第20話


『何度も言ったろう、お母さん? 大学を卒業したら、僕は約束通り父さんの会社に入る。しっかりと仕事を学んで後を継ぐよ。但し――久我小夜子(くがさよこ)さんと結婚して、だ』


 運命のその日。

 どうしても会いに来て欲しいという母の頼みで大学の帰りに実家に寄った朔耶(さくや)は卒業後の身の振り方に関してきっぱりと言い切った。


『僕の生涯の伴侶は彼女しかいません。僕が愛しているのは小夜子さんだけだ』

『だめです! 許しませんからね! あ、あんな女学校も出ていない、踊り子なんて、絶対、一歩だって、この家に入れるもんですか!』

『わかっています』

『わかってくれたの! ああ、朔チャン! やっぱり、貴方(あなた)は私の息子だわ! お利口さんのいい子だこと!』

『――わかっています。お母さんが永遠に僕達の結婚を許さないことは。だから、僕の方がこの家を出て行く』

『何ですって? 今、何と言ったの? 朔チャン?』

『これ以上、貴女(あなた)の承諾を待つつもりはありません。決心しました。正式に籍を入れて、僕は小夜子と暮らします』


 朔チャンたら!


 私がこんなに泣いて、縋(すが)ってるのに?

 ああ、朔チャンたら……!



「だから、出て行こうとした朔ちゃんを後ろから力いっぱい殴ったのよ」

 探偵は冷静に質した。

「何でです?」

「近くにあったクリスタルの灰皿で」

 一拍置いて、歌うように夫人は言った。

「夜になるのを待って――その間にやることはいっぱいあったから、あっという間だった。噴水の水を止め、セメントを用意して――」

「セメントはどこから入手されたのですか?」

「ああ、そんなこと。庭のテラスを修復した時のポルトランドセメントが物置に残っているのを、私、憶えていたの。工事の際、立ち会って監督してたからやり方も知ってた。簡単よ。水で溶けばいいの。それで――暗くなってから、その夜の内に池の底に埋めました」

「ああ、奥様……ああ、奥様……」

「いいのよ、横山! あんな悪魔に盗られるくらいならあの子は永遠に私の傍においておくわ。それが朔チャンにとっても一番幸せなのよ! そして、私にとっても!」

「たった一人でソレをしたの? おばさんが?」

 心から驚いて現実的な問いを少年は発した。

「朔耶さんは興梠(こおろぎ)さんと同じくらい上背(うわぜい)があったて聞いたけど、どうやって運んだのさ?」

「車椅子を使ったんだよ」

「え?」

 昼間、溝口(みぞぐち)邸を捜索した際、1階の納戸にそれが仕舞ってあるのを探偵は見ている。

「あれは、亡くなった旦那様のものです」

 悲痛な表情で執事は頷いた。

「脳梗塞でお倒れになられて以来、お亡くなりになるまでの間、旦那様は車椅子をご使用になっておられました」

「電話を拝借できますか? 警察には自首と言う形で、僕が連絡します。貴方は」

 興梠は執事を振り返った。

「夫人についていてやってください」

「勿論でございます。さあ、奥様……」

「ほっといて、一人で歩けますったら! 何よ! 皆して私が悪いみたいに言って! そもそも私がこんなことしなくてはならなかったのはあの悪魔のせいじゃないこと? 朔チャンを誑(たぶらか)し、私から奪って……諸悪の根源はあの小娘だわ!」

「奥様、お足下にご注意ください」

「いいですとも! 警察だろうと、裁判所だろうと、私はそのこときちんと言ってやるから! 一番悪いのが誰かも! 真実の悪魔の正体を白日の下に曝してやるぅぅぅ!」

 執事は夫人にコートを着せ掛けて邸内へ連れて入った。その後ろから興梠も一緒に付いて行った。

 暫くして。

 出て来た探偵は待っていた助手に歩み寄ると、言った。

「では、帰ろう、フシギ君」

「え? もういいの?」

「もう僕たちのやるべき事はないよ」

 カンテラを持ち上げると寒そうにピケのコートの襟を立てる。

「探偵の仕事は終わりだ。ここから先は――警官と弁護士の領分さ」




 愛息をその手にかけた令夫人のニュースは大々的に報じられた。

 池の底部からは息子と、その殺害に使用した粉々に壊れたラリックの灰皿が見つかった。

 警察発表の死因は頭部強打に拠る頭蓋骨骨折。

 狂騒的な夫人の逮捕劇の一方で、司法解剖後に返却された一人息子の葬儀はごく内輪の関係者だけでしめやかに営まれた。

 探偵は勿論、そこに久我小夜子の姿はなかった。





 溝口朔耶(みぞぐちさくや)の葬儀から3日後の夕刻。

 K市S宮の〈ダンシング・バア・ミュール〉。

 コンチネンタルタンゴの曲の流れる店内に電話のベルが響く。


「小夜子、電話よ! 貴女に!」

 ミーシャが受話器を小夜子に押し付けた。

「誰?」

「出ればわかるわよ!」

 ウインクして去って行く混血娘。


「もしもし、お電話代わりました。小夜子です。どなたでしょう?」


 ―― ……小夜子さん? 僕です。


「興梠さん? 困ります。言ったはずです。私もう二度とお会いするつもりはありません」


 ―― そこを何とか――どうしても、貴女にお会いしたくて――


「嫌です。失礼します」


 ―― 待って! 切らないでくれ!


「……」


 ―― お願いです。今すぐ。そう、今でなきゃだめだなんだ。

    どうしても、今、会いたい。


「私、仕事中ですので、これで」


 ―― お願いだから 今すぐ来て欲しい。聞いてる? 小夜子さん? 


「……」


 ――待っています。貴女が来るまで、僕はずっと待っているから――

    場所は――場所はね、例の第1突堤です。


「……」


 ―― できるだけ早く、1秒でも早く、来てくれ。

    お願いだから……でないと……


 ガチャン。

 ツー・ツー・ツー……







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