海に還る

  

  

 ただただ海が見たくなる時ってあるよね。

 失恋したとか、上司にこっぴどく叱られたとか、そんなことなくても。

 海の青翠あおみどりに寄せては返す波の白。

 真っ青な空にぽっかり浮かんだ白い雲。

 来てよかった! これが恋人と一緒ならなおいいんだけどね。

 苦笑いを浮かべて砂浜に座る。


 一人ドライブの帰りに立ち寄った小さな浜辺には海水浴客は誰もいなかった。

 小さいけれど、結構きれいな海なのに。もしかして穴場かも。今度来る時は水着持ってこようかしら。

 そう思いながら、そろそろ帰ろうかと腰を上げた。

「紺碧の海原に還りて、ひとり

 悲しむことなかれ

 嘆くことなかれ――」

 詩?

 歌うような口調で風に乗って流れてきたその男性の声は、もっと聴いていたくなるほど凛として美しかった。

 今時そんな人もなかろうと思いながらも、イメージするのは、白くて爽やかな着流しを着た詩人。

「さざ波は甘い調べ

 荒波は激しい舞踏

 寄せては還り

 還っては寄せ、きょうもひとり――」

 どんどん膨らむ儚げなイケメンのイメージに、わたしは一目、この目で確かめなければ気が済まなくなってきた。

 声は岩場の陰から聞こえてくる。

 あの辺に座ってもうすぐ沈む太陽を眺めながら詩を朗読でもしているのだろうか。

 そっと足音を忍ばせ、大きな岩場からそっと奥を覗き込んだ。

 いたのは確かに男性だった。なにも穿いていない下半身がそれを証明している。

 だが、ショックだったのはそれではない。腰から胸までは筋肉質で整った裸体だが、首から上はヤドカリだったのだ。

 ヤドカリ全体が頭部で、体の出入口が顔のように正面を向いている。どこからあの美しい声が出ているのかわからないが、折りたたまれた脚を開いたり閉じたりして詩を口ずさんでいた。

 リンゴの種のような尖った両目がきょろっとわたしを見た。

 悲鳴を我慢し、一歩一歩後退る。

 岩場から離れ、ヤドカリ人が見えなくなると逃げるためにいっきに振り返った。

「きゃああっ」

 十数人のヤドカリ人に、わたしはすでに取り囲まれていた。

「紺碧の海原に還りて、ひとり

 悲しむことなかれ

 嘆くことなかれ――

 さざ波は甘い調べ

 荒波は激しい舞踏

 寄せては還り

 還っては寄せ、きょうもひとり――」

 脚を閉じたり開いたりを繰り返し、いっせいに口ずさむ凛とした美しい声を聞きながら、わたしは海に引きずり込まれた。

 きょうもひとり――

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