守神

  

  

「ねえ、あなた、シロ帰って来てる?」

 買い物から帰宅した妻が珍しくシロのことを訊いた。彼女は猫が嫌いではないのだが、毛のアレルギーがあるので極力近づかない。もちろんリビングから続く縁側以外の場所に上げるのは禁止だ。その約束でシロを飼っている。

「うん帰って来てるよ。今朝も餌をあげた」

「そう、それならいいんだけど」

「なんで?」

 食材をエコバッグから冷蔵庫に移し替えながら「町田さんがね、気持ち悪いこと言うから――」と口ごもる。

「気持ち悪いことって何?」

 数日前から寝不足が続いて頭痛がひどく、こめかみを揉んでから訊ねた。

「たぶん単なるうわさだと思うんだけど、ほらそこの窓の障子がぼろぼろの家の男の人――その人がね、野良猫も飼い猫も見境なく捕まえて虐待してるって――」

 妻の言う男の人とは田んぼを挟んだ向こう側の家に住む初老の男のことだとすぐわかった。縁側から見えるその家は障子が不気味なほど変色してぼろぼろに破れ、庭も荒れ放題でまるで廃屋のようだ。

 本人も家同様に身なりがぼろぼろで髪も髭も伸ばし放題の上、いつも目が血走っていて一目でヤバそうな雰囲気を醸し出していた。

 関わってはだめな人種だとわかっていたのに、以前散歩中に男が頭陀袋に入れた猫を棒で叩こうとしているのを止めたことがあった。

 わけのわからない言葉で怒鳴り散らされ、振り回している棒で自分が殴られるのではないかと警戒したが、男はそのまま自宅に戻ったのでほっとした。

 袋の中で暴れる猫を解放するまで、それがシロではないかと気が気ではなかったが、出てきたのは三毛の野良猫でふぎゃあと文句を言うように鳴き叫びながら逃げていった。

 まさか私がやったと思ってないよな。

 少し悲しい思いをしながら帰路についたことを思い出す。

「う~ん。そのうわさ本当だと思うよ」

「えーっ、シロ大丈夫かしら。その人、変な信仰しててね、ただの虐待じゃなくまじないや呪いのための生贄にしてるんだって。シロが狙われなきゃいいんだけど――」

「な、なんだってぇ?」

「町田さんちのお隣で一人暮らしのおばあちゃんいるでしょ――よくチワワを散歩させてる――そのワンちゃんが急にいなくなってね、おばあちゃん、ウワサを知ってたもんだから、あの男が盗ったって大騒ぎしたんですって。

 でね、うろうろ歩いてた男を見つけて問いただしたそうなんだけど、自分が欲しいのは猫だけだって喧嘩になって――そのいいわけも怖いんだけどね――で、町田さんはじめ、ご近所みんなで喧嘩を止めて、その場はいったん収まったんだけど――

 結局ね、ワンちゃんはただ脱走してただけで、あくる日に町田さんが見つけて保護したんですって。でもお隣に連れてったらおばあちゃんが亡くなってて、町田さん腰抜かしたそうよ。不思議なのがね、亡くなって間もないのに遺体の色が黒かったんですって。別に腐っているわけじゃなくただ真っ黒で――」

 だんだん妻の声が遠のいていく。

 数か月前用水路にいたものに合点がいったからだ。そしてここ数日前から続く毎夜の怪異の原因にも。

 私は右手の黒い染みを押さえた。用水路の件はあの男が呪っていたのだ。いったんシロが助けてくれたものの呪いはまだ続いている。

「でね、あの男が呪い殺したんじゃないかって、みんな言ってる――ねえ、聞いてるのっ?」

 鋭い妻の声で我に返った。

「ああ聞いてるよ」

「わたし、シロが心配だから言ってるんだからね。あいつにつかまらないように気を付けてあげてよ」

「ああ、ありがとう。注意しとく。お前もあんまりそこら中に言いふらすなよ。聞かれでもしたら怖いからな」

 背中に流れる冷汗を感じながら平静を装った。妻は怪異譚好きだが、その火の粉が自分たちに降りかかってくると話は別だ。夫とシロがもうすでに狙われていると知ったら気を病みかねない。

「そうね、気を付けるわ。でも――そんな人が近所に住んでるっていやだわ。どうにかならないのかしら――」

 妻は独り言ちながら冷蔵庫を閉めた。



  がりがりとリビングの窓を引っ掻く音が聞こえて来た。 やっぱり今夜もか。

 寝室まで聞こえてくる音なのに、隣で眠る妻には聞こえないらしく、毎晩目覚めるのは私一人だ。

 シロが入れて欲しくて引っ掻いているのかと思い、リビングのカーテンを開けて窓越しに確認する。

 いるのは猫ほどの大きさの黒い影だが、シロではない。嫌な気を放ち、入り込む隙間を探しているかのように伸びたり縮んだりしながらガラス窓を引っ掻いているが、私に気付くとびちゃっと潰れ、大きく窓一面に広がり――

 そこで朝目覚めるということを、ここ数日繰り返していた。

 ただの変な夢だと思っていたが、実際は眠れていないらしく疲労が溜まって来ている。ひどい頭痛の原因だ。

 もし本当にこれが呪詛ならいったいこの先にどんな結果が待っているのか。

 今のところ右手にこれ以上の変化はなかったが、妻が話していた老女のように私も真っ黒に変色して死ぬのだろうか。

「しゃあっ」

 威嚇の声が聞こえた。

 きっとシロだ。今は戻って来るな。

 そう祈った。

 だが祈りもむなしく、格闘し暴れ回る音が聞こえてくる。

 頼むから逃げてくれ。

 戦うシロの声と激しい物音が鳴りやまない。

 身体を起こそうとしたがぴくりとも動かせず、私にはどうすることもできない。

 逃げろっ、シロっ。逃げろっ――


 

「あなたっ、ちょっと起きてっ」

 妻の緊迫した声で目覚めた。

 身体中にまとわりつく粘着いた汗が気持ち悪い。

 起きようとしたが肩から首筋にかけて突っ張るように痛み、頭痛もひどくて頭を動かすこともできない。

「起きてってばっ」

 寝室を覗く妻の顔色が悪い。

「ど――どうした――」

「庭に猫が死んでるの。やだわ、何でうちに」

 それを聞いて飛び起きた。くらくらと眩暈がしたが、何とかベッドから降り、パジャマのままリビングに急いだ。

「あそこよ」

 縁側に立った妻が目を背けながら花壇のほうを指さす。

 雑草まみれの花壇の中には口をかっと開いて硬直した黒猫の死骸が横たわっていた。

「どこの猫よ。まさかシロが持ってきたんじゃないよね?」

 色や模様の違いでしか猫を区別できない妻はシロのしわざだと疑っているが、これはただの黒猫じゃない。呪いで黒く染まったシロだ。

「ちゃんと片すから君は奥にいて」

 涙声を悟られないように妻から離れ、シロに近付く。

「わかった。じゃ、お願いね」

 私の様子に気づくこともなく、妻が奥の部屋に消えるのを確かめ、右手の袖で目頭を拭いた。手の黒い染みは消えていた。

「私を守ってくれたんだな、シロ」

 両手を合わせてから縁側に置きっぱなしのシロのブランケットを取ってきた。亡骸を丁寧にくるみ、花壇の隅に立てたスコップで深く穴を掘って埋めた。

 ここは私の花壇で、土いじりをしない妻は絶対に触らない。

「安心して眠れよ」

 丈高い雑草に隠れた小さな盛り土にそう声をかけた。


 

 シロのおかげで夜の怪現象も起こらなくなった。

 体調が戻ると、私はすぐ白い花の苗を買ってきて花壇に植えた。時間があれば縁側に座り、ぼんやりと風に揺れる小さな花弁を眺めていた。

 ある日、買い物から帰った妻が町田さんから聞かされたと言って、あの男の現状を教えてくれた。

 男は謎の失踪を遂げたらしい。

 ただ同然で家を借していた大家が連絡のつかない男の様子を見に来てそれに気付いたという。

 このまま戻ってこないでほしい。そう言って大家は心底ほっとしていた様子だった――と、町田さんがひそひそ教えてくれたそうだ。

「何でもよく知っている人だな」

 皮肉を言うと、

「まあね、でも役に立つ時もあるのよ」と妻が苦笑した。

 確かに。おかげで男がいなくなったことがわかって安心した。

 真相は不明だが、シロが守ってくれたからだと私は考えた。それでよけい切なくなり、シロのいない寂しさに襲われる。

 妻は私が命を狙われていたことも、死んでいた黒い猫がシロだということも、いまだ気づいておらず、シロが帰ってこないのは事故にでもあって死んでしまったのだと思っている。

「もうあきらめたら? こんなふうにしょんぼりすることも含めて、わたしは生き物を飼うなって言ってるの。ちょうどよかったじゃない。もう何も飼っちゃだめよ」

 きつい言葉だと思うが、腑抜けのようになった私を励ましているのだということはわかっている。

 だが事情が事情だけに、私はいつまでも気持ちの整理をつけられないでいた。



  ごとごと回る洗濯機の音を聞きながらいつものように花壇を見つめていた。隣家に面したほうの庭の奥から三毛猫が出てきた。シロがいた頃からちょいちょい庭を横切っていたようで妻の愚痴を聞いた事がある。

 この辺りも野良猫の保護に力を入れ、去勢術を施される猫が増えたが、この三毛はまださくら猫にはなっていなかった。その証拠に耳先がカットされていないだけでなく、後ろに子猫を連れている。

 茶トラとさばトラの二匹、間隔を開けて辺りを窺いながら注意深く母猫を追いかけていた。

 誰もいないと思っていたのか悠々と庭の真ん中まで来たが、縁側の私に気付き、母猫がびくっと止まってこちらを警戒した。子猫たちもぴたりと動きを止める。

「早く行けよ。見つかったらどやされるぞ」

 驚かせないよう姿勢を崩さず、できるだけ優しい声で忠告していると、遅れてちょこちょこ、もう一匹子猫が追いかけて来た。

 私はそれを見て思わず腰を浮かせた。

 真っ白な子猫。

 私が立ち上がっても親猫は逃げようとせず、白い子猫が私のほうへ駆け寄るのを見ても止めようとしない。

 沓脱石を上れず、みいみい鳴く白い子猫を抱き上げても威嚇すらしなかった。他の子猫とただただこちらを見つめているだけだ。

 手の平から伝わる子猫のぬくもりに目頭が熱くなった。

「あなたっ、野良猫に餌付けしないでよっ」

 奥からのけたたましい妻の声に、母猫と二匹の子猫が慌てて逃げた。

「お、おい待て――」

 呼び止めたが、もう猫たちの姿はなく、白い子猫が私の手の中に残った。

 洗濯カゴを抱えて縁側まで出て来た妻が子猫に気づく。

 視線は痛かったが、子猫を放す気になれない。洗濯物を干している最中もこっちを睨む妻を無視し、私はずっと子猫を胸に抱きしめていた。

 洗濯物を干し終わった妻が振り返る。深く眉をしかめていたが、

「もうっしょうがないわね! 今までと同じようにちゃんと約束は守ってよ」

 そう言って笑った。


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