怖いかもしれない話

海田アルフ

第1話 君の声が聞こえる

 最初は何も分からなかった。

 何も見えない。何も聞こえない。

 ただ体が重く、苦しい。



  ***



 最初に機能を取り戻したのは耳だった。

 指の一本さえ動かせない、自分が目覚めているのか眠っているのかも判然としない、世界の中で、音を頼りに自分の状況を少しずつ理解していく。

 どうやら私は、病院のベッドの上に横たわっているらしかった。

 知っていく。思い出していく。私は事故に遭ったのだ。

 恋人である奏太の運転する車に乗っていて――トラックと正面衝突した。

 何も見えないのは、瞼が開けないからだ。顔中が何かで覆われている感触。事故のせいで崩れてしまった顔。自分がどんな相貌になっているのか、考えるだけで恐ろしい。



  ***



 目を覚ましていても、体が動かせないので意識があることを知らせることさえできない。

 私が眠り続けていると思っているのだろうけれど、色んな人たちが私に呼びかける声が聞こえた。

 お医者さん。看護師さん。お父さん、お母さん。友達。それから、奏太。

 一番聞こえるのは奏太の声だった。意識が浮上するたび、私に語りかけてくる。

 ベッドの傍らで、奏太はいつも私に言っていた。


「ごめんな」


 ごめんなと、繰り返す。

 私はどうにか体を動かそうと、意識だけは懸命に足掻いているのだけど、何もできないままだ。



  ***



 永遠にも思える暗闇の日々は、しかしやがて終わりを迎えた。

 指先が動かせるようになった。

 声が出せるようになった。

 目も、見えるようになった。

 家族と目と目を合わせて会話できるようになった時、ようやく私に教えられたのは、奏太がすでに死んでいるという事実だった。


 事故に遭ったあの日、運転席にいた彼は即死だったらしい。

 私も生きているのが不思議なくらいの重傷だった。二度と目を覚まさないかもしれないと言われていたらしく、私の回復を周囲の人たちは大いに喜んでくれた。

 私の体は壊れていない箇所がいないほどの有様で、案の定顔もひどく変わっていたが。長らく鏡を見なかったせいだろうか、自分の顔というものへの馴染みが薄れていて、覚悟したほどの哀しみはなかった。



  ***



 それからはひたすら回復に努めた。寝たきりはどうにか免れたけれど、歩けるようになるのは無理だった。それでも車椅子があれば、それなりに自由に動き回れるようになった。

 一人で車椅子を動かし、病院の庭を散歩する。日が沈み始め、気温が下がって来た。日の高いうちはほかの患者たちの姿が見られる庭に、今は私しかいない。

 病室とは室の異なる空気を胸いっぱいに吸い込む。深呼吸ができるようになるまでにも結構な時間がかかった。


 あの頃。音だけを拾っていた日々のことは家族にも話したけれど、奏太の声を聞いたことは誰にも言っていない。

 「ごめんな」と。今も忘れない彼の声。

 毎日のように、私の傍へと来ていたのだろうか。

 肌寒さに腕をさする。

 私も病室へ戻ろうと、車椅子を反転させる。

 そこに奏太は立っていた。



 夕陽を浴びる彼の体は赤い。

 血のように赤い。

 彼は笑っていた。

 優しく。

 かつてともに過ごした日々に見せた笑顔。

 大好きだった笑顔。

 最後の瞬間に見せた笑顔。

 私は覚えている。


「ごめんな」


 暗闇の中でその言葉を聞いていたあの頃、私は必死だった。

 どうにかして体を動かさなければ、誰かを呼ばなければ。そうしなければ私は。

 私は。

 私は覚えている。



 夜の道を走る車、私は覚えている、助手席の私、私は覚えている、運転席の彼、私は覚えている。

 あの夜奏太はハンドルを握ったまま、不意に私の方を向いた。とても幸せそうな優しい笑顔のまま。

『ごめんな、一緒に死んでくれ』



「ごめんな、一人だけ置いて行って」

 夕陽の中で彼は笑う。

 歯の根がカチカチと鳴る。せっかく動かせるようになったはずの両腕が、凍り付いたように動かない。

「もうお前を一人にはしないから」

 赤い、赤い彼が崩れる、光よりなお鮮烈な赤が噴き出す、声だけはどこまでも優しく響く。

 役立たずの両腕は、目は、喉は悲鳴を上げることさえできないまま

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