと撫でし、間もなくお母さんは息を引き取りました。


 お母さんの言いつけどおり。

 少年は悲しさを心にしまい込んで、くる日もくる日も、村はずれにひっそりと建つ教会へお祈りに行きました。

 税を納める為に畑で作物を育て、家ではお母さんの見よう見まねで、慣れない機織や裁縫に精を出す日々。風邪をひいても、決して休むことはありませんでした。

 相変わらず生活は苦しいものでしたが、教会へお祈りに行く時間だけは心が休まりました。


「お母さんが天国で、幸せに暮らせますように……」


 聖母像のやわらかなお顔を仰ぎ見て、少年はいつも懐かしく思います。

 在りし日のお母さんの面影を、マリア様に見ていたからです。

 晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も。

 そうして少年は一日もかかさず教会へ行き、マリア様へお祈りをささげました。


 お母さんが亡くなって、ちょうど一年が経ったころ。

 その日も、いつものように教会へお祈りをしにいきました。

 すると、目を瞑り祈る少年の頭の中で、突然やわらかな声が響いたのです。


『やさしい子、顔をあげなさい』


 少年は不思議な声にうながされるまま、目を開けて顔をあげました。

 するとそこには、温かく淡い光に包まれた女の人が立っていたのです。

 赤い衣に青いヴェールを被るその女の人が、ある像に似ていると気づいた少年は声をあげました。


「もしかして、あなたは、マリア様ですか?」


 そう尋ねると、女の人は微笑みを浮かべて頷きました。


「やさしく、清く正しい人の子よ。あなたの祈りは天まで届いていますよ」

「お母さんは、幸せでいるのですか?」

「ええ」


 やわらかく笑むマリア様とお母さんの顔が重なり、少年の目から今まで堪えていた涙が溢れてきました。


「よかった」


 ぼろぼろに汚れた衣服の袖で涙を拭い、安心したように少年は、何度も「よかった」と呟きます。

 けれど、そんな様子を眺めていたマリア様の表情が、微笑みから辛そうなものへと変わりました。


「やさしい子。あなたに伝えねばならぬことがあります」


 ぐしぐしと目元を拭い、少年はマリア様を仰ぎ見ました。

 悲しげなお顔に胸が締め付けられるように感じ、同時に不安な気持ちがよぎります。


「……それは、なんですか?」

「あなたに、これから受難が訪れるでしょう。わが子、イエスのように。それは決して、抗えぬものです」

「受難……?」


 少年に頷くと、マリア様は続けました。


「人の為になることをしなさい。あなたの母親のように、いつも笑顔を絶やさずに。そうすれば、きっと救いの御手は差し伸べられるでしょう」


 少年がなにかを言いかけると、マリア様の姿は聖母像に重なるようにして消えてしまいました。


「抗えぬ、受難……人の……ために」


 少年は、マリア様から言われた言葉をもう一度繰り返しました。


 それから少年は、あの日教会でマリア様に言われたとおり、お母さんからの言いつけを守るように笑顔で人の為になることを行いました。


 貧しい村。明日の食事もままならぬ人たちが、たくさん住んでいます。

 痩せた畑で野菜を作っても、ろくに育たずにひもじい思いをする村人は少なくありません。

 雑草を噛む者、木の根をかじる者。衣服のほつれを食べたり、挙句は、食べてはならないとされている豚に手をつけようとする者まで様々でした。


 そんな村人たちを見て少年は、自分の畑の作物を税として納める分を七割。その残った三割のうち二割を、村人の為に分け与えました。手元に残るのはほんの少しの食料です。

 教会へのお祈りの道中、少年は森で木の実を拾ったりして、それすらも見返りを求めず村人に分けました。


 いつしか少年は、感謝された村人たちから『サルヴァトル(救世主)』と呼ばれるようになりました。


「ありがとう、サルヴァトル!」

「まさしく神の施しか」


 口々に感謝を述べる人々。

 その中の一人の男の人が、「これは口止めをされていたんだが、」と言いました。


「お前さんの母親も、よくこうして食べ物を分けてくれていたんだよ」

「お母さんが?」


 少年は初めてそれを知りました。

 収穫した作物も、不作だったり畑がよくないから少ないのが当たり前だと思っていたのです。

 それが、今の自分のように分けていたからだとは思いもしませんでした。


「自分も子供を抱えて大変だっただろうに。けど、お前さんの母親は笑いながらこう言ったよ。『みんなが喜んでくれるのならそれでいい。もしも感謝してくれるのなら、それは息子に返してあげて』と。きっと、お前さんのことが本当に大切だったんだろう……」


 そして男の人は、涙をぼろぼろとこぼしながら言いました。


「神父様を呼んで、ろくに葬儀も出してやれずにすまない……」


 少年は心が温かくなりました。

 自分がお母さんと同じことをしていることもそうだけれど、それ以上に。村の人たちが、お母さんの死を悲しんでくれていることが嬉しかったのです。

 男の人と同じように涙を流す村人たちに、少年は言いました。


「僕に出来ることがあればなんでもやります。だから、みんなも幸せを諦めないでください」


 晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も。

 そうして少年は、風邪をひいても構うことなく、畑仕事や機織、裁縫に勤しみました。

 自分の収穫物を村人に分け、木の実を拾っては分け。

 それでも、村人の生活が楽になることはありませんでした。


 マリア様から啓示を受けてから、もうすぐで二年が経とうとする頃。

 咳をした際に血を吐いたことにより、少年は自分が病を患っていることに気づきました。

 日増しに悪くなる容体に、もう長くはないと悟ったのです。


 ふらふらの体に鞭を打って、少年はいつものように教会へお祈りに行きました。

 お母さんに言われてから、毎日欠かすことなく通った森の小径。

 少年は、もうこの道を戻ってこられないことを感じていました。

 教会に着くと、重く沈んだ空気が熱に浮かされた体をひんやりと包み込みます。


 よたよたとおぼつかない足取りで、奥にたたずむマリア像へと歩いていきました。

 途中つまずき転んだ先で咳をしてしまい、教会の床を血で汚してしまいましたが、少年にはそれを拭く力すらもう残されていません。


 その時。

 いつか感じたことのある、温かくやわらかい光を感じました。

 霞む視界の中、仰ぎ見た先にいたのは微笑むお母さんの姿です。


「お母、さん」


 そう呟くと、お母さんが床に膝をつき抱き起こしてくれました。

 しかし間近に見るとその人はお母さんではなく、マリア様だったのです。

 けれど、忘れかけていたお母さんの温もりを思い起こさせ、少年の胸は幸せでいっぱいに満たされました。


「やさしく、清く正しい人の子よ。よく、頑張りましたね」


 マリア様の声が降ってきました。


「僕は、人のために、よい行いが出来たのでしょうか……」

「あなたの良き行いによって、救われた人々がたくさんいます。そしてあなたの行いが、村に救いをもたらすのです。素晴らしいことを、その小さな体で、あなたは行ったのですよ」

「……それなら、よかった、です……」


 儚く笑むと、マリア様の御腕が少年をやさしく抱きしめました。

 この世の全てを温かく包み込む聖母の笑みは、少年の心を苦しみから解き放ちます。

 日向のような温もりに包まれて、少年は静かに目を閉じました。目尻から一筋の涙がこぼれ落ちて、静かな教会に雫の跳ねる音が響き渡ります。


 少年が眠るように息を引き取ったその日は、ちょうどお母さんの命日でした――。


 少年が亡くなって一年後。領主が代わることになりました。

 村のために尽くした少年の死を知った領主により、大幅に減税されたことで村人の生活は楽になりました。

 そして領主は親子の死を悼み、盛大に葬儀を執り行ったのです。


 後に教会の壁には、マリア様を囲む、笑顔の親子のフレスコ画が描かれました。

『聖母と慈母とサルヴァトル』と名づけられ、その壁画はとこしえに愛されましたとさ。

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