第44話

「…………」

 コールウッド城の客室は、夜まで宴を楽しんだ客が、そのまま寝るか密会するかのためにある。そのため部屋は小さいし、窓は奥にある一つきりだし、家具はほとんどない。かといって扉側の隅にある縦長の花瓶は単純に邪魔だ。

 そしてそういった部屋なのだから、自分から呼ばない限り、人が訪ねてくることはない。

 そのような時は異常事態を知らせに来た伝令か、異常事態そのものだ――コンコンと静かなノックをするのは、後者以外にあり得ない。

「入れ」

 室内にいた男――いや、それはもっと幼い『少年』が、小さくだけ囁いて命じる。ノックの音が扉を開く音に変わった。

 現れたのは、少年と同世代の、少女だった。鮮やかな青色をした大きな瞳に、小さな輪郭。服は一見すれば白いドレスのように見えるが、生地は薄く、宝飾も少ない。部屋着のようなものだろう。

 夕刻の光を反射させる白金の髪は、歩く間も揺れなかった。滑るように、すっと部屋の中に入ってくる。

「突然の訪問、申し訳ありません。火急の用がありまして」

「王女――」

 少年は呟いた。名前は覚えていない。肩書きだけだ。コールウッド国の王女。

 彼女は少年が王城に連れて来られた後、軍会議にも顔を出していた。そこで彼女自ら、少年たち罪人がどうしてここに連れて来られたかを説明したのだ。マリセア国を倒せ、と。

 いずれにせよ、彼女についてはそれだけ知っていれば十分――いや。今はもう少し違う知識が必要だろうと、少年は理解した。それは予感であり、確信だった。

 目を細め、吼える。

「どういうつもりだ、ディミーター」

「覚えていてくれたのですね、その名前」

「忘れるものか、お前が名乗ったあの時から!」

 少年は怒りに叫んだ。腕を振るい、ベッド脇に置いていた剣を掴み取り、即座に抜剣する。

 王女――ディミーター。それは『彼女』の名前として認識していたが、王女の名前ではない。

 あの日、あの時、聞いたのだ。オーフォーク領の軍勢を前にして。パートナーには名前を教えておいてやる、自分はディミーターだ、と。

 その忌々しい記憶を思い出し、少年はさらに視線を強くした。夕刻の赤い光が、少しずつ雲に隠されようとしている――それに惑わされず、敵を捉え続けるために。

「そんな姿になってるってことは、今度は傭兵の代わりに兵士でも仲間にしたか!」

「さあ、どうでしょう。ですが、すぐにわかることです……っふふ」

「ほざけッ!」

 挑発的な微笑に少年は猛り、即座に床を蹴った。元よりそれほど広い部屋ではない。一歩踏み出すだけで、突き出す剣の間合いには十分だった。しかし王女――ディミーターもそれを予測していたらしく、同時に身をひねって部屋の隅まで逃げている。

 すぐさま少年も身体の向きを変えた。その時、ディミーターがそこにあった花瓶を持ち上げるのを見た。

 攻撃の手を止め、咄嗟に防御の姿勢を取る少年。それと同時に花瓶は投げつけられた。縦長の花瓶は胴体の幅と同じほどの高さがある陶器だ。仮に防御したとしても衝撃に押し飛ばされるだろう。少年はそれを覚悟するが……

 がしゃあんっ! と、大きな音を立てたのは割れた花瓶と、窓だった。所詮は少女の腕なのか、狙いは大きく外れてしまったらしい。

「……!」

 ディミーターが失態に顔を歪めるのが見えた。

 少年はその機を逃さず突進する。胸中で狂喜が湧き上がるのを自覚した。この剣を突き刺すのに躊躇いはない。この女を葬ることに、微かな同情も恐れも抱くことはなかった。それを為すことができるとわかれば、一片の逡巡すら見せることはない。

 しかし――その瞬間。少年は不意に、それが罠だと直感した。明確な、わかりやすい、杜撰な罠だと。

 今度は反対に少年が顔を歪める。ディミーターが美しい王女の顔を凄絶な愉悦に吊り上げるのが見えた。しかし止まるには遅すぎ、少年はもう剣を突き出していた。それが少女の胸に伸び……ぞむっ、と不快な手応えと共に、突き刺さった。

「なっ……?」

 驚愕したのは少年の方である。罠があると確信したにも関わらず、ディミーターはあっさりと貫かれた。剣を引き抜き、慌てて飛び下がると、その胸から赤黒く見える体液がどろどろと垂れてくるのが見えた。

 ディミーターは動かなかった。苦悶に歪めた顔をして、死んでいる。

(罠は、なかった……? いや、そんなはずがない。エンダストリでも、ニーベルでも、こいつは罠を仕掛けた。あからさまな、避けられない罠。だとすれば……)

 この死自体が――?

 そのような狂気の沙汰があるとは、通常ならば思いがたい。なんらかの罠のために自らの命をこうもあっさりと投げ出すなどと……しかしやはり、これが罠ではないとも思いがたい。

 いずれにせよ少年は念のため、さらに確実な死を与えるために剣を振り被って――その時。

「音がしたのはこの部屋だ!」

「どうした、何事だ!」

 そんな声と足音を響かせながら、扉を蹴破り押し入ってきたのは、城の兵士たちだった。客室の警備兵なのだろう、四人。全員が揃いの焦げ茶色をした軍服を着込み、槍や短剣で武装している。

 そして少年は確信する。やはり彼女の死が罠だった。兵士たちは部屋に入ると、王女の亡骸を見て絶句した。

(そうだ、見た目は王女だ。その自分が死ぬことで、俺を――いや、もっと違う意味がある。こいつが考えそうなことは……)

「貴様……王女に何をした!」

「誰か、早く人を呼べ! 王女が殺された!」

 飛び込んできた兵士たちが口々に叫び、仲間を呼ぶ。と、その中で――別の声も聞こえた。こちらに向かって槍を構えるひとりが、

「ディミーターの怒りと恨み、思い知れ……!」

「……! やはり兵士を仲間にしたのか!」

 少年は引き気味だった身体を、攻撃のために向け直した。

(兵士どもは既にディミーターの仲間になっている。洗脳だか、仲間の変装だか知らんが、こいつらも敵だ!)

 その激情と共に、少年は突進していった。突き出された槍を避け、反対に兵士の脇腹に剣を突き刺す。再び赤黒い体液が噴き出すのを見ながら剣を引くと、兵士の身体を扉を塞ぐ敵たちに向けて蹴り飛ばしてやった。

 喫驚に思わず仰け反り、転倒し、あるいは飛び退く敵の仲間たち。少年はその隙に部屋から飛び出した。

「待て!」

「黙れッ!」

 一番奥にいた兵士が、廊下に躍り出た少年に向けて短剣を大きく振り被ってくる。しかし少年は無意味なほど大振りなその攻撃をあっさりと避けた。その拍子に兵士はバランスを崩し、転倒していた兵士の上に折り重なる。その上から、少年は剣を突き立てた。

 ぎゃっと悲鳴を上げて一度震え、動かなくなる敵。しかしその間に、他の敵も集まってきていた。暗雲に黒くなり始めた夕刻の光の中、赤い絨毯の上に倒れてそれよりも黒い染みを作る仲間を見て、敵たちは怒りに燃えたらしい。各々に武器を構え、向かってくる。

 少年も同じように、凄絶に吼えた。

「やってやる……お前らが全員、俺の敵だ!」

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