泥穴

  

  

 久しぶりの一人旅で県境の山間にある温泉を訪れた。予約した旅館はひなびた雰囲気が良く隠れ家的でゆったり疲れを癒せそうで嬉しくなった。

 温泉の質も評価が高く、一日に三組しか客をとらない宿の予約は難しいと言われていたが、連休明けの平日のせいかたまたま部屋が取れたのは幸運だった。

 玉砂利の敷き詰められた玄関前では若女将と五人の仲居さんたちが出迎えてくれた。

 フロントで受付を済ませると綾乃という若女将が自ら部屋へ案内してくれることになった。まだまだ修行中の身でと謙遜しているが、なかなか立派にこなしている。

 部屋に向かう途中、子連れ客でもいるのかロビーのソファに三歳くらいの男の子が座っていた。そばに親御さんがいないのは退屈で一人部屋から出てきたのかもしれない。

 まあ、館内にいるのなら心配ないが――よそ様の子供ながら少し気になった。

 部屋に入ってすぐ若女将と入れ替わりに大女将が挨拶に来た。

 畳に正座し「いらっしゃいませ、村田様」と丁寧に頭を下げた後、すぐお茶の用意を始める。

「いい宿ですね。すっかり気に入りました」

 丁重な挨拶に気を良くしながら程よい温度のお茶をすする。茶葉がいいのか大女将の入れ方がいいのか、とてもおいしい茶だった。

「それはありがとうございます。ここはお湯も最高ですのよ。お夕飯の前にぜひ旅の疲れを癒してくださいまし」

「そうさせていただきます。それにしてもここも安泰ですね。若いのにしっかりした若女将がいて――あ、もちろん大女将もまだまだお若くてご健在ですがね」

「あらまあ、ありがとうございます。お世辞でも嬉しゅうございます。若女将もきっと喜びますわ。小さい頃に二人兄妹の上を事故で亡くしましてね。それからわがまま放題に育ててしまって――そんな未熟者に、なんて嬉しいお言葉――」

 大女将の表情に一瞬だけ愁いが浮かんですぐ消えた。

 何と返せばいいのかわからず黙って茶をすすり続ける。

「それではごゆっくりお寛ぎくださいませ」

 再び丁寧に頭を下げる大女将に会釈しながら「お風呂の前に庭を散策してもいいですか?」と尋ねた。

 窓から見た裏山まで続く広い庭がとても見事だったからだ。ひと風呂浴びる前に汗をかくのも気持ちいいだろう。

「どうぞ、どうぞ。うちは庭も自慢ですの。裏山から来た野鳥やリスを見れますよ。

 あ、イノシシやサルはいないのでご安心を。

 ではごゆっくり」

 お茶目な笑顔を浮かべ大女将が部屋から出ていった。

 イノシシは怖いけどサルは見てみたいな。

 そんなことを思いながらバッグを戸棚の前に置くと部屋を出た。


 庭に出ると清々しい新緑の風が頬をなでた。美しく剪定された樹木の間からはたどたどしい鶯の鳴き声が聞こえ、その可愛らしさに頬が緩む。

 裏山に続いている幾本もの桜はすでに葉桜だったが、ツツジなどの花木がちらほら開花し始めていた。満開であればもっとみごとな庭なのだろうが、この時期だから予約が取れたのかもしれない。

 来年は桜の満開時に予約を取りたいものだ。そうだ。チェックアウト時に予約しておけばいい。モミジやカエデの紅葉もたくさんあるから秋でもいいなあ。

 ふと気づくと、周囲から庭園感が消え、雑木林に取り囲まれていた。考え込んでいるうちに裏山に入ってしまったのか。慌てて振り返ったが戻る道がわからない。

「だ、大丈夫――ここだって庭の延長みたいなもんだろう」

 そう独り言ちながらだいたいの見当をつけて引き返した。

 だが、美しい庭に戻るどころかますます木陰が濃く深くなり、下草も消え、枯葉混じりのねっとりとした山土の泥が靴底を重くする。

 まさか遭難? いやいやそんな山じゃない。ついさっきまで旅館の庭だったじゃないか。

 それにもし迷ったのだとしてもじき夕暮れだ。戻ってこない私に気づいて従業員が探しに来てくれるはずだ。

 そう自分を落ち着かせようとするも焦りが募り、誤って足をすべらせ泥穴の中に落ちてしまった。

 幸いにも溜まっていた泥のおかげでケガはなかった。何のための穴か知らないが意外と深く、飛び上がっても縁まで手が届かない。

 飛ぶ度に足元の泥溜まりが跳ね、腐った泥臭が鼻孔に届く。穴の中は冷たく、靴下からしみ込んでくる水分が足首を冷やした。

「おーい。おーい」

 何度か叫んでみたが、捜索されるまでこんなところに誰も来ないし、ましてや旅館まで声が届くこともない。

 ただ待っているしかないがほんのちょっとの辛抱だ。

 だが、すべり落ちた際、泥に濡れた背中と尻から冷たさが滲み込み、じわじわと身体が凍えてくる。

 泥まみれの手も濡れたままで乾かず、冷たさにかじかむ。吐く息も真冬のように白かった。

 びちゃ、びちゃっと音がした。

 人の足音かもしれないと思い「おーい」と呼んでみた。

 返事はないし音もしない。

 大女将がイノシシやサルはいないと言っていたので動物だという考えにいたらず、思わず呼んでしまったことを後悔した。別の震えが背筋を這ったが、穴の縁から小さな顔が覗く。

「おじちゃんあそぼ。だれもあそんでくれないの。だからあそんで」

 さっきの男の子だ。

 ほっと息を吐き、

「おじちゃんね、穴に落ちちゃったんだ」

 ほらねっというように泥で汚れた両腕を広げ「ぼくいい子だから、誰か大人の人呼んできてくれるかな」

 しばらくじっと見ていた男の子の頭がうなずいて縁から消えた。

 ああよかった。これで助かる。でもみんなに笑われるだろうな。

 泥にまみれた自分が可笑しくてくすっと笑いが漏れた。

 だが、何分経っても誰も来なかった。次第に穴が薄暗くなり息がさらに白くなる。

 頼まれごとを忘れてその辺で遊んでいるのではないか。子供とはそういうものだ。

 そう思って「おーい」と声をかけてみた。返事はないし、顔も出さない。

 きっとだいじょうぶさ、確かにこっちの言うことにうなずいたじゃないか。小さな子だから足が遅いだけだ。今頃はもう旅館についてきっとみんな大慌てで――ん? ちょっと待てよ。いくらなんでもあんな小さな子がこんな場所まで一人で来るか?

 まさか凍えるような寒さで見た幻覚じゃないだろうな? 

 考えれば考えるほどその可能性が大きくなる。

「ウソだろ――俺はそんなものに助けを求めたのか」

 がちがちと歯の震えが止まらず、どうすればいいのか考えようにも思考がまとまらない。その時、

「おーい。おーい。村田様ぁ」

 遠くのほうで自分を呼ぶ複数の声がした。

 ああ、幻覚じゃなかった。

 助かったという安心感で違和感も消し飛んだ。きっとあの子は冒険好きでしっかりした子供なんだろう。

「おーい。村田様ぁ。おーい」

「ここだぁ、早く出してくれぇ」

 声が届いたか耳を澄ませて様子を窺ったがこっちに気づいた様子はなく「ここだ、ここだぁ」とさらに声を上げて呼んだ。

 穴の縁からひょこっと男の子の顔が覗いた。

「あ、ぼく、呼んできてくれてありがとね。もう一度ここだって教えて来てくれるかな。呼んでも聞こえないみたいだから」

 男の子が顔を引っ込めた。

 よかった。やっと出られる。

 さらなる寒さで息の白さがさっきよりずっと濃くなっていたがもう大丈夫だ。

 戻ったら熱い温泉に頭まで浸かるぞ。

 そう思ったのもつかの間、頭上からぼたぼたと泥が落ちてきた。

 見上げたとたん、氷のように冷たい泥が顔面に直撃した。

「な、なんなんだ?」

 指で払い除け再度見上げると男の子がにこにこと見下ろしている。

「おじちゃん、あそぼ」

「はぁ? さっさと大人を呼んで来――」

 キャッキャと笑い声を上げて投げつけてくる泥が口に飛び込んできた。それを吐き出しながら「おいっふざけん――」怒鳴った瞬間、大量の泥が喉の奥にまで流れ込んできて堪らず嘔吐した。

 なんてガキだっ。親は何してるんだっ。

 繰り返し吐いて涙が溢れてくる。

「おーい。村田様ぁ」

 足音とともに声が近づいてきた。

 ここにいることを知らせたいが喉がかすれ声が出ない。

「なあ、こんだけ呼んで返事がないんだ。ここにはいないだろ」

「そうだな。ふつうこんなとこまで来ないしな」

「もしかしてコンビニにでも行ったんじゃないのか」

「夕食前に?」

「なんか買いたいものでもあったのかもよ」

「いったん宿に戻ってみるか」

 二人のやり取りが聞こえ、足音が遠ざかっていく。

 ちょっと待てよ。そこに子供がいるだろ。気付けよっ。っていうか、お前もここだって呼べよ。

 そう心の中で毒づき見上げたが、もう子供の姿はない。

 追いかけてくれたかと期待したものの、いつまで待っても誰も来ない。空が完全に暮れ、穴の中は暗闇に閉ざされた。

 寒さと絶望で身体の震えが止まらない。

 あのガキどういうつもりなんだ。

 怒りで頭だけがかっかと熱い。

 まさかこのままってことはないだろう。コンビニに行ってないことももう知られているに違いないし、きっと消防団や警察が捜索に来てくれる。戻ったらあのガキをぶん殴ってやる。

 そう考えているとズボンの膝あたりがくいくいっと引っ張られた。

 真っ暗闇の足元から「だれもあそんでくれないの。だからおじちゃんあそぼ」と声がし「だれもきづいてくれないの。おかあちゃんもあやのちゃんも――」そう言って身体をよじ登ってくる。

 さっきよりも濃厚な腐泥の臭いが鼻先に迫った。

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