猫村

  

  

 山の稜線を右手に望みながら、弘樹は田舎道を自転車で走っていた。

 夕方だというのにいまだ日に照り付けられ、顔から汗が流れ落ちる。

 弘樹は木陰で自転車を止めるとハンドルに取り付けたホルダーからペットボトルを取り、ぬるくなった水をぐびぐび飲んだ。


 県内をひとり自転車で横断するという旅は順調だった。

 この小学生最後の夏休みの計画は両親に、特に母親から強く反対されていたが、決して無理をしないという約束で父親からやっと許可が下りた。

 弘樹は事前に準備を整え、終業式が終わるとすぐ出発し、ビルが立ち並んだ車の渋滞する埃臭い街を後にした。

 田舎町に入ると青々とした田んぼが広がり、空が大きく見えた。のどかな風景の中をただひたすら自転車を漕ぐ。

 雨の日と野宿は大変だったが、親切な民家に泊めてもらったり、差し入れをもらったりと人々の優しさに触れ、学校では決して習えない大切なものを学んだ。

 自転車屋を見つける度に点検してもらい、今までトラブルが起きることもなく、地図に印した赤い線はどんどん伸びていく。

 そしてずいぶん山奥まで来た。


 夕日が山の向こうに消えようとしていても、木の上からはまだ蝉の声が降ってくる。

 熱を失い始めた風が吹き、全身の汗が引いていくのを心地よく感じながら、弘樹は深呼吸して辺りを見渡した。

 田んぼの稲がさわさわと揺らぎ、どこからか小川の流れる音もする。ずっと向こうには瓦屋根の古い日本家屋が点在していた。

 弘樹は田んぼの脇に立つ看板に気付いた。

 木製の看板は古くて墨字で書かれた文字は消えかけていたが『猫村』と読めた。

 地図を広げて調べてみたが、地域だけの通称なのか、そんな村名は載っていない。

 猫がたくさんいるからかな?

 弘樹は猫が好きだった。

 だが、共働きの両親は手間のかかるペットの飼育を許してくれず、幼い頃は野良猫を見つけるとかわいがっていた。

 それもいつの間にか数が減り、今では一匹もいない。

 懐っこいのがいたらいいのにな。

 弘樹は久しぶりに猫をなでたいと思った。

 だが、どこを見渡しても姿が見えない。

 暗くなる前に野宿する場所を探さないといけないので、あきらめてサドルにまたがり自転車を漕ぎ始めた。


 しばらく走った後、弘樹は自転車の違和感に気付いた。前輪タイヤの空気が抜けている。

「ウソだろ――」

 何を踏んだのかわからないが、パンクしたようだ。

 どう見ても周囲に自転車屋などない。

 もう六時を回ってるのにどうしよう――

 オレンジ色の空に広がる灰色がだんだん濃くなってくる。

「坊、なにしとんや」

 背後から突然しわがれ声が聞こえ、弘樹は飛び上がった。

 振り返ると腰の曲がった小さな老女が立っている。

「あ、あの――」

「坊はどこん子や。見かけん子やの」

 弘樹と自転車を交互にねめ回す皺に埋もれた鋭い目が明らかに不審者扱いしていた。

「あの――ぼく――江田弘樹と言います。

 夏休みに自転車で一人旅しているんです」

「ほおほお、そらえらいのぉ。どっから来たんや」

 老女が一瞬で破願し、弘樹は安心した。

「P市です」

「そうかそうか、んで、何しとんや」

「自転車のタイヤがパンクして――ここらで修理してくれるお店ありませんか」

「そら難儀やの。せやけどここらでそんな店ないで」

 老女がもごもごと飴でも舐めているように口を動かしているのを見て、弘樹は祖母を思い出す。


 弘樹が小さい頃すでに高齢だった祖母も入れ歯の具合が悪かったのか、いつも口を動かしていた。

 七人兄弟の末っ子という身で父が祖母を引き取ったのは弘樹が五歳の時だった。

 かくしゃくとしていた祖母は母の代わりに弘樹の世話をし、家族の食事まで担っていた。

 最初引き取ることに反対していた母は祖母が亡くなる間際まで感謝し、永遠の別れに涙した。


「そや、隣のジロベエがネコのタイヤよう直しとるな」

「ね、猫のタイヤ?」

「そや、ネコや。手押しの一輪車――工事ん時によう見るやつや。おまんも見たことあるやろ?」

「へえ、あれネコっていうんだ」

「よっしゃ、わしがジロベエに頼んだろ。ついといで」

 腰が曲がっているわりに老女の歩くスピードは速く、弘樹は重くなった自転車を押し、慌てて後ろをついて行った。


「そうか、ひとりでのぉ、えらいのぉ。

 よしよし、わしが明日までパンク直しといたるわ」

 日焼けしたしわくちゃの顔をほころばせて、ジロベエが自転車を受け取る。

 腕も脚も長くてナナフシみたいな老人に頭を下げてから、弘樹は荷台の寝袋を取り外した。

「あの――迷惑ばかりかけてすみませんが、庭で野宿させてもらっていいですか?」

「あ? 野宿らせんでも、オハマはんとこへ泊めてもろたらええがな」

 ジロベエは脇に立っていたさっきの老女に視線を向け、

「ここに泊めてもええけど、何も食わすもんないしなぁ。オハマはんとこやったら何やかやあるやろ」

 そう言って白髪頭を掻く。

「でも――」

 困惑する弘樹にオハマは、

「ええよ。わしんとこへ泊まり。どうせ晩飯も菓子パンくらいしか持っとらんやろ? 汗もかいとるかい風呂も入ったらええ。遠慮なんかせんでええで」

 と皺を垂らして笑った。


                 *


 弘樹は蚊帳の中で布団に寝転び、蛙の大合唱を聞いていた。

 月明かりが障子窓に映ってぼんやりと部屋の中が明るく、蚊取り線香のにおいがどこからか漂ってくる。

 きょうは本当にラッキーだったと弘樹は思った。

 パンクというアクシデントに見舞われたが、そのおかげで久々にまともな夕食を食べられ、気持ちのいいお風呂にも入れたからだ。

 まどろみながら美味しかった夕飯を思い浮かべる。

 土鍋で炊いた白米もおひたしや煮物も全部美味しかった。

 特に甘辛く味付けされた肉団子がおいしく、祖母がよく作ってくれたものと似ていて弘樹の口に合った。

 祖母が亡くなった後、食べたくても食べられなかった味に出会えて本当に嬉しかった。

 蛙の合唱がぴたりとやんだ。規則正しい柱時計の振り子の音だけが大きく聞こえる。

 そこにかすかな猫の泣き声が聞こえたような気がして、弘樹は頭を上げた。

 あ、やっぱり猫がいるんだ。蛙を取りに来たのかな?

 そう思うと見たくてたまらなくなり、蚊帳の外に出た。

 奥の部屋から襖越しにオハマのいびきが聞こえてくる。 

 起こさないようにそっと勝手口のある土間のほうへと向かった。

 障子を開け、沓脱石に置いたオハマのサンダルをつっかける。

 勝手口の引き戸を開けると白い月明かりが差し込んだ。

 にゃあ。

 猫の鳴き声が鮮明に聞え、弘樹は裏庭に出て左右を確かめた。

 雑草だらけの庭には物干し台の影が映っているだけで猫はいなかった。軒下には棚があって薪がたくさん積まれていたがそこにも猫はいない。

 にゃあ。

 棚の隅から声が聞こえたので、弘樹は逃げられないようゆっくりと近づいた。

 こんと小石を蹴飛ばしその音に自分で驚いて足を止めた。

 逃げた気配はなかったが、その場所から月明かりに照らされた部分をくまなく探しても全然姿が見えない。

 明かりの届かない場所にも目を凝らしてみたが、やはり逃げてしまったのかもういないようだ。

 なでたかったのにな。

 ため息をつき、戻ろうと踵を返しかけたが、

 にゃあ。

 あれ? まだいる?

 弘樹は期待してもう少し暗がりへと進んでみた。

 にゃあ。

 棚の横にフタつきのゴミバケツがあった。その中から鳴き声が聞こえる。

 ここに閉じ込められてるの? えーっ、まさか。

 優しそうに笑うオハマの顔を浮かべて弘樹は否定した。

 だが、周囲を見回しても猫はおらず、やはり声はバケツの中からしているようだ。

 とりあえずフタを開けてみた。

 ぷんと血生臭いにおいがしたが暗くてよく見えない。

 弘樹は明るい場所までバケツを運んだ。

「わっ」

 月明かりに浮かんだのは、頭を切断されてさばかれた猫の胴体と目をくり抜かれたその頭だった。

 にゃああ。

 それが鳴き声を上げた。


                 *


 目覚めると布団の中にいた。

「夢だったんだ」

 ほっとしながら弘樹は目を擦った。

 台所の方からおいしそうなお味噌汁のにおいがしてきた。

「坊、よう眠れたか?」

 口をもごもごさせてオハマが部屋に入ってくる。

「はい。ありがとうございました」

 弘樹は布団をたたんで頭を下げた。

 吊るした蚊帳を外すのを手伝い、朝食の準備も手伝う。

「おばあちゃん、なんでここらあたり猫村って言うんですか? 猫、見かけないのに」

 茶碗を並べる弘樹に味噌汁をよそうオハマの手が止まった。

「昔はぎょうさんおってそう言われてたんや。けど今はだいぶ減ったなぁ。

 坊は猫好きか?」

「はい。すごく好きです」

「そうか、そりゃよかった。わしも作った甲斐があったわ」

「え? 作ったって?」

 弘樹は棘のように引っかかった言葉を思わず聞き返していた。

「ネコ団子や。

 ここらではご馳走やで、おまんに食べさせたろ思てな。

 ゆうべ食べたやろ?」

 はははとオハマが笑うと口の中で転がる猫の目玉が見えた。

 その笑顔に祖母の笑顔が重なった。

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