誰かが見ている
枕木きのこ
第1話
誰かが見ている。
それを教えたかっただけだった。
新学期早々に体調を崩し一週間も休んでしまった。
一年のころから同じクラスだった猪瀬勇太郎の甲斐あってすぐにまた新しいクラスに馴染むことが出来たのは、救いだっただろう。流されやすく他人に同調することが得意な彼はすでに中心人物に据えられており、彼を近くに置いておくだけで会話は弾んだ。
新しいクラスには、兼本奈緒子も居た。
彼女と僕の関係は、なんでもない。一年のとき、彼女を見かけて以来、一方的に恋情を抱いているだけで、彼女は恐らく僕の名前すら認知していないのだろうと思う。でもそれでも良かった。毎日、クラスメイトとして顔を合わせ、時折挨拶を交わせるこの状況が僕にとってはすでに幸福で、変えがたい日常だった。
異変に気付いたのは、僕が彼女のことを気に掛けていたからだろうと思う。
復帰してから一週間ほど経ったころ、それまで毎日のように属していたグループから、兼本奈緒子だけが外されていた。朝登校してから、休み時間も、お弁当の時間も、彼女は一人、まるで椅子から離れられなくなってしまったかのようにそこから動くことがなかった。一方でグループは以前と変わらず存在し、購買へパンを買いに行ったり、トイレに行ったり、常に行動をともにしている。
おかしい。
しかし状況が全く把握できていない段階で何か手を打てるわけでもなかった。何より兼本奈緒子本人とも、彼女の属していたグループの女の子たちとも、僕はそれほど親しいというわけでもなく、どういうことなのか、それを言及するほどの度胸もなかった。それに、別に彼女がずっと一人で誰からも話しかけられないと言うわけでもなかったから、このときはこの異変をさほど大事とは捉えていなかった。
またひとつ週が替わり月曜日を迎えるに当たって、それは徐々に露骨なものへ変容していった。それまでは声を掛け、彼女を気にしていたほかの女子クラスメイトも、兼本奈緒子をまるでないもののようにし始めたのだ。誰も彼女の存在を気にしない。居るのに、居ないように振舞っている。
これはと思い猪瀬勇太郎にそれとなく訊ねてみるが、
「そうか? 気にしすぎじゃないか?」
それしか返事は来なかった。
そうなのだろうか。これが僕の、ただの気にしすぎであるならば、何も問題はない。兼本奈緒子の目元に隈がなく、表情の変化が著しく減衰していなければ、多分、何も問題はなかったのだろう。
好きな女の子にこのような変化があって、それなのに見て見ぬ振りは出来なかった。
と言っても、結局はこの段階でも直接兼本奈緒子の属していたグループの女子生徒に話を聞く度胸もなく、なるべくそれに積極性を持っていなそうなクラスメイトを選別し、休み時間にそれとなく呼び出し、行き交う生徒たちの雑踏に埋もれさせるように、
「兼本さんって、なんか、無視されてるの?」
訊ねてみる。
飯沼沙織というその生徒は、事も無げに、
「気付いた?」
そう言った。そこに当然、悪意は見えない。
「どうして?」
「どうしてって」彼女は目を逸らし小さく肩を竦めると、「兼本さんってなんだか悪い人みたいだから」
「悪い人?」飯沼沙織はどうやら僕と同じで、二年に上がって初めて兼本奈緒子と同じクラスになったものらしく、その言い草は酷く他人行儀だった。「何かしたの?」
「坂井さんが言っていたんだけど」坂井美雪は、少し前まで兼本奈緒子と行動をともにしていた生徒の名前だ。「なんかネットで悪口言われたんだって」
「兼本さんが、坂井さんの悪口を?」
「うん。そうみたい。それで、そういうことがあったから、ちょっと懲らしめるのに協力してってメールがみんなに回ってきて」
「懲らしめる? 無視して?」
「そう。坂井さんも別に、それだけで兼本さんのこと嫌になったわけじゃないみたい。ただちょっと、そういうことをすると友達無くすんだよーって教えてあげたいんだって」
「それで、みんな協力してるの?」
飯沼沙織はようやく怪訝な表情を見せてくる。少し、踏み込みすぎたのかもしれない。ただここで、「どうしてそんなに気にするの?」と問われないために、さらに質問を繰り出し間を詰める。
「最初はそんなでもなかったよね」
「まあ……」飯沼沙織はタイミングを外され、少し顎を引いた。「そんなこと言われても、無視されてる人をそのままには出来ないよね」
あるいは彼女も兼本奈緒子に声を掛けていたかもしれない。
「でもそれもなくなった」
「だってさー、兼本さん、いいの、私には構わないでおいて、なんて言うんだよ? こっちが善意で仲間に入れてあげようとしているのに、向こうが非協力的なんだもん。じゃあ知らないってなっても仕方なくない?」
その弁明の裏に、どのような思考が働いているのかはわからなかったが、折り悪くチャイムが鳴り、僕たちは同じ教室に戻るのにその場で解散した。
自販機で缶コーヒーを買ってそれを飲みながら教室に戻る。なるほどどうやら、先導しているのは坂井美雪やそのグループのほかの女子生徒らしかったが、兼本奈緒子本人に全く非がないわけでもなさそうだった。
どうして兼本奈緒子がそのように好意を無下にする言動を取ったのかはわからない。もしかすると「私に関わるとあなたも標的になるから」という、それも彼女の善意だったのかもしれない。そうだとすると、これほど世の中というものはうまく行かないのだろうかと悲しくなる。
世界史の授業中、教諭が訥々と言葉を漏らしながら黒板と向かい合っている。生徒の半数は眠りの中で、小さく寝息が届く。僕は前の席で袖に隠したイヤホンから音楽を聴いている田中信二の背中を突いた。彼は気付くと、先にウォークマンを操作して音楽を止めてから、こちらに振り向いた。
「何?」
「ちょっと」
言って、ノートの切れ端を渡す。このように怠慢な授業でも、余り話し声を立てるのは好ましくない。
切れ端に書いてあることを読み終えた彼は、意味がわからないと言う風に表情を歪めて見せたが、こちらが返事を書くよう仕草で促すと、溜息を漏らしてからペンを取った。
「悪いけどなんとも思わない」
それが返事だった。
こちらの書いた「兼本ってなんか無視されてるっぽくない?」という物への返事だった。
両手を合わせて頭を下げると、彼はまた頬杖を突く形で音楽を聴き始めた。
女子生徒の大半は意識的に兼本奈緒子を避けているようだったが、男子生徒は多分そもそも兼本奈緒子との関係が希薄なせいか、特段気にしていないと言うのが現状らしかった。確かに僕もその標的が兼本奈緒子でなければ田中信二と同じように全く何も気にしなかったのだろうし、そもそも異変が起きていることにすら気が付かなかっただろうと思う。大抵、興味のあるもの以外に対しては最低限の情報しか収集しようとしない。せいぜいが「兼本奈緒子」という名前とクラスに居る女子生徒の顔を照らし合わせてファイリングしているだけで、そのプロフィールはほとんど白紙のままなのだろう。それは致し方ないことだった。
昼休みになって猪瀬勇太郎とともに購買へ行く最中、
「もし僕がお前の悪口をネットに書いたら、どうする?」
訊ねてみると、
「はあ?」軽い笑みを浮かべて、「殴るわー」
「殴って終わり? 無視したりしない?」
そう続けると、彼は首を捻った。
「無視はしないと思うけど。したとしても多分すぐ飽きるからね」それから購買で目当てのパンを買うと、「何お前、俺の悪口どっかに書いたわけ?」
「違うよ」両手を振って否定した。「ただ、どうするかなと思っただけ」
「変なこと気にしてるなあ」肩を叩かれる。「それなら書かなければ良いだけじゃん」
「まあ、そうなんだけど」
煮え切らない態度を言及されることはなかった。
同じ場面においても、男子生徒と女子生徒でやり方は異なる。ならばその異変を察知できなかったとしても無理はないのだろう。僕以外の誰も、今同じクラスの女子の中で渦巻いている醜悪な事態に気付いていない、もしくは気にしていないことを再確認した。
ならば僕がどうにかしなければならないのではないか。猪瀬勇太郎の言葉を信じてみても、坂井美雪とは基本的に脳の構造が違う。彼女たちが無視に対して飽きるかどうかはわからない。懲らしめる、がいつまで続くのかはわからない。
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