11 疑念

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 二週間はあっという間に過ぎた。哲也の期待した“アクシデント”はあの一度きりで終わってしまった。いや一度で十分だった。あのときのあのレイラのギラッと光った目、あの目を見ただけで彼の何かを期待する気持ちはすっかり吹き飛んでしまっていた。


 しかしわずか二週間だが変化はあった。最大の変化はレイラその人だ。あの“首締め事件”の後、正確に言うとその翌朝の“土下座騒動”の後からだが、レイラの哲也に対する態度に変化が現れ始めた。


「一緒に暮らしていながら互いになんだか固すぎると思わないか。どうだテツヤ君。これからは互いに『テツヤ』『レイラ』と呼び合わないか」


 あの日の夕食時、レイラがわずかに声を震わせながら言ったこの言葉を哲也は信じられない気持ちで聞いていた。「上下関係はきっちりさせておかないと」と言ってそれまでの呼び方を決めたのはほかならぬ彼女だったのに。


 いや、それ以上に哲也を驚かせたのはそのときのレイラの声の調子だった。それまでの隙のない沈着冷静を体現したかのようなレイラの口調に震えが感じられたのだ。あれは一体どういう心境が引き起こしたものだったのか、哲也には見当もつかなかった。


 そしてそれと同時にレイラの哲也に対する言葉遣いも変化を見せていった。あの威圧感さえも感じられる口調が次第に影を潜め、穏やかな口調が増えていった。ただし対等というわけでなく保護者然とはしていたのだが。


 平穏な、そして平凡な共同生活に変化をもたらしたものがもうひとつあった。あの謎の少女の声だ。


 しかしある日を境に哲也側の状況が変わった。それまでは外出先で哲也がひとりになることは何度かあった。しかしその日からそれはほとんどなくなってしまったのだ。

 外出先でレイラが彼から離れなければならないような場合、ほぼ必ずといっていいほど彼女の“知り合い”が現れるのだ。そしてレイラが不在のあいだ、その人物が哲也と一緒にいることになる。始めはなんとも思わなかった哲也だったが、繰り返されるうちに疑念が湧いてきた。


“もしかして俺をひとりにさせないためか”


 その疑念が浮かんでから哲也はその“知り合い”から離れるチャンスを作ろうと何度も試みた。飲み物を買いに行くといった口実を考えるのだがなかなかうまくいかなかった。そうして作り出されたわずかな時間の中で数度だけあの謎の少女と言葉を交わすことができた。しかし長い会話は不可能だった。姿を見ることさえも。


 そんな共同生活にも終わりの時が近づいて来ていた。明日はいよいよ哲也へのチップ埋め込み手術が行われることになっていたのだ。


「いよいよ明日か」

 夕食のテーブルでレイラは哲也に感慨深げに話しかけた。


「うん……」

「どうしたんだ、元気がないな。もしかして今日までの訓練にすっかり参ってしまっているんじゃないだろうな」

「そんなことないよ、あれくらいへっちゃらだったさ」

「そうか。じゃあ今になってチップの埋め込みが怖くなったかな」

「違うって。今日だって新たなチップの便利さを見せつけられたじゃないか」

「そうだったな。じゃあなぜ元気がないんだ」

「うん。ちょっといろいろ考えていることがあって」

「なんだ。話してみてくれないか」

「今はいいよ。明日訓練センターに行く車の中で話すよ」


 哲也は思わずレイラの顔から目線を逸らしていた。



 その夜、哲也はベッドに横たわっていた。しかし頭は冴え、目は爛々と見開かれ、とても眠れそうになかった。ひとつの言葉だけが繰り返し彼の頭の中にこだましていた。


「そうよ。あのチップこそが政府が民衆を操る『かなめ』なんだから」


 そう、それはあのときの謎の少女の言葉だった。


 あのチップで政府は民衆を操っている。確かにあの謎の少女はその具体的な証拠を示したわけではない。でも考えれば考えるほどそれはありそうなことに思われた。


 脳に直接情報を書き込めるということは、政府に都合のいい情報だけを選別して書き込むといったことができるのではないか。


 目で見た、耳で聞いた内容を取得できるということは、個人が見聞きした情報が政府に筒抜けにできるのではないか。


 もちろんそれらはあくまで“可能性”に過ぎない。


「それにだ」

 ぽつっと哲也はつぶやいた。

「レイラが俺をだましているなんてことがあるだろうか」


 そのとき彼の脳裏にある光景がよみがえってきた。あの公園で彼が人影を見たと言ったときのレイラの様子。植え込みの内外を必死になって調べるレイラの様子。今考えると単に「人影を見た」だけあそこまでするのは明らかに不自然じゃないのか。


「そうだ、レイラは知っていたんだ」


 そう。その人影が“反政府組織の人間”のものであるということを。しかもそのときの彼女はそのような組織の人間を恐れる様子もなく、反対に積極的に探し出してやろうとしていた。


「そしてあの首締めだ」


 レイラが人ひとりを「殺してやろう」としたあのときの様子。あれはとっさにした行為なんかじゃない。彼女は殺すべき相手に遭遇するかもしれないことを承知していたのだ。あの動きは彼女が“殺す技術”に長けている証拠だ。


 唐突に哲也は理解した。首締めのいいわけに彼女が言いかけた言葉「レジ」の意味を。あれは「レジスタンス」だったのに違いない。レジスタンスとは政治的抵抗運動のこと。この時代には政府に抵抗するレジスタンスがいるのだ。そしてあの謎の少女とその仲間こそがそのレジスタンスの一派に違いないと。

 それらから導き出される結論はひとつだけ。


「レイラは政府側の、しかもレジスタンスと直接対峙する立場の人間なんだ」



 車は今日も快適に訓練センターに向かって走っていた。チップの埋め込み手術もそこで行われることになっていたのだ。

 レイラは機嫌が良さそうだった。一方哲也は、車がセンターに近づくにつれて、暗く、重い気分が強くなっていくのだった。


「で、何かな。いろいろ考えていることって」

 レイラは哲也に明るく尋ねた。


「ああ。レイラは俺がチップを埋め込まれるまでのサポートとしていてくれているんだよね」

「そうだが」

「じゃあ、今日俺がチップを埋め込まれたら、その後はどうなるのかな」

「なんだそんなこと心配していたのか。まあ規定ではテツヤはこれからひとりで生きていくことになるな」

「やっぱり……」

「もしかして私と別れるのが嫌なのか」

「まあ、ね」

「うれしいな。そう言ってもらえると」


 レイラは笑った。それはもしかしたら哲也が初めて見た彼女の笑顔だったのかもしれなかった。


 そして哲也は気づいた。レイラの口紅の色が以前とは違うことに。初めて会ったときそれは鮮やかな紅だった。それが今は同じ紅でもすこしピンクがかって見えた。


「レイラ、もしかして口紅変えた?」

「なんだ、今頃気づいたのか。もう一週間ほどになるぞ」

「えっ」

「いかんな、そんなことではモテないぞ。やれやれ、先が思いやられるな」


 ふたりは笑った。哲也はレイラの顔を見つめた。その笑顔に嘘があるようには見えなかった。それを見て、哲也は“あのこと”を話題にする決心がついた。


「ねえ、レイラ」

「何かな」

「これはアヤとミクにも『レイラに聞いちゃダメ』って言われていたことなんだけど」

「なんのことかな。スリーサイズなら答えないぞ」

「違うよ。レイラってもしかして、ものすごく危険な仕事をしているんじゃない?」


 レイラの顔からサッと笑顔が消えた。


「やはりやつらと接触していたんだな」


 しばしの沈黙の後に放たれたその言葉には何か悲しい響きがあった。

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