32 そのとき
「嫌な予感?」
「ええ。よくわかりませんが、上、つまり地上のほうから何か重たい空気みたいなものが迫っているとでも言うような」
「重たい空気?」
「うまく言葉にできませんが、物理的にと言うより『心を重くする』、そういった感じですかね」
難しい顔をする哲也に対してアオイはすこしニコッと微笑んだ。
「テツヤ君の『予感』ってよく当たるんでしょ。前にミオがそう言っていたわ」
「ミオがそんなことを。そう言えば最近ミオの姿を見ないんですが、アオイさん何かご存じないですか」
「そうね。そう言えば私も最近会ってないわ。協定の締結以降みんな忙しくしていたからそんなに気にしていなかったけど」
「そうですか。俺の心配のしすぎかな」
「ふふっ。テツヤ君って本当にミオのことが好きなのね」
途端に哲也の鼓動が跳ね上がる。
「い、いや。やっぱりそうなのかな。ミオのことが気になるのはパートナーだから当然だとも思うし。でも何かそれだけじゃないような気もするし。胸が苦しくなって頭の中がモヤモヤして、時々『あーっ!』と叫びたい気分になるんです」
「間違いないわね。それが『好き』ってこと」
「そうなんですか。そうか、俺はミオのことが『好き』なのか」
「まあ、私とエリカにはこうなることは始めからわかってはいたんだけどね」
「えっ。それはどういうことですか」
「おっといけない。これはテツヤ君には話しちゃいけなかったんだっけ。エリカに知られたら怒られるわ。だからテツヤ君も忘れてね」
「ちょっと。いくらカワイイ顔でウインクして『忘れてね』なんて言われても忘れられるわけないじゃないですか。教えてくださいよ」
「さーてっと。私はアレをああやった後にコレをこうやって……、っと」
「とぼけないでくださいよ。ああっ、逃げないでください、アオイさーん」
■「そのとき」まで、あと5分
協定の成果を試す一大作戦が間もなく始まろうとしているのに、哲也はアジト内で雑用に追われていた。
ミオの姿が未だに見当たらなかったからだ。
航路において行動の基本単位はふたり一組。その大事なパートナーがいないのだから、航路としても哲也を前線に送り出すわけにはいかなかったのだ。
ただ単に哲也を作戦行動に参加させるだけならば方法はある。どこかの部隊にその一員として加えればよいのだ。しかし今回の作戦において哲也にはある重大な任務が課せられていた。自由の旗との連絡を取り持つことである。なのでその任務のあいだは哲也が加わった部隊には行動に制約がかかってしまう。そのような部隊の存在を許すほどの人員の余裕は、いかに航路といえどもまだなかったのだ。
すでに自由の旗とのあいだの最終連絡はすんでいた。航路、自由の旗ともに作戦準備は完了していた。後はよほどのことが起こらない限り作戦開始予定時刻と同時に両者は行動を開始するだろう。
エリカは航路側の作戦本部となった会議室中央の席に、さっきから目を閉じて座っている。
「作戦開始十分前。各部隊異常なし。秒読みを続行します」
「作戦地点の天候、風向風速ともに問題なし」
「各地の政府軍に動きはありません」
会議室内のスタッフから淡々とした報告が続く。
間もなく緊張は頂点に達しようとしていた。
■「そのとき」まで、あと1秒
「作戦開始五分前……」
その言葉が言い終わるか言い終わらないかという瞬間だった。
突然、大地が揺れた。
轟音が響き、地下にある会議室の天井から砕けた小石状の破片が飛び散った。と同時にすべての照明が消えた。アジトのあちこちから悲鳴が上がった。
“地震?”
誰もがそう思った。しかし違っていた。連続した揺れでなく断続的な衝撃が次々にアジトを襲っていた。
「状況を報告せよ」
非常灯の明かりだけの中にエリカの冷静な声が響き渡った。
「大変です。政府軍の攻撃です」
大慌てで会議室に飛び込んできた部員が言った。
「ばかな。すべての政府軍部隊の動きは我々の監視下にあるはずだ。そしてつい五分前までそれらの動きに異常はなかった」
次の瞬間、ハッとエリカは気づいた。自分たちは確かにすべての政府軍部隊の動きを把握している。しかしその監視網から外れた部隊がたったひとつだけあることを。政府内部でもごく一部の者しかその存在を知らない謎の部隊。航路を始めとするレジスタンス組織にとって最も恐れるべきその部隊。それは……
すかさずエリカは報告に飛び込んできた部員に向かって問い詰める。
「やつらは政府軍で間違いないのだな」
「はい。通常の手順に従って確認しました。間違いありません」
「紋章はどうだ」
「は?」
「帽子だ。指揮官の帽子の紋章を確認しろ。大至急だ」
部員は大慌てで会議室を飛び出していった。
「総員に告ぐ、作戦は中止だ。繰り返す。作戦は中止だ」
さっきまでの冷静なエリカとは打って変わった激しい口調だった。
「テツヤはいるか。急いで私のもとに呼べ」
エリカは怒鳴った。哲也がエリカのもとに駆けつけた。ほぼ同時に先ほどの部員が飛び込んできた。
「蛇です。楕円の中に蛇が描かれた紋章をつけています」
「なんだと。ちゃんと確認したのか」
「複数で何度も確認しました。楕円というか数字の0のような記号に蛇の紋章で間違いありません」
「よし。総員武器を取れ!」
エリカは叫んだ。そしてそのまま哲也のほうに向き直った。
「自由の旗に連絡。『風が吹いた』、と」
「『風が吹いた』、ですか」
「そうだ、それでわかる。急げ!」
哲也はあわてて会議室を飛び出していった。
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