映画館の殺人鬼

  

  

 映画館に足を運ぶのは木曜日の午後と決めていた。

 川村塔子の勤務する歯科医院が世間のほとんどの歯科同様に木曜日の午後が休診だからである。

 もちろん土曜日の午後も日曜日も休診で、同僚が誘ってくるのはほぼこのような一般の休日なのだが、単独行動を好む塔子は混雑の少ない平日を利用していた。

 それでもそれなりの人出はある。同じような休日があり、同じような考えを持つ人々がいるということなのだろう。

 でも――

 塔子はふふんと鼻を鳴らす。

 わたしみたいに二列目辺りで観る人なんてまあいないわよね。絶対とは言えないけど、今まで平日でお目にかかったことないもの。

 だが「前から三列目辺りまではほぼわたしの貸し切りよ」

 同僚たちにそう自慢すると「えーっ首疲れない?」と必ず返される。

 ま、確かに―。

 背もたれの上に出た時々動く頭たちに視界が邪魔されず、大画面で映画を楽しめるいい席なのにと思うものの確実に首が痛くなる。

 塔子はその対策として、できるだけ家にいるような体勢でくつろぐことにしていた。

 尻をずらしてだらしなく座ろうが、ひじ掛けを枕に横になろうが、行儀は悪いが周囲に気兼ねしなくてもいいのだから。

 映画館に到着した塔子はクランクイン当初から話題の邦画ホラーの看板を見上げた。


 この片田舎の町にはまだ一軒、ここ、三階建ての古びた映画館が生き残っていた。離れた街の真新しい大型シネコンでは封切映画がより取り見取りなのだが、半日の休みではそこまでの移動時間がもったいない。

 従業員たちと顔なじみにもなっているので、少し遅れて封切になっても、この映画館は塔子にとって大切な場所だった。

「あら、いらっしゃい」

 チケットカウンターに座る初老の女性が笑顔で迎えてくれる。

 ロゴの入った赤いポロシャツは洗濯したてなのか、小窓から柔軟剤の香りが漂ってきた。

 チケットを買った塔子はエントランスでオーナー兼もぎりの岩城に手渡した。先の女性の夫である岩城は同じ香りを漂わせた赤いポロシャツで人懐こい笑みを浮かべた。

「お、塔子ちゃん、よう来たな。楽しみにしてたもんな」

「おじさん、もう観たの?」

「観た観た。今回の怖いでぇ」

「本当? おじさんいつも同じこと言うじゃん」

「まあ楽しんでってよ」

 半券を受け取り、塔子は奥に足を運んだ。

 館内の上映スクリーンは各階に一つずつあり、上映前から話題の作品は一階、そこそこ人気の作品は二階、三階は以前、白黒映画などの旧作を上映していたが、今はもう閉めている。

 塔子は胸躍らせ、一階の奥に見える重厚な扉を目指した。その扉を開け揺らめく黒いカーテンをめくる瞬間がとても好きだ。

「おっと、その前にパンフレットを買わないと」

 廊下を右に折れ売店のカウンターに立ち寄った。ポップコーンや飲み物も置いてあるが、もうずっとパンフレット以外買ったことがない。

「この映画のでいいのよね」

 ここでもなじみの女性従業員、小野がやはりポロシャツから同じ香りを漂わせ、今から観る映画のパンフを差し出した。

「趣味を知られてるってなんか恥ずいね」

 照れ笑いしながらお金を払って受け取る。

「そんなことないよ。でもさ、この映画超怖いよね」

「え、小野さん観たのぉ?」

 幽霊やお化けの類が嫌いだというのに塔子は驚いた。

「いやいやいや観てないっ、ぜったい観ないっ。あれ見てて怖いから――」

 小野が激しく横に首を振り、廊下の壁に貼られたポスターを指さす。

「えーそう? すごくいいポスターなのに。ねえ、あれ、終わったらもらえないのかな?」

「どうだろ? いっぺん聞いてみるよ。もしオッケー出たらとっといたげるわ」

「嬉しいっありがとう。お願いするね」

 塔子は祈るように手を組み感謝の意を表した。

 そこへいきなり「汚ねえなっ」と怒声が聞こえ、思わず二人で振り返った。

 ポップコーンの準備をしている同じポロシャツの男性店員とカウンター越しに立つ若い男の客がいた。

「ああ、またぁ――」

 小野がそうつぶやき塔子に会釈するとそっちに駆け寄っていく。

「お客様すみません」

「ここ、どんな教育してんだよ」

「すみません――舞木くん、ちょっとどけて――どうされました?」

 彼女が突っ立ったままの舞木を押しのけ客に頭を下げた。

 塔子はカウンターから離れたが上映にはまだ少し時間があるので、壁際のベンチに腰かけ、パンフレットを読むふりをして売店の様子を窺った。

「こいつ床に落ちたポップコーン、カップに入れたんだよっ」

 男の剣幕に小野がもう一度「すみません」と頭を下げた。

 舞木くんっていまだに飲み物やポップコーンを入れるの下手なんだ。

 塔子は自分も買っていた頃を思い出した。

 ジュースの紙コップはべたべただったし、ばらばらと床に落としたポップコーンを拾っては平然ともとに戻してたもんな。

 男はずいぶん頭に来ているようだ。

 小野さんは気の毒だよね。いつも舞木くんのせいでいらない手間と謝罪をさせられてるんだから。

 注文されたのより一回り大きなカップにポップコーンを山盛り入れ、何度も謝りながら手渡しているのを見て、うわぁ損までしてるじゃんと苦笑した。

「舞木くんさあ、いい加減にしてよね」

 一応納得して男が去った後、小野がぶつぶつ小言を言い始めた。だが、舞木はうつむいたままだ。

 そろそろ時間なので塔子は立ち上がり、胸をときめかせながら扉へと急ぐ。

 その後ろ姿をじっと舞木が見つめていたが、塔子はまったく気付かなかった。


 重い扉を開け、揺らめく黒いカーテンと戯れた後、スクリーンに向かって階段を下りながら塔子は観客をざっと見渡した。

 十数人いる客はほぼカップルでみんな真ん中かそれより上の席に座っている。さっき売店で怒鳴っていた男は彼女と並んで中央階段から右側の、上から五列目辺りにいた。

 それを横目に二列目まで下りていく。いつもこの間、同じ考えを持つ先客がいるのではと緊張するのだが、今回も前五列目辺りまでは誰も座っておらず、塔子はほっとして腰をかけた。

 と同時にブザーが鳴り響き、館内が暗くなっていった。


 期待し過ぎたのがいけなかったのか、映画はそれほど怖くなかった。時々出現する悪霊のビジュアルもインパクトを受けたのは最初だけで後はかわいらしさすら覚える。

 しばらくして尻が痛くなったので、塔子はバッグを右の席に置き、それにもたれた。ほぼ家のソファでくつろぐような形で楽にはなったが退屈は変わらず、何気なく背もたれから頭を出して後ろを振り返った。

 真剣に映画を観ている客たちの顔が薄青く照らされている。シーンが変わるたび青の濃淡が踊っていた。

 どのカップルも女性が彼氏の肩に顔を伏せている。みな絵に描いたように同じ怖がり方をして可笑しかったが、女の子の反応はこれが一般的だろう。

 ふと黒いカーテンの前に人が立っていることに塔子は気付いた。

 こんなに空いているのに立ち見?

 と思っていたが、劇中に激しい雷光が光ると、それが舞木だと見て取れた。

 舞木は上から四列目の列に素早く入り込むと彼を怒鳴った男の背後に立った。映画に夢中になっている男の後ろから手を伸ばして口を押え、首に何かを当ててそれを強く押し引いた。

 再びスクリーンから閃光が走ると舞木の持っているナイフがきらめき、男のぱっくり割れた首から飛び散る血が鮮やかに浮かび上がった。

 異変に気づいた彼女に悲鳴を上げる間も与えず、舞木が同じように刃を振るう。

 すべてがあっという間だった。

 うそっ――

 塔子は慌てて背もたれに頭を隠した。どきんどきんと胸が痛いほど高鳴る。

 舞木は怒鳴られたのを根に持ってあの男を殺したのだろうか――

 再び背もたれから顔を出し、そっと様子を窺う。

 舞木はすでに別のカップルの背後に立ち、スクリーンに釘付けの恋人たちの首を掻き切っていた。

 ヤ、ヤバい。怒りや怨みじゃなく無差別で殺ってる。まさか、全員殺るの?

 ぎゃあああっという凄まじい悲鳴に驚いて飛び上がる。逃げ遅れたヒロインの叫び声だった。これでは本物の悲鳴が漏れたとしても外には気付かれない。

 舞木は左右の席を順に下りながら次々カップルの首を掻き切っていく。

 ひと際大きな雷鳴が轟き、照明が点いたかと思うほど館内が明るくなった。劇中では主人公たちが悪霊を浄化し今まさに消滅させようとしているが、現実では最後のカップルが首を掻き切られる瞬間だった。

 塔子は身を縮め、背もたれにしっかりと隠れた。

 ここにいれば気づかれないよね? こんな席で観る客なんて普通いないもの。全員殺ったと思ってとっとと出て行くよね。

 映画は終盤を迎え、ただひたすら暗い場面を映している。核心に触れたセリフが語られていたがまったく頭に入って来ない。

 こっち来ないで。早く出てって。

 祈りながらもっともっと小さく身体を縮める。

 ぷんと嗅いだことのあるにおいが鼻を衝いた。そっと座席の下を覗くと液体状のものが溜まりながらゆっくり流れ込み、映像の光をてらてら反射している。色は見えないが大量の血液だ。

 知らぬ間にスクリーンにはエンドロールが流れていた。

 もう大丈夫だよね。もう出て行ったよね。

 塔子は身を伸ばして顔を上げたが、一列目の背もたれの隙間が影で埋まっているのに気付いてゆっくり視線を戻した。

 ちょうど館内に照明が灯り始めた。隙間にはこちらをじっと覗く舞木の目があった。

「ひっ」

 上半身を起こしてみたものの逃げ隠れするにはもう遅い。ゆっくり立ち上がる舞木の目がしっかり塔子をとらえていた。


 見下ろしている舞木の赤いポロシャツには赤黒く血飛沫が滲み込んでいた。腕や手にも粘っこくこびりついている。

「サービス」

「え?」

「映画あんま怖くなかったっしょ」

「――ん、まあね」

「だからサービスしてあげた。怖かった?」

「う~~ん、それほどでもなかったかな。一応いろいろ考えて怖がってみたんだけど」

 はははと背後から小野の笑い声がした。振り返ると列の間でモップを持って血溜まりを集めている。

「塔子ちゃん怖がらすのムリだって」

「あ、でも今ここから覗いてたのはちょっとびっくりして怖かったよ」

 慌ててフォローする塔子に舞木が唇を尖らせた。

「せっかくサービスしたのに」

「うん。ありがと」

 微笑むと舞木が顔を赤らめた。

「あんた、塔子ちゃんのこと好きだもんね」

 それを聞くと舞木が持っていたナイフを小野に向けて投げつけ、恥ずかしげに逃げていった。

「ちょっ、危ないな。おいっ待て舞木、後片付けしていけよ」

 小野が叫ぶ。

 二人のやりとりに笑いながら館内を見渡すと上の席から順に慣れた手つきで死体を解体する岩城夫妻がいた。手際の良さは職人のようで息の合ったコンビに感心する。

 塔子は各列の端に積まれた身体のパーツの山を指さした。

「あれ三階に運ぶの、手伝うね」

「お客様にそんなことさせられないよ」

 そう言いながらも小野はすっかり当てにした表情を浮かべている。

「そりゃそうと、小野さんってば心霊系だめだけど、こんなのは大丈夫なんだね」

「まあねぇ」

 モップに滲み込ませた血をバケツに絞り入れながら小野が笑った。

「おーい、小野ちゃん、これ運んでくれ。おっ、塔子ちゃんも手伝ってくれんのか。ありがたいな」

「もう、お父ちゃん、お客様になんてことを――ごめんねぇ、重いから女の手足だけ運んでくれたらいいから」

「お前もやないかいっ」

 夫婦漫才な二人を見て大笑いしながら、

 ほんとにここはわたしの大切な場所だ。

 塔子は心からそう思った。

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