第18話 師匠登場
扉だけじゃない。すごい風圧で体が持っていかれそうになる。
数歩後ずさったところで固いものにぶち当たった。驚いて顔を上げようとしたけれど、身動きが取れない。
なんだか、がっちりホールドされてます?
おなかの前に回された腕で、ようやくロビンソン様が私を吹っ飛ばされないように押さえてくれているのだと気が付きました。
この風圧に人ひとり抱えて立っていられるなんてすごい。
あ……そんなことを言ってる場合じゃなかったんだった。
風の中心に顔を向けると、その真ん中に黒い影が見える。やっぱり……。
「お師匠様!」
そう叫んだ途端、部屋の中を暴れまわっていた風が凪いだ。
巻き上がっていた物たちが、ゆっくりと床に降りてくる。
視線の先にいたのは、やっぱりお師匠様だった。
外したフードからは長い黒髪が暴れ出ている。いつもなら一つにくくってるのに、風でばらけたのだろう。金色の輪っかが額で輝いているのが見える。
つややかな黒髪に縁どられた顔は真っ白で、日焼け一つしない。切れ長の黒い瞳、通った鼻筋、紅の薄い唇。
それ以外は、旅装もマントもマフラーも、ブーツでさえ真っ黒だ。
「何者だ! ここをベルエニー子爵邸と知っての狼藉か!」
「……知らん」
お師匠様はちらりとわたしを拘束しているロビンソン様の顔と、腹部に回されている腕を見て、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「わたしの弟子を回収しに来ただけだ。その手を離せ」
「弟子だと……? アリス殿の師匠だと言うのか」
「ええ、そうです。だから離してください、ロビンソン様」
腹にかかる腕に手をかけて外そうとするものの、びくともしない。やはり男の力にはかなわないのだ。
「それに……そのままだと取り返しのつかないことになる」
お師匠様はロビンソン様にひたと視線を合わせたまま、低い声で告げる。
そうだった。
――混在したままで長く時を過ごせば、元に戻れなくなる。
そう告げられている。一晩二晩では大丈夫だと思っていたけれど、こんなにお師匠様が慌てて飛んできたということは、大丈夫じゃなかったの? もしかして。
「取り返しがつかないって……どういうことだ。アリス殿とテオ殿がどうなるというのか」
「……アリス」
不意にお師匠様の低い声が耳に飛び込んできた。心臓を鷲掴みされたみたいに鼓動が早くなる。
もともとお師匠様の声には感情が乗りにくい。表情もあまり変えないからわかりにくい。
でも……この低い声は、明らかに怒っている声。
「お前――この男に」
「は、話してはいません!」
「でも、知られた。……そうだな?」
ぎゅっと胸元で拳を握る。
「……は、い」
目尻から涙がこぼれる。
どうして……こうなっちゃったんだろう。どこで間違えたんだろう。
「ならばこの地に用はない」
お師匠様が右手を振り上げた。部屋の中に散らばった物たちが、ふわりと浮き上がって元の位置へと戻っていく。
それと同時に、お師匠様の足元にテオの鞄が現れた。ハンガーにかけられたままのテオの一張羅が空を飛んでカバンの中に納まっていく。他にも、わたしとテオの痕跡を残すものは全て。
テオの鞄はそれほど大きくないのに、どうして次々とカバンより大きいものが入るのだろう、と目を丸くして見続けてしまった。
すべてが収納され、元に戻って、ふわりと流れていた風が止まると、お師匠様はわたしのほうに向きなおった。
「来なさい」
「……だめだ、アリスをお前に任せるわけにはいかない」
わたしの体はお師匠様のいう通り、お師匠様の方へと歩こうとするけれど、腹部にかかった腕がそれを引き戻す。
「アリス。この男は処分していいのか?」
「しょっ……」
ロビンソン様が絶句したのが分かった。体がこわばったのも、腕を通じて伝わってくる。
わたしは首を横に振った。
「ダメです」
「何故だ。私が来ることになった原因はその男だろう?」
つきりと胸が痛む。
確かに、二晩続けてピアスを抜かれたのは、おそらくロビンソン様の仕業。
でも、処分なんて……。
「では記憶の消去だけにとどめよう」
「えっ……」
顔を上げると、かなり近いところまでお師匠様は歩み寄ってきていた。
「貴様……魔術師か」
「だったらどうした」
ロビンソン様の腕から力が抜ける。わたしはその隙に腕を外してお師匠様の背後に隠れた。
お師匠様はロビンソン様の額に向けて右手を突き出している。そのせいだろうか、ロビンソン様はひどく辛そうな顔をしていた。
記憶を消す、とお師匠様は言っていたけれど、そんなこと、できるの……?
それに、ロビンソン様の中から自分の記憶が消えることに安心するはずが、どこかもやもやする自分がいる。
どうしてだろう。……もしかして、婚約者のフリをすることで、本当なら味わえなかったはずのことをいろいろ知ることができたから?
それとも……優しくしてもらったから……?
「……西の魔女」
「そんな呼び名もあったな」
「以前、懇意にしている西の塔の魔術師から聞いたことがあってな。黒づくめに白い顔、額の金冠。――こんなところで会えるとはな」
「そうか、よく知っているな。だが……それも忘れろ」
お師匠様はそう言い、ロビンソン様の耳元で何かを囁いた。
たおやかな右手がロビンソン様の頭に軽く乗せられ――ロビンソン様の体は傾いで、床に倒れた。
そのまま、死んだようにピクリとも動かない。ぞくりと身の内が震えた。
「あっ……」
「行くぞ。今日の夜には店を引き払う」
「……はい」
手首をつかまれ、テラスの方へ連れていかれる。
後ろを振り返るけれど、ロビンソン様は倒れ伏したまま。本当に死んでしまったのではないかと思うほどだ。
「お師匠様、まさか……殺したのですか」
「処分はしていない。記憶をいじったせいでしばらく起きないだけだ」
「そう……よかった」
口から自然にでた『よかった』に、なぜか自分でひどく狼狽えた。
今回の一件はどれもロビンソン様のせいだった。でも、悪意があってやったわけじゃなく、むしろそうと知って後悔さえされていたように見えたのに。
……これでまた一人に……いいえ、テオと二人きりになってしまいました。いいえ、お師匠様と三人ですけど、お師匠様がじっとしていることはないし、結局一人きりなのは変わりません。
ハンナさん、カールさん、ごめんなさい。
「安心しろ」
テラスに出たところで、お師匠様は手首から手を離して頭を撫でてくれた。
たおやかな白い手に撫でられると、とがっていた心も次第に穏やかになってくる。
「覗き見したら、お前とテオの秘密を把握しているわけではなかったからな。お前が口走った内容以外は消してない」
「……え?」
「それでも、その姿を見られたからな。ここは引き払う。……王都より離れていて都合のいい街だったんだがな」
「……ええ」
相槌を打ちながら、絶望で塗りつぶされていたわたしの心に、ほんの少しだけ明かりがともります。
今までも、似たような感じでわたしとテオの秘密を知られそうになっては記憶を消して転居、を繰り返してきましたけれど、『わたしたち自体の記憶を消さない』パターンは初めてなのです。
「お師匠様」
「ん?」
「どうして、ロビンソン様だけ見逃してくれるのです?」
「それは……そうだな。お前がもう少し成長して大人の女になったときに教えてやろう」
「わ、わたしはもう十分大人です。からかわないでくださいっ」
そう反発すると、お師匠様はわたしの頭をぽんと叩いた。ほんの少しだけ、その闇色の瞳が優しく細められたように見えた。
「いつか……自分より大事なものができたら大人と認めてやろう」
「テオ以上に大事なものなんてありません」
「だからガキだというんだ」
お師匠様はそれだけ言うと、わたしの両手をつかんだ。足元には白い円状の模様が浮かび上がっている。
「目と口を閉じておけ。飛ぶぞ」
言われた通りに目と口を閉じた途端、浮き上がる感覚がして、意識が途切れた。
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