10 土下座騒動

 翌朝、哲也はびくびくしながらキッチンへと入っていった。レイラがそこにいた。そこにいるのはわかってはいたはずだが彼は自分がギョッとするのを押さえられなかった。昨夜の出来事からまだ完全には立ち直っていなかったのだ。


 レイラは朝食の準備をしていた。すらりとしたその姿に昨夜の一糸まとわぬ姿が哲也の目に一瞬ダブって映った。


“あんなことがあって、なんて声をかければいいんだろう”


 哲也は話しかけるのを躊躇していた。レイラの方から彼に気づいて声をかけてきた。


「おはようテツヤ君。よく眠れたかな」


 その声の調子は昨日までと変わりないように哲也には聞こえた。


「昨日はすいませんでした!」


 哲也はレイラの前にすばやくひれ伏した。そして額を床にこすりつけた。

 レイラはその様子をポカンとした表情で見つめている。


「テツヤ君、一体それはなんだ。ああ、確か何かの資料で見たことがあったな。それが“ドゲザ”か。確か君の時代ではきれいな女性の目の前でするものだったかな」

「へ?」


 レイラの反応は哲也にとって思いもかけないものだった。彼は思わず拍子抜けしたような声を出した。土下座の姿勢のまま顔だけを上げてレイラの表情をうかがう。冗談を言っているようには見えなかった。


「どうした、そんな顔をして」


 レイラは朝食の準備の手を止めて哲也の顔をのぞき込んだ。その不思議そうな表情は彼女が土下座の意味を理解していないのではという疑いを哲也にもたらした。


「レイラさん、土下座っていうのは日本における最大級の謝罪を表す行為なんだけど」

「えっ、そうなのか」


 今度はレイラが素っ頓狂な声を出す番だった。


「そんなはずはない。何を調べているときだったか記憶が定かでないが、昔の資料の中にあった画像に、青とか緑の服……。うーん、なんという名前だったかな。そう、確か“Tシャツ”だ。何かのイベント会場のようなところでそのTシャツを着た男がきれいな女性の足元でドゲザしているのがあったぞ。それもひとつやふたつなんてものじゃない。あれがすべて謝罪の場面だと君は言うのか」


 レイラは本気で哲也の言葉を疑っていた。彼女が土下座の意味を誤解しているのは間違いなかった。


「レイラさん違う。それたぶん特殊な用法」

「なんだと。私が間違っているというのか」


 哲也の指摘にレイラは反発をあらわにした。彼はゆっくりと説明を始めた。


「今の時代はどうか知らないけれど、二百年前では謝罪することを『頭を下げる』とも言ったんだ。地面に頭をつけるっていわば最大限に頭を下げた状態だろ。だから土下座は相手に対して最も強く謝罪の意を表す行為になったんだ。さらに元の『最大級の謝罪』って意味から転じて相手への『屈服』『服従』を象徴する行為にもなっていったんだ。ここまでがまじめな話。

 そしてそこから『女性への服従』という意味に使う人たちが現れたんだ。ただし真剣じゃなく一種のギャグとしてだけどね。レイラさんが見たという画像はおそらくそういう場面だと思う。全部『イベント会場のようなところで』っていうのがその証拠」


 哲也の説明をレイラは静かに聞いていた。


「なるほど。その説明だと私が誤解していたとしてもまあしかたがないな」


 レイラは何事もなかったかのように朝食の支度に戻ろうとした。


「ちょっと待って」

「なにかね」

「人のこと嘘をついているかのように言っておいて、自分が間違ってるのがわかってもなんもなしっておかしいでしょ」


 哲也は少し怒っていた。自分の言葉が疑われたこと、誤解をそのままうやむやにされそうなことに怒っていた。

 レイラはむっとした。


「君は誰に向かってその言葉を言っているのかわかっているのか」

「誰に向かってだっていいだろ。レイラさんは俺の言葉を疑った。それにはそれなりの理由があったとしても落ち度のない俺を責めたことに変わりはない。ひとこと謝ってもらわないと」


 一気にまくし立てて哲也はハッと気づいた。レイラの目に怒りの兆候があることを。彼女を怒らせてしまったかもしれない、あの首締めがもう一度来るかもしれない、と。


 しかしレイラの反応は違っていた。彼女は目を丸くして哲也を見ていた。彼が彼女のことを恐れず真っ向から歯向かってきたことが意外だった。彼女の目から怒りの兆候がスッと消えた。


「君の言うことはもっともだ。謝らせてほしい。すまなかった」


 あっさりとレイラは謝った。それだけでは終わらずさらに続けた。


「これでは私の気がすまない。テツヤ君、私に罰を与えてくれないか」

「えっ」

「何でも命じてほしい。私は甘んじてそれを受けよう」


 哲也は呆気にとられた。あのレイラの全面降伏が信じられなかった。ただ罰を「何でも」とは言われたものの何をやってもいいわけがない。しかし彼の頭の中に一瞬レイラの唇と胸が浮かんだのは事実だ。しかしそんなことをやろうものなら後がコワイ。

 哲也はしばし考えた。そして決めた。


「わかった。じゃあ目をつぶって」


 レイラは一瞬意外そうな顔をしたが、素直に眼を閉じて直立の姿勢をとった。

 ペチッという小さな音が響いた。


「もういいよ。目を開けて」

 哲也の言葉にレイラは不満そうに目を開けた。


「何だ、今のは」

「デコピン」

「でこぴん?」

「そう。俺の時代のちょっとした罰。痛かった?」

「いや、大したことはなかったが。いいのか、こんなので」

「俺は謝ってもらえただけで十分。これはおまけみたいなものだから」

「そうか。君のことだから私はてっきり何かエロいことをされるのかと覚悟したぞ」


 レイラのニヤリとした表情に獲物の隙を狙う鷹の姿がダブる哲也。


「ま、まさか俺がレイラさんにそんなことするわけないでしょ。もしかして昨日のことまだ怒っているんじゃ……」

「それは安心してもらって構わない。もう怒ってはいない」

「本当に?」

「本当だ。でももしもう一度やったら……」


 レイラの目がギラッと光った。あのときと同じ光だった。


「も、もう一度やったら?」

「そのときは覚悟しておくことだな」


 レイラは再びニヤリと笑った。哲也は背筋に氷の冷たさが走るのを感じていた。

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