第6話 馬とは仲良くできそうにない
木陰に腰を下ろそうとして、下半身の悲鳴に思わず声を上げた。
馬に乗ったこともなければ、あんなスピードで走る馬に何時間も揺られたこともなかったのだ。あんなに揺れるだなんて、そしてこんなに腰ががたがたになるなんて、知らなかった。
「いてて……」
膝ががくがくふるえるのをなんとか抑え込んで、僕はようやく木の幹に背中を預けた。
見るに見かねてサー・ロビンソンが途中から僕のお尻の下に脱いだマントをたたんで置いてくれたけど、時すでに遅し。お尻はきっと見るも無残に腫れ上がってるだろう。
……明日姉ちゃんに怒られそうだな。
「すまない、君が馬に乗り慣れていないのを忘れていた。大丈夫か?」
サー・ロビンソンは申し訳なさそうにそう言い、水筒を渡してくれた。
「いえ、僕のほうこそすみません。……サー・ロビンソンは全然痛くないんですか?」
「ああ、もう慣れたものだよ。しかし、急ぎだったとはいえ、馬にしたのは失敗だったな。次回は馬車を準備するから」
「え、いえ」
次、と言われて僕は内心慌てた。
子爵閣下がわざわざ来てくださったのに会えなかったのはまあ、僕のせいではあるけれど、わざわざ呼びつけなくてもサー・ロビンソンに伝えればいんじゃないかなあ、と思ってしまう。
次回、というのは薬の納品だろうか。それこそいつも通りサー・ロビンソンが受け取りに来てくれれば問題はないわけで。
できれば次回はご遠慮したい。
何せ片道何時間もかかるし、領地の境を超えるのには許可がいる。今回はサー・ロビンソンが直接迎えに来てるから、その手続きは省略されるらしいけど、毎回というわけにはいかないだろう。
「そういえば、昨日も気になったのだが、そのピアスはアリスさん……お姉さんとお揃いかい?」
隣に腰を下ろしたサー・ロビンソンが手を伸ばしてきた。右耳の耳たぶには猫の横顔を模したピアスを嵌めてある。目の部分は琥珀が使われている。
「ええ、姉さんのは目の部分が緑なんです」
「ああ、そうだった。……なるほど、目の色に合わせたんだね」
柔らかく笑うサー・ロビンソンに、びっくりしながらもうなずく。今まで揃いのピアスを嵌めてることに気が付いた人も、その目の石が僕らの眼に合わせてあることも、気が付いた人は皆無だったから。
「それにしても、なぜ片耳だけなんだい?」
「これ、もともとは両親の形見なんです。……せめて片方ずつ持っていようって」
嘘八百である。僕は親のことなんて一つも覚えていない。覚えてるのは――僕らを拾ってくれたあの人だけ。これをくれたのも……あの人だ。
「そうか。……辛かったろう」
「そうでもないです。親のことは全然覚えてないんで」
「あ、そう……」
あっけらかんと言ったせいか、サー・ロビンソンは苦しそうに寄せていた眉根を開いた。
うん、僕らの境遇はそんなに悪くない。あの人に拾われて――というか、あの人に拾われたところから僕らの人生の記憶は始まっている。
あの人は厳しかったけれど、おかげで一人でも生きていけるように鍛えられた。
そこに家族がいない悲しみとか苦しみとかはない。こんなへんてこなスタイルではあるけれど、姉ちゃんがいて、あの人も時折帰ってくる。
何も辛いことなんかない。
だから、同情されると居心地が悪いんだ。
「それより、サー・ロビンソン」
ハンナさんにもらったパンを差し出しながら声をかけると、サー・ロビンソンは感謝を表しつつ遠慮なく受け取る。
「何かな?」
「……姉ちゃんのこと、どう思います?」
途端にサー・ロビンソンは咳き込んだ。げほごほと苦しそうに咳き込む背中をゆっくりさすると、涙目になりながらようやく顔を上げた。その顔は、真っ赤になっていたけれど、咳き込んで呼吸が苦しいからなのか、そうでないのかは僕にはわからない。
「……テオ君」
「はい」
「……子供がそういうことを聞くものじゃありません」
「でも、身内のことだし。……どう?」
僕としては、リスクはなるべく減らしたい。
……今朝、サー・ロビンソンが僕らの寝室を覗いたのかどうか。それは知っておきたい。姉ちゃんも僕も、それによってこれからの行動が変わるから。
しつこく食い下がると、ようやくサー・ロビンソンは口元を覆っていた手を外した。
「その……かわいらしい方だと思います。それに優しい」
「優しい?」
「昨日だって、薬を受け取る約束だったのに戻れたのは深夜になってしまって……それでも待っていてくれた。……そのまま一度戻って、今朝あらためて君を迎えに来るつもりだったのに、店に泊めてくれて……」
そうぽつりぽつりとつぶやくサー・ロビンソンの顔はやっぱり赤い。
「そうですか」
「あ、でも風呂は申し訳なかったかな……」
「え?」
「ああ……風呂まで借りられるとは思ってなくて」
それはちょっと驚いた。食事はしてもらったんだろうなとは思ってたけど、風呂までとは。
道理で、うちのシャンプーやせっけんと同じ匂いがしたわけだ。
姉ちゃんは晩に必ず風呂に入る。でも、今朝起きたときの肌のべたつきから、夕べは入ってないんだよね。
きっと、風呂に入る前にサー・ロビンソンが来たんだ。
「アリスさんが風邪をひかれたのはきっと私のせいです。……すみません」
「そんなことないよ、心配しないでください。ああ見えて姉ちゃん、頑丈ですから」
「いいや、そんなことを言ってはいけないよ、テオ君。現に、君の看病の疲れで寝込んでおられるのだろう? きっと、湯冷めしてしまったんだ。……本当に申し訳ない」
湯冷め? ということは、サー・ロビンソンは姉ちゃんが風呂に入ったと思ってるんだ。
「さあ、そろそろ行きましょうか。パンご馳走様でした。美味かったです」
「あ、これはお隣のハンナさんからいただいたんです」
立ち上がったサー・ロビンソンは少し考える仕草をしてからああ、とうなずいた。
「先日私が伝言をお願いしたご婦人ですね?」
「ええ、出かけるときには姉ちゃんのこととかお願いしてるんです」
「そうでしたか。……それなら安心ですね」
伸ばされた手を借りて何とか起き上がると、サー・ロビンソンは僕を軽く持ち上げて馬に乗っけてくれた。
「あと二時間ぐらいで着くから」
「は、はい」
これでもまだ半分しか来てないのか。残り半分を何とか我慢すれば馬の上からはおさらばできる。帰りは馬車を出してもらおう。
ぽっくりぽっくりと歩き出した馬の揺れに合わせて体を揺らしながら、僕はため息をついた。
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