『売られた自画像』

北風 嵐

p1

1935年のその日、マイタケ・ジョーダンは長い人生で二ついいことがあったことになる。あったことになるとは、後から考えて一番幸せな時だと判断できるからである。おおうにして、この人生の幸せというやつは、次の皮肉な展開を予測しているものだ。


彼はニューヨークのブルックリンに住んでいる。勤め先はメトロで二駅のところにある。鋳物工場の出納係をしている。会社から勤続30年を表彰され、銀の懐中時計を贈呈されたのである。

彼は夜間の実業学校を出て、28歳まで職を転々としてきたが、この会社に拾われて、その誠実な仕事ぶりが評価されたのである。彼は数字をいじるのが好きであった。5掛ける2は10であり、1ドル札が20枚では20ドルになる。500ドル引く200ドルは300ドルであり、それを確認して金庫を閉める。それで彼は仕事の一日を終える。単純ではあるが、矛盾がない。


〈銀時計か、前から欲しかった。社長も張り込んだものだ。社長の思いがこもっている〉と思った。いくらか会社も大きくなり、社長もそれらしく紳士然としてきた。30年が報われたと思い、誇らしかった。仲間との酒宴を終え、彼は駅に向かった。途中から雨が降ってきたが、彼は用意がいい。傘は杖がわりであった。11時を回った雨の夜の街は、ヘッドライトを灯したタクシーが通るぐらいで、さすがに人通りは少ない。

彼の身長は165センチ、小太りである。ヒールを履いた女生と並ぶと彼の方が低くなる。見出しなみはこざっぱりしている。ネクタイは2本、スーツも2着しかないが、生地のいいものを着ている。靴に汚れはない。出納係としての品位に彼は最大限気を使っているのである。


この懐中時計を見せれば、あの無愛想な妻もきっと喜んだ顔を見せるだろう。彼は家路を急いだ。道を横断しょうとすると、向かいの歩道で女性が男性に打たれているではないか。普段、臆病な彼は、今日は違った。その男に向かって行き、傘で応戦した。丁度運良く警らの警官がやって来て、暴漢は逃げた。警官は男を追った。


女は年の頃は20半ばに見え、中々の美人であった。

「大丈夫ですか、怪我はありませんか。取られたものは?」彼は女を抱き起こした。香水のいい匂いがした。

「ええ、大丈夫です。ありがとうございました」女は汚れた裾を払った。

「どちらまで帰られるのですか」

「ここから、歩いて10分ほどです」

「送って行きましょう」

「メトロに乗られるのでは?」

「最終までには少し時間はあります」彼は女に傘をさしかけた。


「ここです。友達とルームシェアーしているのです。コーヒーでも差し上げられたらいいのですが…」と女は言った。

その建物の半地下がカフエであった。

「宜しかったら、ここでお茶を付き合って貰えませんか・・」

彼が若い娘とカフエでお茶を一緒にするなんて、それこそ30年ぶりだろうか。

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