第39話 時が止まった
すっかり季節も夏めいてきた七月初め、とある女性向けファッション誌で、『マチルダルック』の特集が組まれた。
どろヌマに出てくるマチルダの絵を何枚か引き合いに出し、+プレアデス+がそのエッセンスを取り込んだカジュアルファッションを提案していくという内容だ。
特集は随分と好評だったらしく、この特集で紹介されたメルティードールのアイテムは、雑誌発売から一週間もしないうちに全て売り切れてしまったらしい。
それもあってか、最近では美咲さんから今後メルティードールで販売するアクセサリーや服のデザインもしてみないかと持ちかけられている。
このままマチルダルックが本格的に流行すれば、それに乗っかってメルティードールも一気に人気ブランドへと駆け上がる事ができると考えての事らしい。
ちなみに、話を持ちかけられた時、美咲さんの隣で一宮雨莉がニコニコしていたので、当然ながら俺に拒否権は無い。
だが、正直この話は面白そうだと思っていたので、ちょっと楽しみではある。
どろヌマの単行本も、七月半ばの日曜日に先行発売される事となり、発売当日、俺はマチルダのコスプレをして、秋葉原の書店でどろヌマのサイン本のお渡し会をする事になったのだ。
お渡し会の一週間前、ツイッターで当日のコスプレ衣装を着て撮った写真を添えて告知を呟いた所、予想以上に多くの反響が来て、少し戸惑った。
『マチルダがそのまま漫画から出てきたみたい!』という、コスプレイヤーにとってはとても嬉しい言葉も貰ったのだが、そもそもマチルダが+プレアデス+をモデルにして作られたキャラクターであるということを考えると、複雑な気分だ。
お渡し会当日の朝、俺はいつもより早めに身支度に取り掛かった。
コスプレ衣装に着替えたり準備が必要なので、時間に余裕を持って遅くてもイベント開始一時間前には入りたい。
メイクを済ませた所で、俺は先日中島かすみが置いて行ったコンドームで作った偽乳を見た。
底にキッチンペーパーが引かれた平たいタッパーに半透明な水風船が二つ収納されている。
作った当日は透明で透き通っていたこの偽乳は、翌日には粉が噴いたように全体がうっすら白く曇ってしまっていた。
しかし、質感に特に問題は無く、既に製作から八日経ってその間何度か使用してみたが、特に問題なく使えている。
製作当初よりは若干縮んで柔らかくしまったような気もするが、それもまだ許容範囲だ。
大量買いするとしたらそこまで値も張らないようだし、これからの季節は薄着になるので避けるとしても、秋から春位までなら結構使えそうな気もする。
日を置いたらゴム臭さが少しは薄れるかとも期待したが、別にそんな事は無かった。
それでも、服を一枚でも上から着ていれば、顔を胸にうずめない限りはわからないレベルではあるが。
一度作ってしまえばパッドを入れるが如く簡単に装着できるのも魅力ではある。
まあ、誰かがすばるの胸に顔を埋めるような展開は、今日は別に発生しないと思うので、せっかくだから今日もこの偽乳のお世話になる事にする。
お渡し会の会場は想像以上に人が集まって、サイン本を購入した人達が台を挟んで俺の前に整列する様子は壮観だった。
たまたまその場に居合わせたのであろうやじうまも辺りを取り囲み、お渡し会場はとんでもない人口密度になっている。
優司は顔出しNGということでお渡し会には参加しないのだが、イベントの様子を直に見るために、担当編集さんとやじうまに混ざって目をキラキラ輝かせながらこちらを見つめている。
緊張や気恥ずかしさはあるが、コレは仕事だし、何より優司の大事な門出だ。
俺がここで台無しにする訳にはいかないと、俺は自分を奮い立てた。
お渡し会は本当に大盛況で、中には+プレアデス+のファンで、そこからどろヌマを知ったという人もいて、途中、まるでアイドルになって握手会をやっているような気分になる。
写真撮影等も終え、無事お渡し会がひと段落し、俺は案内された控え室ですばるの私服に着替え、マネージャーの白井さんの運転する車で事務所まで送ってもらった。
今日は編集部の人も呼んで、美咲さんの個人事務所でお渡し会終了後の打ち上げがあるのだ。
一宮雨莉曰く、優司を激励しての今後の活躍を願う意味もあるらしいが、今後のどろヌマとメルティードールに関する企画やそれに関する契約の話等をつめるのが真の目的らしい。
どろヌマはネットでの前評判は十分で、作者が高校生だという事や、「マチルダルック」等の話題性もある。
作品がヒットすれば、コラボ企画等で、メルティードールとしても売り上げアップが期待できるし、マチルダルックが流行れば、そこからそのファッションの元ネタになった漫画を知ってもらえる事も期待できる。
互いに良い影響を与え合えるのではと期待しているようだ。
お渡し会の整理券も告知後すぐに完売してしまったと聞くし、今後の期待が高まる展開でもある。
「あの、すばるさん、ちょっと良いですか?」
そんな事を考えていると、不意に後ろから声をかけられて、俺の思考は中断された。
振り向けば、緊張した面持ちの優司がいた。
「優司君、リアルでは久しぶりね」
「連載が始まった頃からどろヌマの宣伝、色々とやってくれているみたいで、ありがとうございます」
「アレは私が勝手にやりたくてやった事だから、気にしないで」
いきなり深く頭を下げる優司の頭を何とか上げさせる。
まずい、優司に捕まる前に適当に切り上げて帰る予定だったのだが、がっちり捕まってしまった。
「すばるさんがマチルダをイメージしたファッションを提案したり、色んな形で宣伝してくれたから、編集部もどろヌマを力入れて宣伝してくれるようになったり、こうやってファッションブランドとのコラボの話が来たりしたと思うので、やっぱりお礼を言わせてください。ありがとうございます」
一気に早口でまくし立てて、優司はまた頭を下げようとするので、俺はそのまま両手で優司の頭を掴んだ。
「じゃあお礼は素直に受け取っとこうかな。どういたしまして。でもね、私にそうしたいと思わせたのも、どろヌマが面白いからだし、やっぱりそれも優司君の実力なんだと思うよ」
にっこりと笑って俺が言えば、優司はカアッと顔を赤くした。
よし、今のうちにさっさと切り上げて帰ってしまおう。
「それじゃあ、今日は楽しんで行ってね」
「あっ、すばるさん……」
優司の制止の声を聞こえない振りして、打ち上げを行っている部屋から出ようとした時だった。
少し左側の偽乳の位置がずれてるような気がして、直そうと服の上から少し乱暴に寄せる。
直後、服の中で偽乳が割れた。
「っ!?」
慌てて俺は左側の胸辺りの服を掴んで前屈みになる。
マズイ。パッド付きのブラに、ペチコート、ブラウス、と重ねていたおかげで、偽乳の中の水が辺りに飛び散ることは無かったが、偽乳の中の水が服を伝ってじわじわと服をぬらしていく。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい!!!!!!!!
水が服を伝って滴る前にと、慌てて俺は左胸辺りの服を掴んで胸のあるような形をキープしつつ、前屈みになりながら打ち上げ会場を後にする。
とにかく、人がいなくて着替えられる所、と考えて、事務所の奥にある仮眠室を目指した。
置かれているベッドには全て仕切りのカーテンが付いているし、化粧直しをできるスペースもある。
仮眠室へつくと、誰も使っている人はおらず、ようやく俺は一息ついた。
まずは、化粧直しスペースからティッシュを拝借し、服から滴る水を吸い取るようにして拭いていく。
割れてしまった方のコンドームはティッシュにくるんで捨てるとして、代わりをどうしようかと辺りを見回す。
ベッドの置かれた仮眠スペースの横には、ティッシュにめんぼう、コットンの用意された鏡台と、ペーパータオルとドライヤーが用意された洗面スペースがある。
せめて、ここに俺の化粧ポーチがあれば、この前中島かすみから貰ったコンドームで新たに偽乳が作れるのだが。
仮眠スペースで服の水分をティッシュで十分に取った後、一時的に丸めたティッシュでも詰めておき、化粧ポーチを取りに行って、ここで新たに偽乳を作る。というのが現実的な作戦だろう。
そう考えた俺は、化粧スペースからティッシュを箱ごと一つ拝借し、仮眠スペースのカーテンを引いた。
スカートも結構濡れてしまっていたが、濡れているのが正面だけなので、普通にベッドに腰掛けられる事は不幸中の幸いだ。
仮眠スペースのすぐ側にあった上着をかけるためのハンガーには、一旦ブラウスとペチコートをかけさせてもらう。
ブラウスは皺になってしまうので仕方が無いが、ブラとペチコートは一旦洗面スペースで水を絞ってしまった方がいいんじゃないかと思える濡れ具合だ。
仮眠室のドアは鍵が付いていないので、人が来ないか心配だが、さっと絞ってすぐ仮眠スペースに戻れば大丈夫だろうと、腹をくくって俺が洗面スペースで下着を脱いで絞り始めた時だった。
ガチャリとドアが開く音がした。
ふりむけば、呆然とした顔の優司と目が合う。
一瞬、時が止まった。
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